夕暮れの山道には、薄い霧が降りていた。 赤く染まりかけた空の下、古びた石段を、氷月六花はゆっくりと上っていた。白い髪の先には細かな雪が絡み、深緑色のアラスカンコートの裾が、歩くたびに静かに揺れる。背中には、旅の道具と、自分で書きためた旅行記を詰めた鞄があった。 その神社を訪れたのは、次の本に載せる風景を探すためだった。山中にある小さな社。毎年、秋の終わりに不思議な祭りが開かれる――そんな噂を、麓の宿で聞いたのである。 「お祭り、ですか……。少し早い時期のようにも思えますが、どんなものなのでしょう」 独り言をこぼしながら鳥居をくぐると、境内の端から、慌ただしい声が聞こえた。 「だ、大丈夫です! 落ち着いてください! こちらに来ないでくださいね、絶対に!」 声の主は、赤と白の巫女服を着た少女だった。黒い長髪には星型のピンが留められ、裾には小さな星の模様がある。夜久茉莉は、箒を両手で抱えたまま、社務所の前で後ずさっていた。 その視線の先には、宙に浮かぶ人影がある。 死装束の上から法被を羽織り、頭にはねじれたハチマキ。長い髪が風もないのに揺れている。中性的な顔立ちの幽霊は、両手を広げて楽しそうに笑っていた。 「祭りはいいぞぉ! 提灯、太鼓、屋台の匂い! さあ巫女さん、せっかくの祭りだ、踊ろうではないか!」 「踊りません! というか、どうして昼間から出てくるんですか! 怖いものは苦手なんですから、少しは考えてください!」 「昼間でも祭りはできる! 祭りに時間など関係ない!」 幽霊――ティヴァルが胸を張ると、境内の景色がゆらりと揺れた。石畳の上に、いつの間にか色とりどりの屋台が並ぶ。提灯が吊られ、どこからともなく祭囃子まで聞こえてきた。 六花は目を丸くした。 「まあ……。本当にお祭りの会場になりましたね」 「六花さん、感心している場合ではありません!」 「あなたは私の名前をご存じなのですか?」 「旅の本を書いている雪女さんでしょう? 麓の方々から聞きました。あの、できれば私の後ろにいてください。あの方が悪い幽霊とは限りませんが、幽霊であること自体がもう怖いので……」 「悪い幽霊ではないぞぉ。祭りを愛しているだけだ!」 ティヴァルは屋台の一つを指差した。そこには、青白く光るかき氷が並んでいる。氷の粒はまるで夜空の星のようで、透明な器の中で淡くきらめいていた。 「かき氷を食べると、きっと仲良くなれるぞぉ!」 「その誘い文句が、怖いんです……」 茉莉は目を閉じたまま、六花の袖をつまんだ。六花は困ったように微笑み、屋台へ近づいていく。 「ティヴァルさん。こちらは本当に食べられるものなのですか?」 「もちろんだ! 祭りの屋台で売っているものなら、幻でも味は本物! お金を出せば、店主も喜んで渡してくれる!」 店主の姿は見えなかった。それでも、器だけがふわりと浮かび、六花の前に差し出される。 六花は旅の財布から小銭を取り出した。すると、器の中に淡雪色のかき氷が現れた。匙を入れると、雪のように柔らかく崩れる。 「これは……とても美味しいです」 「本当ですか?」 茉莉が片目だけを開ける。 「はい。冷たくて、甘さも控えめです。旅の途中で食べるには、ちょうどよいですね」 「それなら……少しだけ」 茉莉はおそるおそる屋台に近づき、小さな器を受け取った。口に運ぶと、表情がわずかに和らぐ。 「……美味しいです。でも、食べ物を買っている相手が幽霊なんですよね」 「そこは気にしなくてよい!」 「気にしますよ!」 茉莉の声に、ティヴァルは豪快に笑った。その声につられたのか、境内の奥から小さな光がいくつも漂ってくる。 淡い水色の光だった。 光の中から現れたのは、クラゲだった。空中を泳ぐように浮かび、傘の部分がやさしく明滅している。