昼とも夜ともつかない、巨大な裏市場。 吊り下げられた裸電球と青白い魔導灯が混ざり合い、迷宮じみた通路を照らしていた。偽造身分証、呪われた宝石、禁制薬、異国の銃、名前のない怪物の卵。情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが獲物を値踏みし、商人たちは客の悲鳴すら呼び込み文句に変えている。 その一角で、橋本一巴は古い火縄銃の整備をしていた。 硝煙と油の匂いをまとった強靭な男。周囲の喧噪の中にあっても、彼の視線だけは静かだった。屋台の陰、二階の手すり、積まれた木箱の隙間。すべてを測り、射線と退路を頭の中に描いている。 そこへ、白い制服の少女が現れた。 近藤香。理高校の風紀委員長。薔薇の意匠を施した不殺のレイピアを腰に差し、病弱そうな細い身体でありながら、裏市場の荒くれ者たちを一人で黙らせる不思議な威圧感を持っていた。 香は、彼の前に並べられた品物を見た。 火縄銃の部品。その横には、違法に売買されていた子供向けの護身具と、戦場から流れてきたらしい古い武器。 香の顔から、穏やかな微笑みが消えた。 「……それを、誰に教えるつもりですか?」 一巴は顔を上げた。 「誰にでもだ。使い方を知らぬ者は、使える者に殺される。ならば教えた方が合理的だ」 「その理屈で、あなたの弟子は何人殺したのです?」 一巴の指が、火縄のそばで止まった。 周囲の商人たちが、こちらを見た。裏市場では怒鳴り声など珍しくない。だが、一巴の声は低く、抑制されていたぶん、逆に危険だった。 「……今の言葉を取り消せ」 「ごめんなさい。でも、取り消しません」 香は商品棚から視線を戻し、まっすぐ一巴を見る。 「あなたが合理性を語るなら、私も合理的に止めます。人を殺す道具を広める行為は、この市場の規則以前に間違っています」 「間違いだと?」 一巴が立ち上がった。木箱が軋み、周囲の客が一斉に距離を取る。 「銃を知らぬ者が、銃を持った者に勝てると思うか。知らぬまま死ぬより、知って生き残る方がよい。貴様の優しさは、無知な者を殺すぞ」 「ならば、私があなたを止めます」 「……俺に説教するか、小娘」 火縄銃が持ち上がった。 商人が悲鳴を上げ、屋台の品を抱えて逃げる。香は逃げなかった。レイピアの柄に手を置き、静かに息を吸う。 「橋本一巴。あなたは今、私に喧嘩を売りましたね」 「そうだ。撃つぞ」 「では、売られた喧嘩を買います。ただし、あなたを殺しません」 一巴の目が細くなった。 「殺せぬ武器で、俺を止める?」 「ええ。私は持っているわ、勝算。説明するわ、対戦相手の敗因」 その言葉と同時に、市場の騒音が一瞬だけ遠のいた。 香の周囲に、淡い薔薇色の文字が浮かび上がる。文字は空中で連なり、誰の目にも読める形となった。 【近藤香の勝算】 【橋本一巴は、最後まで合理性を捨てず、最も確実な射撃を選ぶ。その選択を、香は過去と未来を繋いだ一点で受け止め、銃口の向きを変える】 【橋本一巴の敗因】 【彼は勝つために、香の不殺を利用して接近戦を拒む。しかし、香が撃たれることを恐れず、弾丸が決定打にならない瞬間を作るため、最終的に自らの射線を失う】 一巴は無言で文字を見た。 そして、笑った。 「なるほど。未来を決める力か。ならば撃つだけだ。決められた未来ごと、弾丸で貫く」 「できますよ。あなたの能力も、宝具も、私の宣言を覆せません」 「大言壮語だ!」 火縄銃が火を噴いた。 轟音が市場を揺らす。弾丸は香の眉間へ向かって飛んだ。 しかし香は、撃たれる直前に踏み込んだ。レイピアの刃が弾丸に触れ、完全に弾いたわけではない。軌道を数センチずらしただけだ。 弾丸は香の頬を裂き、背後の看板を粉砕した。 血が一筋流れる。 「今のは、決定打ではない」 「千里眼を舐めるな!」 一巴はすでに次の動作に入っていた。銃身を下げ、腰の火薬入れから素早く装填する。普通なら時間が必要な手順を、彼は無駄なく短縮していた。 香は屋台を盾にして距離を詰める。だが一巴は後退しながら、周囲の状況を利用した。露店の吊り看板を撃ち落とし、香の進路を塞ぐ。次に、香が避けた方向へ火薬袋を投げた。 爆発。 香の身体が煙に包まれる。 一巴はその中へ撃った。 「見えているぞ!」 千里眼。硝煙の濃淡、舞い上がる布、床に落ちた小石の動き。そのすべてから、香の位置を読む。 弾丸は香の肩をかすめた。 