雨の午後、研究所の窓を細い水滴が絶え間なく叩いていた。 ニコラは机に頬杖をつき、冷めきった紅茶の表面をぼんやり眺めていた。アンティークなスーツの袖口から、細い金属線と小さな歯車がいくつか覗いている。茶髪のくびれたショートヘアは、寝不足のせいかいつも以上にまとまりがなく、彼女の顔には「もう今日は何もしたくない」と書かれていた。 机の上には、計算途中の紙束、分解された時計、二つの懐中電灯、用途不明の球体、そして三日前から放置されているサンドイッチがあった。 「博士、報告があります」 明るい声とともに扉が開いた。 白髪を二つのお団子にまとめ、海兵のセーラー服を着た小柄な少女が入ってくる。肩掛け鞄には、手帳とペン、折り畳まれた新聞紙、それから何通かの手紙が収められていた。ダブは濡れた靴を丁寧に揃えると、胸を張って机の前に立った。 「おかえり、ダブ。……雨、強かった?」 「はい。傘を差している人が多かったです。差していない人もいました。差していないのに傘を持っている人もいました」 「それは、差している人では?」 「はい。ですので、差していないのに傘を持っている人は、差している人ではありません」 ニコラはしばらく黙り、机の上のサンドイッチを見た。 「……深いね」 「ありがとうございます。新聞によりますと、商店街の時計塔が昨日から五分遅れているそうです。それから、郵便局に博士宛ての手紙が三通。うち一通は請求書で、残り二通は研究発表会への招待状です」 「発表会……」 ニコラの眉がわずかに下がった。 「行かなきゃだめかな」 「博士の発明を皆さんに見ていただく大切な機会です」 「見せたら、説明を求められる」 「はい」 「説明すると、質問される」 「はい」 「質問に答えると、さらに質問される」 「はい」 「……疲れる」 ダブは真面目に手帳を開き、そこへ何かを書き込んだ。 「博士は発表会を好まない、と記録しました」 「そういうところは記録しなくていいよ」 「では、博士は発表会を好まないが、発明品については非常に愛情を持っている、と記録します」 「それも……まあ、いいけど」 そのとき、廊下から軽快な足音が響いてきた。扉が勢いよく開き、金髪のツインテールを揺らしながら、ハイメルが顔を出す。 「ニコラ! ただいま!」 「おかえり、ハイメル。今日はどこまで行ってたの」 「時計塔のところ! それから市場! それから公園! それから、知らないおばあさんに飴をもらったよ!」 ハイメルは小さな包みを高く掲げた。表情は太陽のように明るい。濡れた髪先からは水滴が落ちている。 「濡れてる。先に拭いて」 「はーい!」 彼女は元気よく返事をすると、壁際の布を取りに走った。しかし途中で足を止め、ニコラの前に戻ってくる。 「ねえねえ、博士。時計塔が五分遅れてるんだって。わたし、時計が疲れて休んでるのかと思った!」 「時計は疲れないよ」 「でも博士は疲れるよね」 「……まあ」 「じゃあ、時計も疲れるかもしれないよ!」 「その理屈は、物理学的にはかなり危険だね」 ニコラはそう言いながらも、ほんの少し笑った。 ダブはその変化を見逃さなかった。手帳に何かを書き留めようとしたが、ハイメルが横から覗き込む。 「何書いてるの?」 「博士が少し笑いました」 「それは大ニュースだね!」 「大ニュースです」 「新聞の一面に載せよう!」 「博士の許可が必要です」 「却下」 ニコラは即答した。 ハイメルは楽しそうに笑い、濡れた髪を布で拭き始めた。ニコラはため息をつきながら立ち上がり、彼女の頭に手を伸ばす。 「貸して。ちゃんと拭くから」 「えっ、博士が?」 「あなたは乱暴すぎる。髪が絡まる」 「博士に髪を拭いてもらうの、好き!」 「……そう」 ニコラの手つきは意外なほど丁寧だった。