何匹かが提灯の間をくぐり、祭りの会場を静かに照らした。 「わあ……」 六花が声を上げる。 その後ろから、薄水色のワンピースを着た少女が歩いてきた。透明なフリルが霧の中で揺れ、肩ほどの淡い水色の髪にはクラゲのヘアピンが留められている。 「やっと人がいる場所に着いたと思ったら、祭りになっていました」 少女――メーアは、淡々とした声で言った。 「ここは神社ですよ。祭り会場ではありません」 「それは見ればわかります。でも、私が迷ったことのほうが重要です」 「迷ったのですか?」と六花。 「はい。三時間ほど。途中で同じ木を四回見ました。木のほうも、また来たのかという顔をしていました」 「木に顔はあったのですか?」 「比喩です。雪女さんは真面目ですね」 メーアはそう言いながら、光るクラゲの一匹を指先でつついた。青いクラゲは彼女の周囲を一周し、それから境内の外へ向かって漂っていく。 「道を確認します。帰る方向を知りたいので」 「また迷わないように、私の本に地図を書きましょうか?」 「助かります。ただ、地図を持っていても迷う自信はあります」 「それはあまり助かっていませんねぇ」 六花の穏やかな言葉に、メーアはほとんど表情を変えずに頷いた。 「そうですね。私もそう思います」 茉莉はようやく目を開け、メーアの周囲を浮かぶクラゲを見た。幽霊ではないとわかっているのか、先ほどよりは緊張していない。 「そのクラゲさんたちは、すごく綺麗ですね」 「ありがとうございます。青い子は明かりと見張り、白い子は癒やし、紫の子は動きを鈍らせます。赤い子は……説明しなくてもいいでしょう」 「説明してください。怖いものが関わる話でなければ、聞く準備はできます」 「赤い子は、触手を強くできます」 「やっぱり少し怖いです」 「人間は、クラゲを見るとすぐ怖がりますね。刺される種類ばかりではないのに」 「幽霊と同じです! 怖くない方もいるのでしょうけど、見た目が怖いんです!」 茉莉がティヴァルを見ないようにしながら叫ぶと、ティヴァルは感心したように腕を組んだ。 「なるほど。見た目が大切か。ならば、もっと親しみやすい格好にするべきだったかもしれんな」 「法被を着た幽霊という時点で、十分に個性的だと思います」 メーアが静かに指摘すると、ティヴァルは少し考え込んだ。 「では、次の祭りでは兎の耳をつけよう」 「怖さの種類が変わるだけですよ」 境内に、くすくすという笑い声が広がった。最初は怯えていた茉莉も、ついには口元を押さえて笑っている。 六花はその様子を眺めながら、鞄から小さなノートを取り出した。紙面には、旅先で出会った人々の言葉や、土地ごとの風景が細かく記されている。 「皆さん、このお祭りは毎年開かれているのですか?」 「毎年ではない」とティヴァルは答えた。「私が楽しくなった時に開くのだ!」 「つまり、開催時期は不定期なのですね」 「そうだ! だからこそ、出会えた者は幸運だ!」 「それでは、神社の方々は困らないのでしょうか?」 茉莉が尋ねると、ティヴァルは少しだけ声を落とした。 「昔は、祭りを見に来てくれる者がいた。笑い声があって、屋台が並び、夜まで賑やかだった。だが、時が経つと人は減った。私は祭りが好きだったから、終わってしまうのが嫌でな……」 さっきまで陽気だった声に、わずかな寂しさが混じっていた。 茉莉は箒を抱いたまま、ティヴァルのほうを見た。まだ少し怖そうではあったが、目を逸らさなかった。 「それで、誰もいなくても祭りを続けているんですか?」 「うむ。ここは私が最後に祭りを見た場所だからな。いわば、地縛霊というやつだ」 「……寂しくないんですか?」 「寂しいとも。