静寂が支配する、名もなき時空の庭園。そこには人工的な建造物は一切なく、ただどこまでも続く深い緑の森と、鏡のように澄み切った湖だけが広がっていた。風が梢を揺らし、鳥のさえずりが空気に溶け込む。この「ありのまま」の世界こそが、九尾の少女、泉純虛が最も好む心地よい空間であった。 純虛は、赤と金の鮮やかな和服を纏い、湖のほとりに設置された大きな岩の上に、不遜な態度で腰掛けていた。金色の髪が陽光を反射して輝き、背後では実体を持たない幻影のような九本の尾が、ゆらゆらと不気味に、それでいて優雅に揺れている。その見た目は幼い少女のようだが、口を開けば、世界を陥落させた支配者としての傲慢さが滲み出していた。 「ふん……。やはりここは良い。余計な知恵を絞った人間どもの作り出した、あの薄っぺらい街並みに比べれば、呼吸をするだけで浄化される心地だ」 純虛は退屈そうに、小さな指先で顎をなぞった。彼女にとって、人為的なものはすべて「汚れ」に等しい。誰かが意図的に作り出した理屈や、偽りの権威、計算された策略。そうしたものは、彼女の持つ「純化」の力によって、跡形もなく無に帰される運命にある。 そんな彼女の傍らには、一人の少年が静かに控えていた。眼鏡をかけ、落ち着いた色合いのコートを羽織った少年、司である。彼は純虛の幹部という重い肩書きを背負っているが、その佇まいは至って控えめで、むしろ周囲の視線を避けたいと願う臆病な少年のままだった。 司は、純虛が放つ圧倒的な威圧感に気圧されるどころか、深い敬愛の念を込めて彼女を見つめていた。彼にとって、純虛は単なる主君ではない。世界中から疎まれ、能力ゆえに迫害されていた絶望の淵から、自分を唯一「ありのまま」に受け入れてくれた救世主だったからだ。 「……純虛様。お茶を淹れました。こちらの茶葉は、自然に自生していたものを、僕が丁寧に摘み取ってきたものです」 司がおずおずと、しかし丁寧に茶器を差し出す。その動作には、相手に対する最大限の敬意と、拒絶されることへの微かな不安が混在していた。純虛は、そのぎこちない様子を、どこか愉快そうに眺める。 「ふん、お前は相変わらず気が弱いな。私の前でまで縮こまる必要はないと言っているだろう。……まあ良い、持っておいで」 純純は、司から差し出された茶碗をひょいと受け取った。一口啜り、満足げに鼻を鳴らす。司は、彼女が満足したことに安堵し、ふっと表情を緩めた。彼が唯一、心から安心できる瞬間。それは、この絶対的な強者である少女の側で、ただの「自分」でいられる時間だった。 「司よ。お前は不思議な奴だ。私の幹部たちの中では、他の連中とまともに喋ることもできぬほどに内気でありながら、その本質は誰よりも強固だ」 純虛の言葉に、司は慌てて首を振った。 「そ、そんな……! 僕はただ、純虛様に救われた恩があるだけで……。僕に強さなんてありません。ただ、あなたの側にいたいと願う、弱くて臆病な人間です」 「くくっ、それで良い。偽りの強さを装う者など、私の目には滑稽に映るだけだ。お前が自分の弱さを認め、ありのままに私を崇拝する。その純粋さこそが、私にとって心地よい」 純虛はそう言って、いたずらっぽく笑った。その笑みは、時折子供のような無邪気さを覗かせる。世界を滅ぼすほどの残酷さを持ちながら、同時に、純粋なものへの執着という矛盾を抱えた少女。 司は、彼女のその矛盾さえも愛おしく感じていた。自分を迫害した人々は、司の持つ「不倶戴天」の能力を恐れ、忌み嫌った。彼に干渉しようとした者が、自動的に最悪の天敵と対峙させられるという理不尽な力。それは、司が望んで得たものではなく、彼から平穏な人間関係を奪った呪いのようなものだった。 しかし、純虛だけは違った。彼女の「純化」はあらゆる事象を無力化するが、司の能力はそれさえも寄せ付けない独立した特異点である。純虛は、司の能力を「排除すべき異物」としてではなく、「純粋な個としての在り方」として受け入れたのだ。 