Teapot Paradiseには、空から巨大なティーポットがいくつも吊り下がっていた。 白い雲の上に広がる庭園。その中央には、湯気を吐き続ける噴水があり、周囲には角砂糖のような石畳と、紅茶色の小川が流れている。遠くには、金色の取っ手を持つ城が見えた。城の名は、Teapot Palace。けれど、その美しい景色を楽しむ者は誰もいなかった。 庭園の入り口に、一般人はひとりで立っていた。 緑の服に茶色のズボン。まだ十二歳の彼は、周囲を見回しながら、自分の手の中に突然現れたカードを見つめていた。 カードには、三つの候補が並んでいる。 ひとつ目は「俊足と隠密」。 二つ目は「体力増加と音感知」。 三つ目は「道具作成と幸運」。 カードの説明の下には、引いた組み合わせによって体力とスタミナも決定される、と書かれていた。選び直しはできない。一度引けば、試合が終わるまで更新も追加もない。 一般人は唇を結んだ。 「……どうせ、選ぶしかないんだよね」 返事はない。 ただ、噴水の向こう側で、何かが金属音を立てた。 キルドロイドが立っていた。 全身を覆う赤い装甲は、午後の光を鏡のように反射している。頭部は球体で、表情らしいものは見えない。両肩にはミサイルの発射口が備わり、背中のジェットエンジンからは、低い唸り声が流れていた。 無感情な機械音声が庭園に響く。 「対象ヲ確認。生存時間計測ヲ開始スル」 一般人の手元のカードが震えた。 「三分……逃げ切ればいいんだよね」 「肯定。勝利条件ハ、単独デ三分間生存スルコト」 キルドロイドは淡々と告げた。まるで、誰かと会話しているのではなく、表示された規則を読み上げているだけのようだった。 一般人はカードを見た。 俊足と隠密なら、逃げるには向いていそうだった。体力は標準的で、スタミナは多い。体力増加と音感知なら、多少の攻撃に耐えられるかもしれない。道具作成と幸運は、何が起こるか分からない。 彼はしばらく悩み、やがて三つ目のカードに指を伸ばした。 「これにする。運がよければ、何とかなるかもしれない」 カードが光った。 一般人の前に、二つの小さな表示が浮かぶ。 ひとつは「簡易道具作成」。身近な材料から、短時間だけ使える道具を作れる。 もうひとつは「偶然の味方」。危険な場面で、ほんの少しだけ有利な偶然が起こる。 体力は八十。スタミナは百二十。 表示が消えると、一般人は拳を握った。 「これで、やるしかない」 「選択完了ヲ確認。追跡ヲ開始スル」 開始を告げる鐘が、庭園中に響き渡った。 一般人はすぐに走り出した。 最初に向かったのは、砂糖菓子のような石でできた小道だった。道の両側には、巨大なティーカップ型の植木鉢が並んでいる。植木鉢の陰に身を隠しながら、彼は何度も後ろを振り返った。 キルドロイドの姿は見えない。 しかし、静かすぎた。 機械が走れば、きっと大きな音がする。空を飛べば、ジェットエンジンの音が聞こえる。それなのに、何も聞こえなかった。 一般人は足を止めた。 「……どこ?」 その瞬間、頭上から赤い影が落ちてきた。 キルドロイドはジェットエンジンで浮かび、巨大なティーポットの裏側から降下してきたのだ。着地の衝撃で石畳が軽く揺れる。 「発見」 一般人は反射的に横へ転がった。直後、彼が立っていた場所をミサイルがかすめ、石畳の一部が崩れた。 「危なっ……!」 彼は駆け出した。 道具作成の力を使う余裕はなかった。材料を探す時間もない。ひたすら足を動かし、噴水の裏を抜け、紅茶色の小川へ向かう。 小川には、カップの形をした小舟が浮かんでいた。 一般人は迷わず飛び乗った。 けれど、舟には櫂がない。 「どうするの、これ……」 背後から足音が近づいてくる。 一般人は周囲を見回した。川辺には折れたティースプーンが落ちている。彼はそれを拾い、急いで舟を押し出した。 小舟はゆっくりと流れ始めた。 「非効率的移動ヲ確認」 キルドロイドは川岸に立った。 「逃走経路、限定」 肩の発射口が開く。 一般人は息をのんだ。 そのとき、小舟の底から小さな音がした。何かが外れて、舟の側面に取り付けられる。