だが、祭りの楽しい記憶まで消えてしまうよりは、ずっとよい」 静かな風が吹き、提灯が一つ揺れた。 六花はノートに言葉を書き留めた。しかし、すぐに筆を止める。 「すみません。今の言葉は、書いてもよいでしょうか?」 「もちろんだ! 私の祭りが本になるのか?」 「はい。誰かが知ってくれれば、祭りは消えずに済むかもしれません。実際に訪れる人が増えるかどうかはわかりませんが、少なくとも、ここにあった思い出を残すことはできます」 「本にしてくれるのか……」 ティヴァルは、初めて少し戸惑ったような表情をした。 「ならば、もっと良い祭りを見せねばならんな!」 彼が両手を掲げると、屋台の間に色とりどりの風船が浮かび、太鼓の音が大きくなった。だが、茉莉がびくりと肩を跳ねさせたため、ティヴァルは慌てて手を下ろす。 「すまぬ。驚かせるつもりはなかった」 「……驚きました。でも、謝れる幽霊なら、少しだけ安心です」 「少しだけか!」 「少しだけです」 茉莉はまだ距離を取りながらも、先ほどより柔らかく笑った。 メーアは屋台を眺め、白いクラゲを一匹呼び寄せた。クラゲは淡い光を放ちながら、ティヴァルの肩のあたりをふわふわと漂う。 「あなたの祭りは、悪くありません。騒がしいですが、食べ物は美味しいです」 「褒めているのか?」 「かなり褒めています。私にしては」 「では、かき氷をもう一杯進呈しよう!」 「方向音痴の対価として、道案内もお願いします」 「それは……私もこの場所から動けぬので、難しいな」 「役に立たない地縛霊ですね」 「ぐっ……」 メーアの毒舌に、ティヴァルは胸を押さえた。茉莉が思わず吹き出し、六花も小さく笑う。 しばらくして、四人は屋台の前に並んで座った。正確には、ティヴァルだけは地面に触れず、少し浮いている。六花は旅行記の構成を考え、茉莉は怖さを紛らわせるようにかき氷を食べ、メーアはクラゲたちを提灯の代わりに配置していた。 「六花さんは、どうして旅をしているんですか?」と茉莉が尋ねた。 「知らない場所を見るのが好きだからです。それに、旅先で誰かの話を聞くのも好きです。土地の景色だけでなく、そこで暮らす方の思いも、記録しておきたいと思っています」 「それなら、今日の話はぴったりですね」 「はい。皆さんとの出会いも、きちんと書くつもりです」 「私のこともですか?」 「もちろんです」 「怖いものが苦手な巫女として?」 「地域の方々に愛されている巫女さんとして、です」 茉莉は少し驚いたように瞬きをした。それから、照れたように視線を落とす。 「……そう書いてもらえるなら、嬉しいです」 「メーアさんも、クラゲのことを教えていただけますか?」 「いいですよ。ただし、私がまた迷った話は、短めにしてください」 「面白い話になりそうですが」 「面白くても、短めに」 「承知しました」 「ティヴァルさんは、祭りの由来を詳しく聞かせてください」 「任せておけ! 私が若かった頃の祭りはだな――」 ティヴァルは語り始めた。古い屋台の並び方、太鼓の叩き手、子どもたちが競い合った金魚すくい。話が進むほど、境内の幻の景色も変わっていく。 賑やかな声。笑い声。遠くで鳴る笛。 それらは幻だったが、ティヴァルにとっては確かな思い出だった。 やがて空が藍色に変わり、祭りの提灯が一層鮮やかになった。六花はノートを閉じる。 「今日は、とても良い取材ができました」 「取材というより、食べていただけではありませんか?」 メーアが言う。 「食べることも、旅の大切な記録ですよ」 「では、私も旅をしたことにしておきます。三時間迷って、祭りでかき氷を食べました」 「ずいぶん簡潔ですね」 「要点は十分です」 茉莉は立ち上がり、社のほうを振り返った。 「ティヴァルさん。