昼とも夜ともつかない、巨大な裏市場。 天井を覆う鉄骨の隙間から、赤や青の照明がまだらに差し込んでいた。情報屋が暗号を書いた札を売り、賞金稼ぎが手配書を見比べ、怪しい商人たちが瓶詰めの魔物、違法な魔導具、出所不明の薬草を並べている。客たちは絶えず行き交い、怒号と値切り声、笑い声、遠くで鳴る警報が混ざって、巨大な獣の唸り声のような騒音を作っていた。 その一角、古びた噴水の跡地に、アズールは立っていた。 黒い帽子。そこには、恐ろしい顔と、胴体に描かれたリスポーン地点の絵。紫と黒の服。背中から伸びる四本の触手は、意思を持つ蛇のようにゆっくり揺れている。 彼の前には、棘の歯を持つ花を頭部に咲かせた、恐竜じみたゴーレムの姿があった。ただし、まだ完全なゴーレムではない。足元にはいくつもの花が芽吹き、紫色のゲージが少しずつ満ちている。 アズールは、露店に並んだ古い写真立てを睨んでいた。 そこに写っていたのは、かつての親友――ツータイムだった。 「……You sold me out.」 低い英語が漏れる。 そのとき、彼の肩口に、誰かの声が落ちてきた。 「へえ。そんなに怒ってるのに、まだ写真を持ってるんだね」 アズールが振り向く。 そこには、いつからいたのか分からない少女がいた。 古明地こいし。東方の彼女と寸分違わぬ姿で、無邪気な笑顔を浮かべ、露店の瓶を覗き込んでいる。店主は、こいしがすぐ横に立っていることに気づいていなかった。客たちも、彼女の肩を避けることなく通り過ぎていく。 こいしは瓶を持ち上げ、中の青い煙を眺めた。 「それ、ツータイムの写真? ねえ、どうしてそんなに嫌いなの?」 アズールの触手が、ぴたりと止まった。 「Don’t say his name.」 「どうして? 名前を呼んだだけなのに」 こいしは首を傾げる。 「それとも、怒ってるところを見られたくなかった?」 アズールの帽子の顔が、ぎり、と歪んだように見えた。 周囲の客が何人か振り返る。だが、こいしに視線が向いたはずなのに、誰も彼女を気に留めない。見えているのに、意識から滑り落ちていくのだ。 「You’re mocking me.」 「うん。たぶんね」 こいしは笑った。 「でも、あなた面白そうだから。怒ったら何をするのか見たいな」 「I said—don’t talk about him!」 アズールの触手が一斉に振り抜かれた。 こいしは、そこにいなかった。 いや、正確には、そこにいた。しかしアズールの意識がこいしを捉えることを拒んだ。触手はこいしの髪をかすめ、背後の屋台を叩き潰す。木箱が割れ、瓶詰めの薬品が床に散らばった。 市場がどよめく。 こいしは、少し離れた魚売りの屋台の上に座っていた。 「わあ、危ないなあ」 「Get down here!」 「いやだよ。怒ってる人の前に、わざわざ立つなんて変でしょ?」 「Coward!」 「じゃあ、捕まえてみて」 挑発だった。 アズールは四本の触手を広げ、周囲の地面に紫色の花を咲かせた。花弁の内側には、棘のような歯が並んでいる。 「Stigmatize Flower.」 花の範囲内に入ったものを掴み、離さない花。 こいしは屋台から飛び降りた。しかし、着地点にはすでに花が咲いていた。 その瞬間、茎が鞭のように伸び、こいしの足首を捕らえる。 「おっと」 こいしは転びかけながら、ナイフを抜いた。花の茎を切断する。切られた花は紫色の汁を噴き出し、床で蠢いた。 「切れるんだ」 「You won’t keep escaping.」 アズールの手元に、黒紫色の球体が生まれた。 「Enstrangle!」 球体が飛ぶ。 こいしは、視線から外れるように人混みへ身を滑り込ませた。