凍てつく風が吹き荒れる、都市の北部の辺境。視界を遮るほどの猛吹雪の中を、一人の女性が猛烈な勢いで疾走していた。 「どいたどいたぁ! 宅配便のお通りだよーッ!!」 緑色のコートをなびかせ、ゴーグル越しに鋭い視線を前方に据えた女性――ハヤテは、雪原を文字通り「切り裂いて」走っていた。彼女の手には、重厚な造りのアタッシュケースが握られている。それは単なる鞄ではない。トレス協会の特許技術が詰まった次元鞄であり、同時に彼女の相棒である高性能AI『ポルードニツァ』の住処でもある。 『警告。前方に静止している人影を確認。衝突まであと三秒。回避ルートを計算します』 ケースから発せられる無機質な合成音声が警告を鳴らすが、ハヤテは止まる気配がなかった。むしろ、加速している。彼女にとって、配達の遅延は死に等しい。最短経路こそが正義であり、目の前の障害物は単なる「地形」に過ぎない。 「回避なんて時間ロス! どいてくれればいいんだよー!」 しかし、衝突の直前。その人影がわずかに身をかわした。 ふわり、と赤いマントが雪の上に舞う。そこに立っていたのは、白髪の、どこか世俗を離れた雰囲気を纏った中年男性だった。黒い貴族服風のスーツに身を包んだ彼は、吹雪の中でも凍えている様子はなく、むしろ心地よい風に当たっているかのような柔和な笑みを浮かべていた。 「おっと……。危ないところだった。今の速度でぶつかれば、私の骨がいくつ折れていたことか」 ヒイラギは静かに口を開いた。その声には、深い諦念と、それゆえの余裕が混じっている。彼は手にした、血まみれの蔓と薔薇が絡みつく奇怪な槍を杖代わりに突き、目の前で急ブレーキをかけ、雪煙を上げたハヤテを眺めた。 「あーもう! 危なっかしいな! あんた、こんなところで何ボケーッとしてんのさ! 道を開けてよ!」 ハヤテは腰に手を当て、せっかちにまくしたてる。彼女の短髪が風に揺れ、ゴーグルのレンズが白く曇っていた。彼女にとって、この吹雪の中での立ち止まりは最大の罪である。 「ハハ……。血気盛んでよいことだ。若さというのは、実に眩しいな」 「若さとかそういう問題じゃないし! 私は仕事中なの! 一秒でも早く届けなきゃ、協会からめちゃくちゃに怒られるんだから!」 ハヤテは再びアタッシュケースをぎゅっと抱え込んだ。ポルードニツァが分析を開始し、眼前の男性の危険性を算出しようとするが、ヒイラギから発せられる気配は、あまりに静かすぎた。牙を隠した獣というよりは、ただ静かに朽ちゆくことを受け入れた古木のようである。 ヒイラギは、目の前の少女――彼からすれば十分すぎるほど若い女性――の様子を興味深そうに観察していた。彼女が持つケースから漏れ出す、トレス協会の高度な技術の気配。そして、何より彼女の瞳に宿る、迷いのない「目的への執着」。 「宅配便、か。この地獄のような都市で、誰かに何かを届けるという行為は、なんと贅沢で、そして滑稽なことだろう」 「はあ? 何言ってんの。仕事に贅沢とか滑稽とかないよ。届ける、もらう、終わり。シンプルでしょ!」 「そうですね。その単純さこそが、救いなのかもしれない」 ヒイラギは自嘲気味に笑い、槍の先端に絡みつく薔薇の花を指先でなぞった。その薔薇は、どす黒い血のような色をしており、見る者に本能的な忌避感を抱かせる。しかし、彼自身の表情はどこまでも穏やかだった。 ハヤテはふんと鼻を鳴らし、再び走り出そうとしたが、ふと足元の雪に埋もれていた「何か」に気づいた。それは小型の通信機か、あるいは誰かの遺失物のようだった。彼女は反射的にそれを拾い上げ、中身を確認する。 「あー、これ、経路上に落ちてた荷物の破片じゃん。ついでに回収して報告しとかなきゃ……。あーもう、時間がぁぁ!」 「そんなに急いで、どこへ向かおうというのかね」 「北の最果ての集落! そこに絶望的な状況で『温かいスープの缶詰』を待ってるお客さんがいるのよ!」 その言葉に、ヒイラギは一瞬だけ目を見開いた。