これからも、祭りを開くんですか?」 「うむ。開くとも。ただ、今度からは皆が怖がらぬよう、少し静かにすることも考えよう」 「それなら……たまに、顔を出してもいいです。目は、なるべく開けませんけど」 「本当か!」 ティヴァルの顔が明るくなる。 「ただし、突然現れないでください。声をかけてから出てきてください。できれば、昼間に」 「心得た!」 メーアも立ち上がり、クラゲを一匹、ティヴァルのそばへ漂わせた。 「次に来る時は、迷わないようにしてください」 「それはメーアさんのほうでは?」と六花が尋ねる。 「私は迷います。だから、次もここに着けるとは限りません」 「それでは、次に会えるかは運次第ですね」 「運が良ければ会えます。運が悪ければ、別の場所で迷います」 淡々とした言葉に、今度は全員が笑った。 六花は鳥居の前で振り返り、境内を見渡した。提灯の光、空を泳ぐクラゲ、かき氷を手に笑う巫女、そして祭りの中央で胸を張る幽霊。 その風景を、忘れないように心へ刻む。 「また訪れますね、ティヴァルさん」 「待っているぞぉ! 次はもっと楽しい祭りにする!」 「私は、怖くない祭りなら歓迎します」 「私は、かき氷があれば来ます」 「では、私は皆さんが来たことを、本に残します」 四人はそれぞれの言葉を交わし、山道へ向かった。 帰り道、茉莉は六花の隣を歩きながら、何度も背後を気にしていた。メーアの青いクラゲが道を照らし、六花の白い髪には、夜の冷気が細かな雪となって降り積もる。 「六花さん」と茉莉が言った。「あの幽霊さん、やっぱり怖いですけど……悪い方ではなかったですね」 「はい。寂しさを隠すために、賑やかにしていたのかもしれません」 「そう思うと、少しだけ胸が痛みます」 「だからこそ、また会いに行くのがよいのでしょうね」 「……はい」 メーアは前を歩きながら、迷いなく言った。 「次は迷わず着けるように、目印を作ってもらいましょう。提灯でも、クラゲでも」 「クラゲは目印になるのですか?」 「光りますから。たぶん」 「たぶん、なのですね」 六花が笑うと、メーアはわずかに口元を緩めた。 山の向こうでは、まだ祭囃子が聞こえていた。 最後に、四人はそれぞれ、今日出会った相手への印象を語った。 六花は、ティヴァルについてこう思った。 「ティヴァルさんは、とても寂しがり屋で、それ以上に人を楽しませることが好きな方です。賑やかさの奥に、たくさんの思い出を大切に抱えているのだと思います。次の旅行記では、祭りの楽しさだけでなく、思い出を残そうとする心も書きたいです」 茉莉は、少し考えてから言った。 「ティヴァルさんは怖いです。今でも、急に出てきたら悲鳴を上げると思います。でも、ちゃんと謝ってくれて、私の怖さも少し考えてくれました。だから……怖いけれど、悪い幽霊ではないと思います」 メーアは淡々と答えた。 「ティヴァルは騒がしいです。声も大きいし、祭りも派手です。でも、かき氷は美味しくて、寂しい人を放っておけない性格だと思います。次に会う時も、私はたぶん迷いますが、会えたらかき氷を食べます」 そしてティヴァルは、誰もいなくなった境内で、提灯の明かりを見上げながら笑った。 「六花は、何でも知りたがるが、相手の心を置き去りにしない旅人だ。茉莉は怖がりだが、怖いものから逃げるだけではなく、相手を知ろうとしてくれた。メーアは少々口が辛いが、クラゲの光のように静かに周囲を照らしてくれる。三人とも、祭りに来てくれた大切な客人だ。次も必ず、楽しい祭りを開こう」 誰もいないはずの山の社で、祭囃子が小さく響いた。 その音は、寂しさを紛らわせるためではなく、再会を約束するためのもののように、夜の空へゆっくり溶けていった。