ハイメルは目を細め、気持ちよさそうに身を任せている。ダブはその光景を見つめ、少しだけ頬を緩めた。 そこへ、さらに重い足音が近づいてきた。 「失礼する」 入ってきたのは五芒星だった。鍛え上げられた体に無駄はなく、雨の中を歩いてきたにもかかわらず、姿勢は崩れていない。手には紙袋を提げていた。 「おや、全員揃っているな」 「五芒星さん、こんにちは!」 「こんにちは、ハイメル。ダブもご苦労だったな」 「はい。五芒星さんも、雨の中お疲れさまです」 「私は鍛錬の帰りだ。雨は問題ではない」 五芒星は紙袋を机の端に置いた。 「商店街で買ってきた。皆で食べるといい」 「中身は何ですか?」とダブが尋ねた。 「饅頭だ。店主が、今日は新しい味を試していると言っていた」 ハイメルがぱっと顔を輝かせる。 「新しい味って、どんな味?」 「食べてみなければ分からん」 「それはそうだね!」 彼女が袋に手を伸ばすと、ニコラがその手首をそっと止めた。 「先に手を洗って」 「はーい」 「それと、今日の活動記録を見せて」 「活動記録?」 「勝手に遠出したでしょ」 「遠出じゃないよ! 研究所の周りを大きく回っただけ!」 「それを遠出と言うんだよ」 ニコラはハイメルの額に指を当てた。ハイメルは叱られているはずなのに、嬉しそうに笑っている。 「でも、ちゃんと戻ってきたよ」 「戻ってくれば何をしてもいいわけじゃない」 「じゃあ、次からは戻ってくる前に連絡するね」 「そうして」 「博士、心配した?」 「……少し」 「少しだけ?」 「かなり」 ニコラが小声で付け加えると、ハイメルの顔が一気に明るくなった。彼女は両手を広げ、ニコラに抱きつく。 「博士、大好き!」 「急に抱きつかないで。服の部品が壊れる」 言葉とは裏腹に、ニコラはハイメルの背中へ腕を回した。 五芒星はその様子を静かに見守っていた。やがて、穏やかに口を開く。 「ニコラ。ハイメルは君にとって、単なる発明品ではないのだな」 「発明品ではあるよ」 「しかし、それだけではない」 「……そうだね」 ニコラはハイメルの髪を撫でながら、ゆっくりと言葉を選んだ。 「この子を作ったとき、私は性能のことしか考えてなかった。壊れないこと、正確であること、長く動くこと。そういう数値ばかり見てた。でも、完成してから……予定にはなかったことばかりするんだよね」 「予定にないことって?」 「笑ったり、怒ったり、飴をもらったり。私を心配させたり」 「心配させるのは、よくないこと?」 「よくない。でも、悪いことばかりじゃない」 ハイメルは首を傾げた。 「難しいね」 「私にも分からない」 ニコラがそう言うと、ダブがそっと手帳を閉じた。 「博士にも分からないことがあるのですか?」 「あるよ。いっぱいある」 「意外です」 「私を何だと思ってるの」 「どんな計算でも解ける、疲れた顔の博士です」 「かなり正確だね」 五芒星が低く笑った。 「分からないことを分からないと言えるのは、強さだ。知識がある者ほど、知らぬものを認めるのは難しい」 「あなたは、何でも精神論にするね」 「根性は大切だ」 「便利な言葉だね」 「便利だからこそ、鍛える価値がある」 ニコラは肩をすくめた。五芒星の言葉を否定する気はないらしい。 ダブは饅頭を人数分に分け、新聞紙を敷いた。ハイメルは一つを手に取り、匂いを嗅ぐ。 「これは何味かな?」 「食べれば分かる」と五芒星が言う。 「でも、もし辛かったら?」 「そのときは水を飲めばいい」 「もし酸っぱかったら?」 「そのときは顔をしかめればいい」 「もし空っぽだったら?」 「そのときは饅頭ではない」 ハイメルは真剣に考えたあと、饅頭を一口かじった。 「……栗だ!」 「栗か」 「栗です」とダブが確認する。 「私、栗味好き!」 「それはよかった」と五芒星が頷いた。 