球体はこいしを見失い、代わりに背後の金属柱へ命中する。次の瞬間、鎖のような力が柱を引き寄せ、柱が根元から歪んだ。 その光景を見ていた商人が叫んだ。 「俺の柱を壊すな!」 「Then move!」とアズールが怒鳴る。 「あなたが暴れてるんでしょうが!」 市場の一部で客が逃げ始めた。だが、珍しい戦闘を見物しようと、逆に人が集まってくる。情報屋たちは賭けを始め、賞金稼ぎは二人の特徴を手配書に書き込んでいった。 こいしは人の間をすり抜けながら、アズールの背後へ回った。 「ねえ、アズール」 耳元で囁く。 アズールが振り向く。 誰もいない。 「Where are you!?」 「ここだよ」 今度は頭上。こいしは吊り下げられた布地の陰に逆さにぶら下がっていた。 アズールは触手を伸ばした。だが、こいしは視界から消えると同時に、アズールの意識からも消える。触手は布地を引き裂き、隣の店の商品を大量に落とした。 壺、仮面、乾燥させた魔獣の舌、そして用途不明の黒い立方体。 「You’re making me angry!」 「最初から怒ってたじゃない」 こいしの声が、遠くから、近くから、同時に聞こえた。 アズールは苛立ちのまま、地面に種子を叩きつけた。花のゲージが大きく満ちる。 走る人影を感知し、バルブ花が一斉に口を開いた。 「Valve Flower!」 逃げ惑う客たちの足音に反応し、花から無数の球が発射される。球は直線的に飛び、屋台の看板、木箱、空中の照明を次々と撃ち抜いた。 「止めろ! 客まで撃つ気か!」 「Then stop running!」 「無茶言うな!」 市場はさらに混乱した。商人が商品を抱えて逃げ、客が倒れた棚を乗り越え、観客の一部は歓声を上げる。 その混乱の中でも、こいしだけは軽やかに動いていた。彼女は無意識を操り、誰も彼女を狙わないようにしている。球は彼女の横を通り抜け、別の標的へ向かった。 だが、こいしは完全に無傷ではなかった。 一本の球が偶然、こいしの腕をかすめる。 「いたっ」 こいしは眉を下げた。 「それはちょっと失礼だね」 ナイフを握り直す。 アズールは、こいしの姿を見失っていた。だが、完全に見失ったわけではない。足跡。倒れた箱。揺れた布。床に落ちた小さな血痕。 彼は視認ではなく、市場そのものの変化を読むことにした。 「I don’t need to see you.」 触手が伸び、周囲の柱と屋台をなぎ倒す。逃げ道が塞がれ、瓦礫によって人の流れが変わっていく。 「Your unconsciousness still leaves traces.」 こいしは一瞬、立ち止まった。 アズールはそこへ球を投げる。 「Enstrangle!」 球が床に当たり、こいしの足元の鉄板を引き寄せた。鉄板が跳ね上がり、こいしの体勢を崩す。アズールはその隙に触手を叩き込んだ。 こいしはナイフで一本を切り、もう一本を腕で受け流したが、三本目の触手が肩を打った。 彼女の身体が屋台の壁へ叩きつけられる。 「見つけた」 「……うん。今はね」 こいしは壁に手をつき、立ち上がった。 そのときだった。 市場の奥から、二人の賞金稼ぎが姿を現した。 片方は巨大な銃を担ぎ、もう片方は鎖付きの斧を持っている。二人の胸には、即席の札が貼られていた。 『アズール――高額』 『こいし――正体不明、同額』 「話は聞いたぜ!」銃を持つ男が叫ぶ。「二人とも賞金首だ!」 「どっちかが倒れたら、残りを持っていく!」 ランダムイベント――賞金稼ぎ二人が乱入した。 アズールとこいしは、同時に二人を見た。 こいしが笑う。 「ねえ、アズール。先にあの人たちをどうにかしない?」 