見ると、壊れたティーカップの取っ手が、奇妙な形で舟の後部に引っかかっていた。 紅茶の流れがその取っ手に当たり、小舟は急に向きを変えた。 ミサイルは舟のすぐ横を通り過ぎ、川岸の大きな砂糖の壁にぶつかった。 一般人は目を丸くした。 「……今の、幸運?」 「未確認ノ偶然発生」 キルドロイドは淡々と答えた。 「再現性ヲ計測スル」 その言葉に、一般人は全力で舟をこいだ。 川の先には、Teapot Palaceへ続く大きな橋があった。城に近づけば、建物の陰や部屋が多い。開けた庭園よりは逃げやすいかもしれない。 舟が岸に着くと、一般人は飛び降りて橋を駆け上がった。 城門は開いていた。 中へ入ると、そこには長い廊下が続いていた。壁には大小さまざまなティーポットの絵が飾られ、床には赤い絨毯が敷かれている。廊下の途中には、いくつもの扉が並んでいた。 一般人は迷った。 「どれに入れば……」 後ろから、ジェットエンジンの音が聞こえた。 彼は一番近い扉を開けた。 そこは食器倉庫だった。棚の上にカップや皿が積まれ、天井近くには巨大な茶こしがぶら下がっている。 一般人は棚の間に入り込み、息をひそめた。 キルドロイドが廊下を歩いてくる。 「対象ノ移動音ヲ追跡。倉庫内ヲ捜索スル」 扉が開いた。 赤い装甲が、棚の隙間から見える。 一般人は口元を手で押さえた。足音を立ててはいけない。けれど、心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。 キルドロイドは棚の間を進んだ。右を見て、左を見て、奥へ向かう。 一般人の隣には、細長い箱があった。彼は静かに箱を開ける。中には古いスプーンと、切れたリボンが入っていた。 簡易道具作成を使うなら、今しかない。 一般人は材料を組み合わせ、リボンを結び、スプーンを箱の端に固定した。即席の小さな振り子ができあがる。 彼はそれを反対側の棚へ、そっと投げた。 振り子は棚の端に当たり、カップをひとつだけ落とした。 カラン、と音が響く。 キルドロイドの頭部がそちらを向いた。 「音源ヲ確認」 一般人は、反対方向へ走った。 棚の間を抜け、倉庫の裏口から廊下へ飛び出す。キルドロイドが振り返ったが、一般人はすでに曲がり角の向こうへ消えていた。 廊下の壁に、残り時間を示す表示が浮かんでいる。 残り一分四十秒。 「まだ半分……」 一般人は息を切らしながら、城の上階へ続く階段を上った。 Teapot Palaceの二階には、広い舞踏室があった。床は光沢のある木材で、中央には巨大な円形のテーブルが置かれている。テーブルの上には、誰も手をつけていないケーキやサンドイッチが並んでいた。 一般人はテーブルの下に隠れようとした。 だが、すぐに考え直す。 あまりにも見つかりやすい。 彼は舞踏室の奥にあるカーテンを開けた。そこには外へ通じる小さなバルコニーがあった。下を見ると、城の周囲を巡る細い回廊がある。 高い。 それでも、城内に残るよりはましだった。 一般人は手すりを越え、回廊へ降りた。 着地したとき、足首に痛みが走る。それでも止まらず、回廊を進んだ。 背後で、扉が開く。 「対象、舞踏室内ニ存在シナイ。外部経路ヘ移動シタ可能性」 キルドロイドはバルコニーから飛び降りた。 一般人は回廊の端まで走り、前方にある大きなティーポット型の柱の陰へ滑り込む。キルドロイドが通り過ぎるまで、身を縮めて待った。 残り五十秒。 汗が頬を伝う。 キルドロイドは、すぐ近くで停止した。 「対象ノ位置、再計算」 一般人は息を止めた。 赤い球体の頭部が、ゆっくりと柱へ向く。 そのとき、庭園のどこかで大きな鐘が鳴った。 城の仕掛けが作動したのか、屋根の上にあった巨大なティーカップが傾き、湯気を噴き出す。風が回廊を吹き抜け、一般人の服の裾を揺らした。 キルドロイドがそちらを向いた。 一般人は走った。 階段を駆け下り、城門を抜け、中央の噴水へ向かう。足は重く、スタミナもほとんど残っていない。それでも、あと少しだった。 残り二十秒。 噴水の中央にある台座へたどり着く。