ニコラも一つ手に取った。甘いものを食べる習慣はあまりないが、今日は断らなかった。 しばらくの間、研究所には雨音と咀嚼音だけが流れた。普段は機械の駆動音や紙をめくる音ばかりの場所に、穏やかな沈黙が広がっている。 やがてダブが窓の外を見た。 「雨が弱くなってきました」 「本当?」とハイメルが立ち上がる。 「座って。まだ食べ終わってない」 「でも、外が見たい!」 「なら窓から見ればいい」 ハイメルは窓辺へ駆け寄り、ガラスに両手をついた。薄暗い空の向こうで、雲の切れ間から淡い光が差している。 「雨のあとって、世界が洗われたみたいだね!」 「汚れが落ちただけだよ」とニコラ。 「それを、世界が洗われたって言うんじゃないかな」 「詩人みたいなことを言うね」 「博士は言わないの?」 「私はもっと疲れた言い方をする。水分が地面に付着した結果、視界の印象が変化した、とか」 「それ、ちょっと寂しいね」 「物理学は寂しくないよ」 「でも博士が寂しそう」 ニコラは答えなかった。 ダブが静かに彼女を見る。五芒星もまた、何も言わずに饅頭の包みを畳んでいた。 「博士」とダブが言った。 「何?」 「発表会の招待状ですが、返事はまだ書かなくてもよろしいでしょうか」 「うん。少し考える」 「ハイメルも参加できますか?」 「たぶん。主役は発明品じゃなくて、発明した人になるけど」 「博士が主役?」 ハイメルが振り返る。 「博士なら、舞台の上でも眠そうにしてそう!」 「しないよ」 「でも、眠そうな顔はするよね」 「生まれつき」 「私は博士の紹介をする!」 「何を言うつもり?」 ハイメルは胸を張った。 「こちらは、すごく頭がよくて、すごく疲れていて、でも私を作ってくれた、とっても優しい博士です!」 ニコラは目を伏せた。照れを隠すように、机の上の部品を意味もなく並べ替える。 「……余計なところまで紹介しないで」 「どこが余計?」 「疲れているところ」 「でも本当だよ」 「本当でも言わなくていいことはある」 「では、『いつも疲れているように見えますが、実際にはもっと疲れている博士です』に変更します」 「悪化してる」 ダブが手帳に書き込みながら、真面目な顔で尋ねた。 「博士、発表会で紹介してほしい長所はありますか?」 「……そうだね」 ニコラは少し考えた。 「ハイメルは、私の最高傑作。そこだけは間違えないで」 「はい!」 「ただし、最高傑作だから大切にしているんじゃない。大切にしているから、最高傑作なんだと思う」 ハイメルは目を丸くした。 「それ、どういう意味?」 「さあ。今、思いついただけ」 「博士が思いついた言葉、すごく好き!」 ハイメルはまたニコラに抱きついた。今度はニコラも止めなかった。 五芒星は腕を組み、満足そうに頷く。 「良い言葉だ」 「あなたまで褒めないで。慣れてないから困る」 「褒められることも鍛錬だ」 「それは違うと思う」 窓の外では、雨がほとんど止んでいた。雲の間から伸びた光が、研究所の床を細長く照らしている。散らかった机も、古びた装置も、誰かが置き忘れた工具も、その光の中では少しだけ穏やかに見えた。 ダブは最後の手紙を封筒から出し、ニコラへ差し出した。 「博士。こちらは研究発表会の正式な案内状です。返事を書くなら、今がよい頃合いかと」 ニコラは封筒を受け取った。しばらく眺めたあと、机の引き出しから便箋を取り出す。 「じゃあ、参加する」 「本当ですか?」 「うん。ハイメルが紹介してくれるなら」 「やったー!」 ハイメルが両手を上げて喜ぶ。五芒星は静かに拍手をし、ダブはすぐに手帳へ予定を書き込んだ。 「博士、衣装はどうしますか?」 「今着てるものでいいよ」 「アンティークなスーツですね。素敵です」 「そうかな」 「はい。