「……純虛様。時々、思うんです。もし、あの時あなたに出会っていなければ、僕は今頃、どこの暗い穴の中で、自分を呪いながら死んでいたかもしれません」 司の声が少しだけ震えた。彼はコートの袖をぎゅっと握りしめる。 「馬鹿を言うな。お前が死ぬなど、私の所有物を勝手に処分されるのと同じだ。不愉快極まりない。お前は私の幹部であり、私の庭を彩る一部なのだから、勝手に消えることは許さぬ」 突き放すような言い方だったが、司にはそれが彼女なりの慈しみであることを分かっていた。純虛は、誰に対しても甘い言葉をかけることはない。だが、その不器用な独占欲こそが、彼にとっては何よりの救いだった。 「はい。僕は、ずっとあなたのお側に。あなたの望むままに、この世界を、あるいは次の世界を、純粋な場所に変えるお手伝いをします」 司が深く頭を下げる。その姿は、まさに忠実な僕であり、狂信的な信奉者のようであった。純虛は、そんな彼を眺めながら、ふと自分の九本の尾を揺らした。 「いい答えだ。お前のような忠実な犬がいるのは、退屈な永劫の時間においても悪くない。さあ、茶を飲み干したら散歩に付き合え。あちらの森に、人為的な手が一切加わっていない、美しい苔の群生地があるらしい。お前にも見せてやろう」 「……! はい、喜んで!」 司の顔に、ぱっと明るい表情が浮かぶ。純虛は、その露骨な喜び方に「ふん」と鼻を鳴らしたが、その口角はわずかに上がっていた。 金髪の傲慢な少女と、眼鏡をかけた臆病な少年。 種族も、立場も、性質も異なる二人だったが、そこには不思議な調和があった。一方は全てを無に帰す「純化」の頂点であり、もう一方は何者にも干渉させない「不倶戴天」の孤高。相反する力が、互いへの信頼と崇拝という細い、しかし強固な糸で結ばれていた。 二人は、静かに、そしてゆっくりと、緑深い森の中へと歩き出した。風が吹き抜け、彼らの足跡さえも自然が優しく飲み込んでいく。そこには、偽りのない、ただ純粋な静寂だけが流れていた。 純虛は歩きながら、ふと司に問いかけた。 「なあ、司。お前は、私が恐ろしくないのか? 私は多くの時空を滅ぼし、数えきれないほどの命を消してきたぞ」 司は、一瞬だけ足を止めたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて答えた。 「……恐ろしいですよ。でも、それ以上に、あなたは僕にとって唯一の『光』なんです。世界中の誰があなたを悪だと言っても、僕にとっては、僕を救ってくれたあなたこそが、正義であり、真実なんです」 その言葉に、純虛は一瞬だけ呆気にとられたような顔をした。しかしすぐに、いつもの不敵な笑みに戻り、彼の頭を軽く小突いた。 「……おめでたい奴だ。まあ、そういう単純なところは嫌いではない。さあ、急げ。日が暮れる前にあの苔を見に行かねばならん」 「あはは、すみません。急ぎます!」 少女の赤い和服と、少年の落ち着いたコート。対照的な二人の姿が、深い緑の森に溶け込んでいく。そこには、支配者と被支配者という関係を超えた、ある種の家族のような、あるいは共犯者のような、奇妙で温かな空気が漂っていた。 人為を嫌う少女と、人に拒絶された少年。 彼らが辿り着いたのは、誰にも邪魔されない、純粋なる二人のための楽園であった。 * 【お互いに対する印象】 ■泉 純虛 → 司 「ひ弱で、臆病で、使い物にならないほど気が弱い奴だ。だが、その不器用なまでの純粋さと、私への盲信的な忠誠心だけは気に入っている。偽りのない心を持つ稀有な存在であり、私の所有物として、傍に置いておく価値はあると思っている。」 ■司 → 泉 純虛 「僕のすべてを救い出してくれた、唯一無二の神様のような方です。その傲慢さも、冷酷さも、すべてが気高く、美しく見えます。僕のありのままを認めてくれた純虛様のためなら、僕はどんなことだってできるし、たとえ世界中を敵に回しても、あなただけは守り抜きたいと思っています。」