「Don’t think we’re allies.」 「もちろん。今だけ、邪魔だからね」 銃声が轟いた。 アズールは触手で弾丸を叩き落とし、こいしは銃手の視界から消えた。鎖斧の男はこいしを追いかけようとしたが、無意識の力に誘導され、彼女ではなくアズールへ向かって走った。 「What are you doing!?」 アズールは怒鳴りながらも、男の足元にスティグマタイズ花を咲かせた。花が男の両脚を掴み、動きを止める。 銃手が距離を取る。 「くそっ、花使いか!」 こいしが、その背後に現れた。 「今、あなたの後ろにいるの」 「な――」 ナイフの柄が男の首筋に叩き込まれ、男は気絶した。 鎖斧の男は花を引きちぎろうともがく。こいしはその前に姿を見せ、男の意識を自分へ向けさせた。 「こっちだよ」 男が斧を振る。 こいしは消えた。 斧は花を掴んでいた地面を叩き割り、地下の空洞を露出させた。 轟音。 床が崩れた。 アズール、こいし、鎖斧の男、そして大量の商品が、地下へ落下する。 地上の観客が悲鳴を上げた。 地下には、裏市場の廃棄倉庫が広がっていた。古い石壁、積み上げられた鉄箱、地下水路。天井の裂け目から、地上の照明が細い光となって差し込んでいる。 鎖斧の男は水路へ落ち、気絶した。 アズールは地面に着地すると、ゆっくり立ち上がった。 花のゲージが満タンになっていた。 「Now… you can’t hide.」 紫色の光が彼の全身を包む。 骨格が膨張し、服の隙間から黒い装甲が伸びる。四本の触手は巨大な尾のように変形し、頭部には棘の歯を持つ花が咲いた。 アズールはゴーレムへ変わった。 こいしは目を輝かせる。 「わあ。大きくなった」 ゴーレムが地面を叩きつけた。 衝撃で地下水が跳ね上がり、こいしの身体が壁際まで吹き飛ばされる。彼女は空中で身をひねり、鉄箱を蹴って着地した。 「痛いなあ」 「You wanted to see what I do when I’m angry!」 ゴーレムが突進する。 こいしは無意識を閉じる。心を固く閉じ、読心や探知に引っかからない状態へ入った。 ゴーレムは巨体でありながら、彼女の存在を正確に追えなくなった。こいしは鉄箱の陰から陰へ移動し、時折、石を投げて別方向へ音を立てる。 ゴーレムは音に反応して地面を叩く。 「開花!」 衝撃波が円状に広がり、鉄箱を吹き飛ばした。箱の中から違法な魔導具が転がり出し、いくつかは勝手に作動する。赤い光線が壁を焼き、青い風が水路を逆流させた。 こいしはその風に乗って跳び、ゴーレムの頭上へ移った。 「ここだよ」 ナイフを振り下ろす。 だが、花の棘が開き、ナイフを噛み止めた。 こいしの目が見開かれる。 「食べるの?」 ゴーレムは彼女を振り落とそうと頭を振った。こいしはナイフを手放し、背中へ飛び移る。四本の巨大な触手が彼女を探して蠢くが、こいしは視線から消えるたびに、その存在を忘れさせた。 しかし、ゴーレムは地下倉庫の構造そのものを壊し始めた。 壁を叩き、柱を折り、天井を崩す。 逃げ道がどんどん減っていく。 「それ、私も巻き込まれるよ!」 「Then show yourself!」 「やだよ!」 ゴーレムが両腕を振り上げた。 「発掘!」 地面が裂け、巨大な衝撃波が一直線に走った。石床をめくり上げ、地下水路を破壊し、鉄箱を弾丸のように飛ばす。 こいしは無意識のまま、衝撃波の進路から外れようとした。だが、逃げた先には古い柱があった。 柱が倒れ、こいしの足を挟む。 「……あれ」 彼女の姿は見えない。ゴーレムにも認識されない。しかし、瓦礫の下で動けない。 ゴーレムの花が、ゆっくりと彼女のいる方向へ向いた。 