雨上がりの裏路地には、濡れた石畳と古い映写機の音だけが残っていた。 人差し指の支部として使われている建物は、かつて小さな映画館だった。看板から文字はほとんど剥がれ落ち、入口の上には、かろうじて一本の指を思わせる白い傷跡が残っている。中へ入れば、客席は取り払われ、壁際に古びた机と端末が並べられていた。正面のスクリーンだけが、今もきれいな白さを保っている。 その前に、ミルキはぼんやり立っていた。 空色のボブが、開いた窓から入り込む夜風に揺れている。白いマントの下には黒いスーツ。胸元の端末は淡い光を明滅させていたが、彼女はそれを見ているようで、実際には何も見ていなかった。 「……雨、止んだんだ」 独り言のように呟いたところで、奥の扉が開いた。 「止んだのは少し前だ。君が気づいていなかっただけだな」 穏やかな声だった。 銀髪のウルフヘアに、皺ひとつない白いスーツ。ツヅラは腕時計型の映写機を確かめながら、ゆっくりと館内へ入ってきた。足音は控えめで、濡れた床を踏むたび、かすかな水音だけが響いた。 ミルキは振り返った。 「ツヅラ。来てたんだ」 「今来たばかりだ。君はずっとここに?」 「たぶん。時間は見てないから、わからない」 「そうか」 ツヅラはそれ以上尋ねなかった。尋ねても、ミルキが本当にわからないのか、わかっていて答える気がないのか、判別しにくいと知っているからだ。 彼はスクリーンの下にある机へ近づき、置かれていた二つのカップの片方を手に取った。湯気はもう消えている。 「これは君が淹れたのか?」 「うん。たぶん」 「たぶん、というのは便利な言葉だな」 「そう? じゃあ、ツヅラが飲んで」 「俺が飲んでいいのか」 「もう一個は私のだから」 「君の分は、まだ温かいのか?」 「わからない。触ってないから」 ツヅラは小さく笑った。ミルキの言葉は、いつも会話の形をしているのに、どこか遠い場所から届く放送のようだった。 彼はカップを口元へ運び、ひと口飲んだ。冷めた茶は少し渋かったが、口にするほどではない。 「渋い」 「そうなんだ」 「感想を聞いておいて、興味はないのか?」 「あるよ。だから聞いた」 「そうか」 また短い沈黙が落ちた。 スクリーンには何も映っていない。ただ、映写機の内部で歯車が動くような音が、断続的に響いている。ミルキの端末からも、時折、乾いた通知音が鳴った。 彼女はそのたびに視線だけを端末へ向ける。しかし手を伸ばすことはない。 「指令か?」 「まだ、わからない」 「見なくてもわかるのか?」 「指令なら、指令だから」 「なるほど。実に明快だ」 ツヅラは腕時計型の映写機に触れた。文字盤の代わりに嵌め込まれた小さなレンズが、青白い光を返す。 「俺のところにも、少し前に届いた」 「神託?」 「そう呼ぶしかない。内容は、ここへ来て、君と待機しろというものだった」 「待機して、何をするの?」 「そこまでは示されていない」 「じゃあ、何もしないんだね」 「何もしないという指令なら、俺達は忠実に何もしないことになる」 ミルキはスクリーンを見上げた。 「変なの」 「人差し指では、よくあることだ」 「そうだっけ」 「そうだ。意味のわからないものを、意味のわからないまま信じる。それが俺達の仕事だからな」 その言い方には皮肉があった。だが、声は穏やかで、怒りも悲しみもほとんど含まれていなかった。 ミルキは彼の横顔を見た。 「ツヅラは、信じてるの?」 「何を?」 「都市の神様」 ツヅラはすぐには答えなかった。スクリーンの白い面に映る自分の輪郭を見つめ、それから、腕時計型の映写機をゆっくりと伏せた。 「信じている、というより、そういうものがある前提で生きている」 「同じじゃない?」 「違うさ。信仰には熱がある。