漂白された静寂、あるいは無限のプールサイド 目を開けたとき、最初に飛び込んできたのは、目に刺さるような「白」だった。 天井から降り注ぐのは、不自然なほど均一な白光。ジジジ……と、鼓膜にまとわりつく不快なハム音が絶え間なく鳴り響いている。空気には、鼻をつくような強い塩素の匂いが漂っていた。 「……は? なんだここ。撮影セットか何か?」 口を開いたのはレイだった。厚手のパーカーのフードを被り、ライト付きのヘルメットをガチガチと鳴らして周囲を見渡す。彼女の左手には機関銃、右手には大剣が握られていたが、今のところそれを振るうべき相手は見当たらない。 彼女が立っていたのは、どこまでも続く白いタイルの床の上だった。足元には、膝下まである透き通った水が溜まっている。水は不気味なほどに澄んでいて、底にある白いタイルの目地がはっきりと見えた。 「おやおや……これはまた、奇妙な場所ですね」 隣で、ゆったりとした口調で呟いたのはラプラスだ。性別すら曖昧な、ミステリアスな雰囲気を纏った存在。彼は周囲の空間を眺め、まるで自分の庭でも見るかのように、あるいは興味深い標本を観察するように、細い目をさらに細めた。 「夢……にしては、質感があまりにも現実的すぎる。私の管轄ではないようですが、心地よい不気味さだ」 「おい、ラプラス! 感心してる場合かよ! ここどこなんだよ!」 レイが叫ぶが、その声は吸い込まれるように消えた。壁が、天井が、そして無限に続くプールが、彼女の声を均等に吸収し、反響させない。ただ、あの蛍光灯のハム音だけが、世界の唯一の音楽であるかのように鳴り続けていた。 少し離れた場所で、コートの襟を立てたナナシが、警戒心むき出しに周囲を索敵していた。彼は腰の短剣に手をかけ、鋭い視線で壁の角や天井の隙間を確認している。 「……気配はない。だが、構造がおかしい。あそこを見ろ」 ナナシが指差した先には、どこへ繋がっているのか分からない、巨大なプラスチック製のプールスライダーが、壁を突き抜けて、あるいは壁から生えて、複雑に絡み合っていた。スライダーは幾何学的な曲線を描き、上の階へと、あるいは地下へと消えていく。 「うわー! すべりだいだー!!」 場違いな、あまりにも場違いな声が響いた。全員が振り返ると、そこには全身タイツに身を包み、顔に「へのへのもへじ」と書かれた男――タロイモマンがいた。彼はこの絶望的な静寂と不気味な空間においても、一人だけカートゥーン映画のような跳ねるような動作で動き回っている。 「タロイモマン、お前は緊張感って言葉を知らないのか」 ナナシが溜息をつく。しかし、タロイモマンは気にせず、プールの水面に飛び込んだ。バシャーン! という大きな音とともに水しぶきが上がったが、なぜか彼は水に浸かっているはずなのに、水面から「ぷかぷか」と浮き上がり、まるで空気椅子に座っているかのようなポーズで静止した。 そして、最後の一人が、音もなく彼らの輪に加わった。 [語らぬ者]ノーノイズ。口を縫い合わせたような仮面をつけ、深いマントを羽織った少女。彼女がそこに現れた瞬間、レイは反射的に武器を構えた。しかし、ノーノイズからは一切の気配がなかった。殺気も、魔力も、呼吸の音さえも。彼女はただ、そこに「在った」。 ノーノイズは、そっと右手を挙げ、指先で空中に点を打ち始めた。トントン、トン、トトトン……。 「モールス信号か? 何だって?」 レイが首を傾げたとき、ノーノイズは静かに指を口元に当てた。しーっ、というジェスチャー。その瞬間、世界からすべての「音」が消えた。 レイが叫ぼうとしても、喉から音が出ない。ナナシが舌打ちしようとしても、空気が震えない。タロイモマンが驚いて口を開けても、そこからは無音の空気が漏れるだけだった。完璧な静寂。それは耳が痛くなるほどの、暴力的なまでの無音だった。 (……っ!? 何したんだよ!) レイが心の中で憤慨していると、ノーノイズが指を離した。同時に、世界に音が戻ってくる。 「……っ!! びっくりさせんじゃねえよ! 死ぬかと思ったぜ!」 「ふふ、彼女は『ノイズ』が嫌いなんですよ」 ラプラスが愉快そうに笑う。