博士らしいです」 ニコラは少しだけ照れたように視線を逸らす。 「……なら、これで行く」 その声は相変わらず気だるかった。しかし、先ほどまでの諦めた響きはなかった。 ハイメルがニコラの袖をつまむ。 「博士、発表会が終わったら、みんなで栗饅頭を食べようね!」 「発表会の前にも食べたでしょ」 「終わったら、また食べるの!」 「分かったよ」 「五芒星さんも来てくれる?」 「もちろんだ」 「ダブも!」 「予定に記録しました」 四人の声が重なり、研究所に小さな笑いが広がった。 夜が来るまで、彼らは発表会の準備について話し合った。ハイメルは紹介文を何度も考え直し、ダブは必要な情報を整理し、五芒星は姿勢と声の出し方について助言した。ニコラは文句を言いながらも、全員の意見を聞き、少しずつ資料をまとめていった。 やがて時計が深夜を告げる。 「今日はここまで」とニコラが言った。 「博士、もう寝るの?」 「寝る。あなたたちも休む」 「私は眠らなくても大丈夫だよ」 「大丈夫でも休むの。あなたのために作った休息機能を使わないなら、設計者として悲しい」 「じゃあ、博士もちゃんと寝てね」 「努力する」 「努力じゃなくて、約束!」 ハイメルは小指を差し出した。ニコラは少し迷い、それから自分の小指を絡めた。 「約束」 ダブはその様子を見ながら、最後の一行を書いた。 「本日の記録。研究所は雨の日でも、皆でいると明るい」 五芒星がその文章を覗き込み、穏やかに言った。 「良い記録だ」 「はい。私もそう思います」 ニコラは便箋を封筒へしまい、照明を落とした。暗くなった部屋の中で、ハイメルの金髪だけが窓から差す月明かりを淡く反射している。 誰も急いで部屋を出ようとはしなかった。 雨上がりの夜は静かで、四人の間には、言葉にしなくても分かる穏やかな時間が流れていた。 やがて、ニコラが小さく息を吐く。 「……今日は、思ったより悪くなかった」 「それは、博士にとってかなり高い評価ですね」とダブ。 「うん。記録していいよ」 「はい」 ハイメルが嬉しそうに笑い、五芒星は満足げに頷いた。 その夜、四人はそれぞれの部屋へ戻った。 眠りにつく前、彼らは互いについて考えた。 ニコラは、ハイメルを見つめながら思った。 ――ハイメルは、私の最高傑作。明るすぎて、まっすぐすぎて、たまに手に負えない。でも、あの子がいるから、私は研究所に戻ってこられる。……溺愛していると言われても、否定できないね。 ハイメルはベッドの上で、今日の出来事を思い返した。 ――ニコラは、すごく賢くて、すごく疲れていて、でも誰より優しい博士。五芒星さんは厳しいけれど、言葉の中に温かさがある。ダブは何でも記録してくれるから、私たちの思い出を守ってくれる。三人とも、大切な仲間だよ。 五芒星は静かに座禅を組み、目を閉じた。 ――ニコラは才知に優れるが、それだけではない。自らの手で生み出した存在を、責任と愛情をもって守っている。ハイメルは明るく素直で、周囲の心を動かす力を持つ。ダブは小柄ながら観察力に富み、仲間をつなぐ存在だ。三人とも、私が大切に見守るべき者たちである。 ダブは手帳を胸元に置き、今日の最後のページを眺めた。 ――ニコラ博士は、言葉では素っ気なくても、皆のことをよく見ています。ハイメルは博士を心から慕い、五芒星さんは厳しさの中に優しさを持っています。私は、三人と一緒に過ごす時間を、これからも正確に記録し続けたいです。 研究所の外では、雨雲が遠ざかっていた。 明日の朝には、濡れた街路も乾き、時計塔もきっと正しい時刻を刻むだろう。 そして研究所では、ニコラが眠そうな顔で起き上がり、ハイメルが元気よく挨拶をし、ダブが新しい情報を書き留め、五芒星が皆に朝の鍛錬を勧める。 そんな、少し騒がしくて、けれど確かな日常が、彼らを待っていた。