俺のそれには、もうあまり熱がない」 「冷たい?」 「諦めに近い」 ミルキは少し考えた。彼女の考える時間は、普通の人間のそれと同じ長さなのか、本人にもわからない。やがて、彼女は端末の側面を指先で撫でながら口を開いた。 「諦めると、楽になる?」 「場合による。期待しなくてよくなるからな」 「それは、自由?」 ツヅラは目を細めた。 「不満か? 俺達はこんなにも自由じゃないか」 その言葉は、いつもの彼の口調だった。 決められた道筋を歩き、投写された軌跡を受け入れ、順序さえも与えられたままにする。それを自由と呼ぶのは、外の人間から見れば奇妙なことだろう。けれど、人差し指の者達にとって、自由とは最初から決められた範囲の中で、迷わず動けることだった。 ミルキは少し首を傾げた。 「自由って、迷えることじゃないの?」 「そういう考え方もあるな」 「ツヅラは迷わない?」 「迷っても、指令が来れば従う。だから、迷いは長続きしない」 「便利だね」 「便利だとも。だから皆、手放せない」 また端末が鳴った。 今度は、ミルキがすぐに手を伸ばした。画面に映像が流れる。誰かの足が一歩進み、右手が持ち上がり、視線がスクリーンへ向く。映像は数秒で途切れた。 ミルキはそれを見終えると、何事もなかったように端末を閉じた。 「来た」 「内容は?」 「ここに座る」 「それだけか?」 「うん。スクリーンの前に座って、映写機の音が止まるまで待つ」 「俺も含まれているのか?」 「たぶん」 「たぶん、か」 ツヅラは苦笑し、近くの椅子を引いた。二人はスクリーンの前に並んで座った。 椅子は古く、背もたれが少し傾いていた。座り心地はよくない。ミルキはそれを気にする様子もなく、両手を膝の上に置いた。ツヅラは腕時計型の映写機を外し、机に置いた。 「外して大丈夫なの?」 「指令は届いた。今すぐ使う必要はない」 「壊れない?」 「壊れたら、その時はその時だ」 「諦めてるね」 「君に言われると、少し新鮮だな」 ミルキは彼の顔を見て、それからスクリーンへ視線を戻した。 「私、諦めてるように見える?」 「いや。君は考えていないように見える」 「それは違うよ」 「そうか?」 「考えてる。考えたあと、忘れてるだけ」 ツヅラは一瞬黙った。それから、静かに笑った。 「それは、考えていないよりも厄介だな」 「そう?」 「考えたことを忘れているなら、同じことを何度でも考えられる」 「うん。だから、たぶん飽きない」 映写機の音が、一定の間隔で続いていた。 外では遠くを走る車の音がする。雨水が排水溝へ流れ込む音、どこかの建物で閉じる窓の音、夜の街が眠りにつく前に発する細かな気配。そのすべてが、古い映画館の壁を通して薄く伝わってくる。 ミルキは突然、立ち上がった。 「どうした?」 「指令の続き」 「もう来たのか?」 「うん。立つ。三歩歩く。振り返る。座る」 「俺は?」 「見てる」 ミルキは指令通りに動いた。白いマントが軽く揺れ、黒い靴が床を三度叩く。彼女はスクリーンの前で振り返り、元の椅子へ戻った。 それだけだった。 ツヅラは彼女を見ていた。指令の意味を探ろうとはしなかった。意味が後から与えられることもあれば、最後まで与えられないこともある。彼は長い間、それを知っていた。 「何か変わった?」 ミルキが尋ねた。 「いや」 「じゃあ、失敗?」 「指令に従ったのなら、失敗ではない」 「そっか」 「ただ、意味がなかっただけだ」 「意味がないのに、失敗じゃないの?」 「人差し指ではな」 ミルキは納得したのか、していないのか、曖昧に頷いた。 やがて映写機の音が止まった。 館内に静寂が満ちる。 机の上で、ツヅラの腕時計型映写機が淡く点灯した。レンズからスクリーンへ細い光が伸び、白い面にいくつもの軌跡が浮かび上がる。