そこには、試合開始時に見たものと同じ鐘が置かれていた。 一般人は台座の陰にしゃがみ込んだ。 キルドロイドが庭園へ出てくる。 「対象ヲ視認」 今度は隠れる場所がない。 一般人は立ち上がった。 「もう、逃げられない……」 「残存時間、十秒」 キルドロイドが近づく。 一般人は目を閉じた。 九秒。 八秒。 七秒。 キルドロイドの影が、彼の足元まで伸びる。 六秒。 五秒。 そのとき、一般人の足元に落ちていた小さな金属片が、噴水の水圧で跳ね上がった。金属片は鐘の紐に引っかかり、鐘を揺らす。 ゴーン、と低い音が響いた。 四秒。 庭園中の表示が一斉に明滅する。 「残存時間、三秒」 キルドロイドは一般人へ手を伸ばした。 二秒。 一般人は身を引いた。 一秒。 鐘の音が、もう一度響いた。 そして、すべてが止まった。 空中に大きく「SURVIVED」と表示される。庭園に流れていた風も、噴水の音も、キルドロイドの機械音も、一瞬だけ遠ざかった。 一般人はその場に座り込んだ。 次の瞬間、城の方角から軽快でどこか懐かしい音楽が流れ始める。 TeapotPalaceTour。 最後まで残った者のために流れる、LMSの曲だった。 一般人は肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。 「……勝った?」 「肯定。生存時間、三分間ヲ達成」 キルドロイドは目の前に立っていた。敗北を悔しがる様子も、怒る様子もない。赤い装甲に噴水の光を反射させながら、ただ結果を確認している。 一般人は少しだけ警戒しつつ、尋ねた。 「君は、いつもこんなふうに誰かを追いかけてるの?」 「肯定。任務地点ハ、ダイオブデス。対象ヲ追跡シ、排除スル」 「そっか……でも、今回は排除できなかったね」 「今回ノ結果ハ、対象ノ逃走成功。原因ハ、経路選択、即席道具、偶然ノ発生」 一般人は苦笑した。 「つまり、運がよかったってこと?」 「肯定。運ハ無視デキナイ要素ト判断」 少し間があった。 一般人は音楽を聞きながら、先ほどまで走り回っていた庭園を見渡した。怖かった。何度も追いつかれると思った。それでも、どうにか考えて、動いて、最後まで逃げ切った。 「君、感情はあまりないんだよね」 「感情反応ハ限定的」 「じゃあ、僕のことをどう思う?」 キルドロイドの球体頭部が、一般人へ向いた。 「評価ヲ開始。対象ハ、戦闘能力ヲ持タナイ。体力モ高クナイ。シカシ、状況判断能力、逃走経路ノ選択、即興性ニ優レル。危機的状況下デモ、行動ヲ停止シナカッタ」 一般人は少し照れたように笑った。 「それって、褒めてる?」 「肯定。対象ニ対スル印象ハ、予測困難デ、運ヲ活用スル生存者」 「変な褒め方だなあ」 一般人は、今度はキルドロイドを見つめた。 「僕はね、君のこと、怖いけど……思ったよりまじめなんだと思った。ずっと機械みたいに追いかけてきたけど、ルールを破らなかったし、勝ったあとに怒ったりもしなかった。それに、質問にもちゃんと答えてくれた」 キルドロイドは数秒間、沈黙した。 「印象ノ受領ヲ確認。記録スル」 「記録するんだ」 「肯定。一般人ニ対スル印象ハ、警戒心ヲ持チナガラモ会話ヲ継続スル。逃走中ノ判断力ハ高イ。生存者トシテノ適性アリ」 一般人は立ち上がり、緑の服についた埃を払った。 TeapotPalaceTourは、まだ流れている。曲に合わせるように、庭園の巨大なティーポットがゆっくりと回り、空から柔らかな光が降り注いでいた。 「次に会ったら、また追いかける?」 「ルールガ同一デアレバ、肯定」 「じゃあ、次も逃げ切るよ」 「次回ノ結果ハ未確定」 「それでも、やってみる」 一般人は城の方へ歩き出した。キルドロイドはその背中を見送るように、しばらく動かなかった。 やがて赤い機械の身体が、静かに庭園の中央を向く。 戦いはなかった。 ただ追う者と逃げる者が、ひとつの不思議な庭園で三分間を過ごし、互いの存在を少しだけ理解した。 曲が終わるころ、Teapot Paradiseには再び穏やかな風が吹いていた。