温かいスープ。そんな些細な、しかし生存に直結するささやかな願い。かつて彼がいたL社という場所では、そんな人間的な渇望は、ただの効率的な管理の下に塗り潰されていたはずだった。 「……ふふ。スープ、ですか。実にいい。今の私には、少し刺激が強すぎるほどに人間的な目的だ」 「いいからどいて! あーもう、ポルードニツァ! 最短ルートを再計算して!」 『再計算完了。前方、右側へ三度旋回し、岩壁を飛び越えるルートが最短です。想定衝突ダメージ、軽微』 「よし! 行くよー!」 ハヤテが地面を蹴ろうとした瞬間、不意に足元の雪が崩れた。吹雪による積雪の不安定さ。彼女はバランスを崩し、盛大に転倒した。アタッシュケースが雪の中に転がり、彼女自身も派手に尻もちをつく。 「いっ……! もう、最悪! 何で今ここで!?」 絶望に顔を歪めるハヤテの視界に、赤い布地が入ってきた。ヒイラギが、静かに手を差し出していたのだ。 「おっと。急ぎすぎると、足元が見えなくなるものですな」 「……っ、いいよ! 自分で起きられるし!」 そう言いながらも、ハヤテは彼の差し出した手を掴んだ。がっしりとした、しかしどこか冷たい手だった。引き上げられた彼女は、すぐに汚れを払い、転がっていたケースを回収する。 「……ありがと。ま、礼はいいから道を開けてよね!」 「いいですよ。私はただ、ここに立って風を待っていただけですから。……気をつけて行きなさい。この先の谷は、今的に血に飢えた野良犬たちが集まっていますよ」 ヒイラギが指し示した先には、遠くで獣のような咆哮が響いていた。ハヤテはそれを聞くと、恐れるどころか、むしろニヤリと笑った。彼女はアタッシュケースのスイッチを切り替え、内部の次元鞄にアクセスする。 「野良犬? いいじゃん、ちょうどいいウォームアップになるわ。ポルードニツァ、最適装備を抽出して!」 『了解。対多人数・高速突破用装備をデリバリーします』 ケースから一瞬にして、鋭いブレードが展開される。トレス協会の特許技術による、殺傷能力に特化した配送キャリアの側面。彼女はそれを軽々と扱い、再び前方を向いた。 「スープが冷める前に届けるのが私のプライドなの! じゃあね、おじさん!」 猛烈な勢いで、再び雪原へと消えていく緑の背中。ヒイラギはその様子を、静かに見送っていた。彼が手にする槍の薔薇が、彼女の放つ生命力に呼応するように、わずかに赤く脈打った。 「……血気盛んな、いい娘だ。今の私には、彼女のような直情的な生き方が、何よりも贅沢に感じられる」 ヒイラギは再び、静寂の中に身を委ねた。吹雪が激しくなり、彼の姿を白く塗り潰していく。しかし、彼の口元には、消えかかった小さな笑みが浮かんでいた。 一方、疾走するハヤテは、心の中で小さく呟いていた。 (……なんか、変な感じのおじさんだったけど。まあ、いいか。あーもう、急がなきゃ!) 彼女の思考はすでに、次の配達地点へと飛んでいた。都市の北端、凍てつく世界。そこを駆け抜ける一筋の緑色の閃光は、誰にも止められない。効率と速度、そしてほんの少しの使命感だけを胸に、彼女は今日も血塗られた街を駆け抜ける。 空には灰色の雲が垂れ込め、冷たい雪が降り続く。だが、彼女が運ぶ「温かいスープ」が、誰かの絶望を一時的にでも癒やすことを、彼女自身が誰よりも信じていた。 * 【互いに対する印象】 ハヤテ → ヒイラギ: 「なんかふわふわしてて、何を考えてるか分からないおじさん。でも、いいタイミングで手を貸してくれたから、まあ、いい人だったんじゃないかな。……けど、あの槍、めちゃくちゃ不気味だったし! 次会ったらもっと道を空けてほしい!」 ヒイラギ → ハヤテ: 「嵐のように激しく、そして真っ直ぐな少女。目的のために迷わず突き進むその姿は、かつての私が捨て去った、あるいは持ち得なかった『純粋な渇望』を思い出させる。見ていて飽きない、心地よい騒がしさを持った方だったな」