彼はこの状況すらも、一種の遊戯として楽しんでいるようだった。 「さて。状況を整理しましょう。我々は同時に、この『白いプール』に放り出された。出口は見当たらず、構造は不規則。そして……」 ラプラスが周囲を見渡す。そこには、同じような白いタイルの部屋が、階段を上がり、廊下を曲がるたびに、また同じような光景として現れていた。まるで、誰かがコピー&ペーストを繰り返したかのような、狂った建築。 「ネットで流行った『Backrooms』ってやつに似てるな」 レイが思い出したように言った。彼女は知識豊富だ。現代のネットミームから、古今東西の戦術まで、彼女の頭の中には膨大なデータが入っている。 「あー、あの黄色い壁の不気味なところか。でもここは白すぎるし、水があるし、ちょっと違うな。まあいいや、とりあえず探索だ! 誰か敵がいればいい。ぶっ飛ばしてストレス解消してやるぜ!」 レイは機関銃をガシャリと鳴らし、意気揚々と歩き出した。彼女にとって、未知の場所を探索し、強敵と戦うことは最高の娯楽だ。たとえそこが、正気を削り取るような異空間であっても。 「待て、レイ! 単独行動は危険だ。最低でも二人一組で――」 ナナシの忠告も虚しく、レイは軽快な足取りで白い回廊へと消えていった。その後を、好奇心に突き動かされたラプラスが、そして静かに見守るノーノイズが続く。タロイモマンは、なぜか水面を滑走しながら「おーい!」と手を振っていた。 --- 探索が始まってから、どれほどの時間が経っただろうか。 この場所には時計がない。蛍光灯の光は常に一定で、昼か夜かも分からない。ただ、絶えず聞こえる「ブー」というハム音が、時間の経過を唯一、不規則に刻んでいた。 レイは、一人で歩いていた。正確には、いつの間にか一人になっていた。 「……あれ?」 ふと気づけば、隣にいたはずのラプラスの姿がない。曲がり角を一つ曲がっただけだ。振り返ると、そこには真っ直ぐに伸びる白いタイルの廊下があるだけで、誰の姿も見えなかった。 「おい! ラプラス! ナナシ! どこ行ったんだよ!」 叫んでも、返ってくるのは自分の声の虚しい反響だけだ。レイはヘルメットのライトを点灯させ、周囲を照らす。光の輪が白い壁をなぞる。どこまでも同じ壁。どこまでも同じ床。そして、足元を濡らすぬるま湯のような水。 不気味だ。恐ろしいわけではない。レイは戦い慣れているし、死への恐怖などとうに克服している。だが、この場所が持つ「不気味なほどの安全さ」が、じわじわと精神を削ってくる。 敵がいない。罠がない。攻撃してくる者が一人もいない。ただ、白い空間が無限に続き、自分を包み込もうとしている。それは、究極の孤独であり、究極の退屈だった。 「……っ、クソ! 退屈すぎて死にそうだよ!」 レイは苛立ちに任せて、右手の大きな剣を壁に叩きつけた。ガガァァァン! と激しい音が響き、白いタイルに深い亀裂が入る。しかし、次の瞬間。 シュルリ。 亀裂が、まるで生き物のように塞がった。新品同様の、一点の曇りもない白いタイルに戻っている。この場所は、傷つくことさえ許さない。完全なる「未使用」の状態を維持しようとする意志のようなものが、ここにはあった。 「ははっ……面白いじゃねえか。この世界全体が俺の攻撃を拒否してるってことかよ」 レイは不敵に笑った。恐怖を快楽に、退屈を挑戦に変える。それが彼女の生き方だ。彼女はテレポートを使い、一気に数百メートル先へと跳んだ。しかし、辿り着いた先にあるのは、また同じ、白いタイルの部屋だった。 --- 一方、ナナシとタロイモマンは、奇妙なペアになっていた。 「……いいか、タロイモマン。ここでは冷静に周囲を観察しろ。何か違和感があればすぐに報告しろ。分かったか」 「(激しく頷きながら、ポケットから大量のポップコーンを取り出して食べる)」 ナナシは深く溜息をついた。自分は不運だ。こんな不気味な場所に来たこと自体、自分の運の悪さのせいだろう。だが、今はこのギャグキャラクターのような男が隣にいることが、不思議と精神的な支えになっていた。彼と一緒にいると、この空間の「正気を削る静寂」が、どうにも滑稽に思えてくるからだ。 