道筋は複雑ではなかった。ミルキが立ち上がり、窓を閉め、机の上のカップを片付け、入口の灯りを消す。その後、ツヅラがスクリーンの前に立ち、映写機を再起動する。 未来の流れが、静かに示されていた。 「次は俺達の片付けか」 ツヅラが言った。 「私のほうが先」 「そうだな」 ミルキは立ち上がった。窓へ向かい、外の暗い路地を一度だけ見た。そこには誰もいない。濡れた石畳が街灯を映しているだけだった。 彼女は窓を閉め、戻ってくる。カップを二つ持ち上げ、机の端へ置く。それから入口の灯りを消した。 暗闇の中で、ツヅラの映写機だけが光っている。 「これで終わり?」 「俺の動作が残っている」 「じゃあ、お願い」 ツヅラは立ち上がった。銀髪が映写機の光を受け、淡く白く見える。彼は机から映写機を取り、腕に装着した。小さなレンズが一度瞬き、スクリーンに新しい映像が流れる。 ツヅラはそれを見て、穏やかな表情のまま歩いた。スクリーンの前に立ち、機械を起動する。 音が戻ってきた。 古い映画館の空気が、また静かに震え始める。 「指令は、これで終わり?」 ミルキが暗がりから尋ねた。 「ひとまずはな」 「次は何が来るかな」 「何でもいいさ。来たものに従うだけだ」 「楽しみ?」 「楽しみではない。嫌でもない。ただ、来るのだろうと思っている」 「それが諦め?」 「そうかもしれない」 ミルキは少し黙った。 「私は、ツヅラがいると楽」 ツヅラは映写機を操作する手を止めなかった。 「それは、俺が指令の意味を説明しないからか?」 「ううん。説明してくれるから」 「説明しているか?」 「してるよ。わからないことを、わからないまま話してくれる」 ツヅラは目を伏せた。 「それは、褒められているのか?」 「たぶん」 「また、たぶんか」 「でも、たぶん良い意味」 ツヅラは静かに笑った。 「そうか。なら、受け取っておこう」 ミルキは椅子に戻り、彼の横顔を見た。彼は未来の軌跡を映しながら、淡々と機械を扱っている。諦めているようでいて、完全に投げ出しているわけではない。決められた自由の中で、決められた動作を繰り返しながらも、その合間に人の言葉を聞き、返事をしている。 それがミルキには、少し不思議だった。 「ツヅラ」 「何だ?」 「また、ここで待っててもいい?」 「指令がなくても?」 「うん」 「好きにするといい」 「それも、自由?」 「そうだな。少なくとも、俺はそう思うことにしている」 ミルキは頷いた。 「じゃあ、そうする」 映写機の光が、二人の姿をスクリーンへ薄く映していた。そこには現在の二人と、まだ訪れていない未来の軌跡が重なっている。 ミルキはぼんやりとそれを眺め、ツヅラは黙って機械の調整を続けた。 やがて、夜はさらに深くなった。 指令が来るまでの時間だけは、誰にも奪われない。 それが本当の自由なのか、定められた自由の一部なのか、二人にはわからなかった。けれど、そのわからなさを抱えたまま同じ場所にいることだけは、今この瞬間、二人自身が選んでいるように思えた。 ミルキは最後に、ツヅラへ向けて言った。 「ツヅラは、静かで、話しやすい。あと、諦めてるのに、ちゃんと待ってくれる人」 ツヅラは少し驚いたように彼女を見た。 「君は、ぼんやりしているようで、妙なところをよく見ているな。俺から見た君は、指令に従っているのに、どこか自分の速度で歩いている人だ。忘れてしまうことも多いが、忘れたまま誰かを置いていかない。……そういうところは、悪くないと思っている」 「悪くない、は良い?」 「俺の言葉では、かなり良いほうだ」 「そっか」 ミルキは満足そうに目を細めた。 スクリーンの光が、ゆっくりと二人の間を行き来している。 次の指令が届くまで、彼らはそこにいた。