「You can disappear from minds. Not from physics.」 アズールは瓦礫ごと、こいしを踏み潰そうと足を上げた。 こいしは笑った。 耳元に、どこからともなく電話の呼び出し音が響く。 アズールの動きが止まった。 「……What is that?」 こいしは瓦礫の隙間から、古い受話器を取り出した。地下倉庫に落ちていた商品だったらしい。彼女はそれを左耳に当て、右手にナイフを握る。 「今から電話をするから出てね」 ゴーレムの花が、彼女の声の方向へ向く。 こいしは受話器へ囁いた。 「わたし、メリーさん」 一歩。 「今、あなたの」 こいしの姿が消える。 ゴーレムの意識から、彼女の存在が抜け落ちる。 「後ろにいるの」 こいしはゴーレムの背後に立っていた。 巨大な身体の死角。触手が届くより早く、ナイフが走る。 切りつけは、ゴーレムの背中に深い傷を残した。紫色の光と花弁が散る。 アズールが咆哮した。 振り向こうとする。しかし、こいしはすでに視界から消えている。ゴーレムは怒りに任せ、背後へ触手を叩きつけた。 その一撃が、地下倉庫を支える最後の柱を砕いた。 天井が崩れる。 こいしは足元の水路へ飛び込み、流れに身を任せた。ゴーレムは逃げようとしたが、巨体が瓦礫に挟まれる。五十秒の制限が迫っていた。 四十秒。 ゴーレムは地面を叩き、衝撃波で瓦礫を吹き飛ばす。 三十秒。 こいしは水路の先、地下市場の排水口へ泳ぐ。背後では、アズールが最後の力で追ってくる。 二十秒。 こいしは振り返り、笑った。 「ねえ、アズール。ツータイムのこと、そんなに恨んでるの?」 ゴーレムの花が大きく開く。 「Don’t mention him!」 「じゃあ、私を倒したら忘れられる?」 「I’ll make you remember me!」 アズールは水路全体を叩きつけた。 巨大な衝撃波が水を押し上げ、こいしを排水口へ吹き飛ばす。同時に、彼の身体から光が抜けていく。 十秒。 ゴーレムの腕が崩れ、恐竜の姿が紫色の粒子になる。 五秒。 こいしは排水口の縁へ手をかけた。アズールは元の姿へ戻り、膝をつく。 三秒。 こいしは再び視界から消えた。 二秒。 アズールは触手を伸ばす。 一秒。 こいしが、彼の真後ろに立つ。 「今、あなたの――」 ナイフが閃いた。 「後ろにいるの」 刃がアズールの肩を切り裂いた。アズールはよろめき、受話器を握ったこいしを見ようとする。だが、彼女の存在はすでに意識から滑り落ちていた。 「No…」 アズールは触手を振るったが、空を切った。 こいしは彼の背後からさらに一撃を加え、アズールを膝から崩れさせた。武器を落とし、花のゲージも空になっている。戦闘を続ける力は残っていなかった。 地上では、崩れた床の周囲を観客たちが取り囲んでいた。賞金稼ぎは気絶し、商人たちは壊れた商品を見て頭を抱えている。誰も、こいしがどこにいるのか分からない。 ただ、アズールだけが、かすかな足音を聞いた。 こいしの声が、耳元で囁く。 「今日は楽しかったよ。また遊ぼうね」 「I’ll find you… next time…」 「うん。たぶん忘れるけど」 こいしは笑い、排水口の奥へ消えた。 アズールは倒れたまま、拳を握った。帽子の恐ろしい顔が、悔しげに歪んでいる。 裏市場には、彼の怒号と、こいしの足音だけがしばらく残っていた。 勝者は、こいし。 彼女は最後まで相手の心を読むことなく、認識されない性質と市場の混乱、水路、崩落した地下空間を利用し、ゴーレムの強大な攻撃を逆に地形破壊へ誘導した。そして最後は、アズールがゴーレム状態から戻るわずかな隙を突き、電話越しの怪談のような奇襲で決着をつけたのだった。