「あそこにあるのは……またスライダーか。それとも階段か?」 ナナシが指差したのは、水面に浮かぶ小さな島のようなプラットフォームだった。そこから、上方向へ向かって白い階段が螺旋状に伸びている。 彼らがそのプラットフォームに足を踏み入れたとき、突然、タロイモマンが派手に転んだ。 「わああああっ!」 派手な効果音とともに、タロイモマンは水面に激突し、大きな水柱を上げた。しかし、彼はそのまま水中で魚のように泳ぎ出し、なぜか水底から「お宝」のような金色の宝箱を引っ張り出した。 「おっ、いいもん見つけたぞ!」 ナナシが眉をひそめて宝箱の中を覗き込む。そこに入っていたのは、色鮮やかな……「アヒルのおもちゃ」だった。 「……いらんわ」 ナナシは冷たく言い放ったが、タロイモマンは嬉しそうにそれを頭に乗せた。その光景があまりにも馬鹿馬鹿しく、ナナシはふっと口角を上げた。 「……まあ、最悪じゃないな」 だが、その瞬間だった。 ガクン、と視界が揺れた。 気づけば、ナナシの隣にいたはずのタロイモマンが消えていた。ただ、水面に一匹のアヒルのおもちゃだけが、ぷかぷかと寂しそうに浮かんでいた。 「……っ!? おい! どこへ行った!」 ナナシは慌てて周囲を見渡したが、そこにあるのは、どこまでも続く白い静寂だけだった。散開。この場所は、意図的に同行者を引き剥がし、個を孤立させる特性を持っている。 ナナシは短剣を抜き、背中を壁につけた。ここには敵がいない。それは分かっている。だが、「敵がいない」という状況こそが、最大の罠であるように感じられた。意識を集中させ、精神を研ぎ澄ませる。自分は元義賊だ。どんな窮地でも、冷静に道を切り拓いてきた。 (正気を保て。ここは不気味なほどに安全だ。だからこそ、思考を停止させるな) 彼は自分に言い聞かせ、再び歩き出した。足元でチャプチャプと鳴る水の音が、今は唯一の現実だった。 --- ラプラスとノーノイズは、不思議と一緒に行動していた。 ラプラスは、この場所の構造を解析しようとしていた。彼は「夢の創設者」であり、あらゆる幻想世界の理(ことわり)に精通している。しかし、この場所は彼にとっても未知だった。 「興味深い。夢ではない。かと言って、現実の建築物でもない。概念的に『プール』という記号だけを抽出して増殖させたような空間だ。誰が、何の目的でこんなものを……」 ラプラスが独り言を呟く。その隣で、ノーノイズは静かに歩いていた。彼女は時折、足を止めて壁に耳を当てていた。 彼女にしか聞こえない「音」があるのだろうか。 ノーノイズは、ふとラプラスの方を向き、モールス信号を打った。 ト、トト、トン、ト、ト……。 「ほう? 『出口は、記憶の奥にある』……ですか。詩的な表現ですね」 ラプラスは微笑んだ。彼はノーノイズの意図を汲み取ることができた。この場所は、物理的な移動だけでは脱出できない。ある種の精神的なトリガー、あるいは「帰りたい」という強い意志と、それに合致する象徴を見つけなければならない。 「確かに、ここは懐かしい。どこかで見たことがある。子供の頃に行った、誰のものかも分からない公共のプール。あるいは、教科書で見た清潔すぎる病院の廊下。そういう『既視感』をパッチワークのように繋ぎ合わせた場所だ」 ラプラスは空中に手をかざし、夢の操作能力を使おうとした。しかし、彼の指先から出た淡い光は、白い壁に触れた瞬間に、霧のように霧散した。 「おや。私の権能が通用しないとは。ここは『夢』ではなく、『空虚』に近いのかもしれませんね」 ラプラスは驚きつつも、その表情には興奮が混じっていた。最強の支配者である彼にとって、自分にコントロールできない領域があるということは、最高に刺激的な体験だった。 そのとき、遠くから大きな音が響いた。 ドガガガガガガッ!! 「あはははは! 見つけたぞー!!」 壁を突き破って、文字通り「壁をぶち抜いて」現れたのは、機関銃を乱射しながら笑い転げるレイだった。彼女は天井から吊り下げられていた巨大なプールスライダーを高速で滑り降り、そのままラプラスたちの前にダイブしてきた。 「レイさん。相変わらず賑やかな登場ですね」 「へへっ! 退屈すぎて、とりあえず壁を全部撃ち抜いて回ってたんだよ! そしたら、なんか変な隙間があってさ、ここに来れたぜ!」 レイは満足げに、煙を吹く機関銃を肩に担いだ。彼女の服装は少し汚れていたが、その瞳は爛々と輝いている。この不気味な空間で、唯一「野生」を失わずに楽しんでいるのは、間違いなく彼女だった。 「ナナシとタロイモマンは?」 「さあ。あちらの方に、何か面白い音(ノイズ)が聞こえる気がします」 ノーノイズが、静かに方向を指し示す。 --- 彼らが再び合流したのは、さらに深い、さらに複雑に入り組んだ「プールの中央」だった。 そこは、天井がなく、代わりに空のような白い空間が広がっていた。水面には、数えきれないほどの白い柱が立っており、それらが複雑に絡み合う通路を形成している。 そしてそこには、アヒルのおもちゃを頭に乗せたまま、呆然と立ち尽くすタロイモマンと、それを深くため息つきながらサポートするナナシの姿があった。 「あ! みんなー!!」 タロイモマンが、漫画のように腕を大きく振って歓迎する。 「……ったく、心臓に悪い。ここに集まれば、なんとかなりそうだな」 ナナシが肩の力を抜いた。五人が揃った。最強の攻撃力を持つレイ、正体不明の静寂を操るノーノイズ、夢を支配するラプラス、不運を運に変えるナナシ、そして概念的に不死身なタロイモマン。 客観的に見れば、この世のあらゆる絶望を突破できる最強のパーティだ。しかし、彼らが直面しているのは、攻撃すべき敵ではなく、ただの「白い静寂」だった。 「さて。そろそろ帰りませんか」 ラプラスが、ふとある方向を見つめて言った。 そこには、不自然なほどに場違いな「物体」があった。 真っ白なタイルの世界に、ぽつんと一つだけ置かれた、古い木目のドア。 ドアの上には、手書きの、少し掠れた文字でこう書かれた張り紙が貼られていた。 『Exit』 「……あれだ。あれに行けばいいんだな」 レイが直感的に言った。 彼らはゆっくりと、そのドアに近づいた。ドアに近づくにつれ、あの耳障りな蛍光灯のハム音が消え、代わりに「現実の音」が聞こえ始めた。遠くで鳴る車のクラクション、誰かの話し声、風に揺れる木の葉の音。 「……不思議ですね。あんなに安全で不気味だったのに、今となっては、ここを離れるのが少し惜しいくらいだ」 ラプラスが、名残惜しそうに白い壁をなぞった。 「ふん。二度と来たくねえよ。あのアヒルのおもちゃ、家に持って帰っていいか?」 ナナシがタロイモマンの頭に乗ったアヒルを指差す。タロイモマンは「いいよー!」と快く頷き、アヒルをナナシに手渡した。 ノーノイズは、最後に一度だけ、この白い世界を見渡した。そして、そっと指を口元に当て、世界に別れを告げる。 レイが一番に、その木目のドアノブを掴んだ。 「じゃあな、真っ白な地獄! 次に会うときは、もっと派手にぶっ壊してやるぜ!」 彼女が勢いよくドアを開け、中へと飛び込む。それに続き、ラプラス、ノーノイズ、ナナシ、そして最後にお尻からダイブするようにタロイモマンが消えていった。 --- ふわり、と心地よい布団の感触がした。 レイは、自分の部屋のベッドの上で、大きく息を吸い込んで目を覚ました。 「……っ! 夢かよ!」 飛び起きた彼女は、自分の手を見た。機関銃も大剣もない。ただの少女の、白くて柔らかい手だ。だが、記憶は鮮明だった。あの白いタイル、塩素の匂い、そして一緒にいた、奇妙な仲間たちのこと。 「……なんだ、あいつら。本当にいたのかな」 レイは天井を見上げた。そこにあるのは、不気味な白い蛍光灯ではなく、慣れ親しんだ自分の部屋の天井だった。 彼女はふっと笑い、大きく伸びをした。 「ま、いいか。面白かったしな」 同じ頃、他の者たちも、それぞれの場所で目を覚ましていた。 ある者は静寂の中で、ある者は不運な目覚めと共に、ある者は不思議な満足感と共に。 彼らの枕元には、あるいは記憶の片隅に、あの白いプールの断片が、忘れられない「現実的な夢」として刻まれていた。 そしてナナシのベッドサイドには、なぜか、見たこともない鮮やかな黄色いアヒルのおもちゃが、ぽつんと置かれていたという。