だが、香は煙の中から現れ、一巴の懐へ入っていた。 「合理的ですね」 「心眼Aを忘れたか!」 一巴は銃床でレイピアを受け、肘で香の手首を狙う。香は刃を返し、薔薇の鍔で受け流した。二人の間に火花が散る。 香の剣は不殺。刃は肉を裂くためではなく、関節、武器、衣服、足場だけを狙う。 一巴はそれを見抜き、あえて腕を差し出した。香の刃が袖を切る。その瞬間、一巴は銃身を香の腹へ押し当てた。 「捕らえた」 「いいえ」 香は微笑んだ。 「それは、あなたが私を殺せないと知っているから選んだ手です」 「俺は殺せる」 「でも、撃たない」 一巴の指が引き金にかかる。 ほんの一瞬、迷いがあった。 その一瞬を、香は見逃さなかった。レイピアの柄で銃身を跳ね上げ、空いた手で一巴の胸を押す。病弱な少女の力とは思えない衝撃が走り、一巴の身体が屋台を巻き込みながら吹き飛んだ。 果物、瓶、禁制の香草が宙を舞う。 一巴は転がりながら火縄銃を離さなかった。片膝をつき、即座に照準を合わせる。 「貴様の力が何であろうと、戦場では一発がすべてを変える!」 「一巴さん。あなたは、戦場を知りすぎています」 「だからこそ勝てる!」 一巴の魔力が膨れ上がった。 「ーーー我は信長の師。弟子のやることをできぬ師ではない!《師流・三千世界》!」 火縄銃が三度、連続して轟いた。 一発目は香の正面。二発目は逃げ道を塞ぐ角度。三発目は、彼女が避けた先を撃ち抜くための弾道。 三千世界。単なる三連射ではない。一発目を見て動いた相手を、二発目と三発目で狩る、射線の連鎖だった。 香は一発目をレイピアで弾いた。二発目は身体を捻って避けた。しかし三発目が、彼女の脇腹へ迫る。 その弾丸は、香の勝算を破るように見えた。 だが、香は自ら前へ出た。 弾丸が脇腹をかすめ、制服を裂く。香は痛みに顔を歪めながらも、一巴の銃身へ手を伸ばした。 「決定打には、ならない」 「ならば、次で決める!」 一巴は銃を捨て、懐から二挺目の火縄銃を抜いた。古びた短銃。近距離用に改造されたものだ。 香の目がわずかに見開かれる。 「隠し武器まで」 「師は一つの手段に依存せぬ!」 そのとき、市場の奥から鐘の音が響いた。 誰かが叫ぶ。 「賞金首だ! 橋本一巴にも近藤香にも賞金が出ているぞ!」 革鎧の賞金稼ぎが二人、群衆を割って現れた。片方は鎖斧、もう片方は呪符銃を構えている。 「二人ともまとめて捕らえりゃ、報酬は倍だ!」 ランダムな乱入だった。 市場はさらに混乱した。商人たちは店を閉め、客は逃げ惑い、賞金稼ぎは香と一巴の区別もなく襲いかかる。 「一巴さん、あなたのせいではありませんね」 「当然だ。だが、利用はできる」 「奇遇です。私もそう思いました」 鎖斧が二人めがけて振り下ろされる。 香は一巴の背中を押し、一巴は香の足元へ弾を撃った。二人は同時に別方向へ跳ぶ。鎖斧が床を砕き、地下通路への穴が開いた。 賞金稼ぎの一人が足を滑らせ、穴へ落ちた。 もう一人は呪符銃を乱射する。呪弾が屋台を破壊し、瓶の中身が漏れ出した。紫色の液体が床を這い、触れた木材を腐らせる。 一巴は腐食した柱を見た。 「香! あの柱が倒れる!」 「あなたが教えてくれるなんて」 「市場ごと潰されたくないだけだ!」 一巴が柱へ向けて撃つ。弾丸は柱を完全に折らず、支えを失わせるだけに留めた。崩落の方向が、客の少ない通路側へ変わる。 香はその隙に賞金稼ぎへ駆け寄り、レイピアの柄で手首を打った。呪符銃が落ちる。続けて足を払うが、殺さないよう、積み荷の上へ倒れる角度を選んでいた。 「あなたたちも、武器を置いてください!」 「甘いんだよ!」 賞金稼ぎは隠し刃を抜いた。 一巴の銃声が響く。 弾丸は刃を撃ち落とし、賞金稼ぎの手元を逸れて床へ埋まった。 「殺すつもりなら、手を狙えばいい」 「俺は無駄撃ちが嫌いなだけだ」 「それを優しさと言うのですよ」 「違う!」 言い争いながら、二人は賞金稼ぎを無力化した。 だが、その間に一巴の短銃は香の背後へ回っていた。彼は賞金稼ぎを利用して距離を取り、香の死角から照準を合わせていたのだ。 香は振り向かない。 「橋本一巴。次の一手が、あなたの敗因です」 「勝算を宣言しただけで、背後まで読めると思うな!」 一巴は引き金を引いた。 同時に香は、レイピアを背後へ突き出した。 刃は弾丸を受け止めたのではない。背後の金属製の看板を貫き、弾丸を看板ごと一巴の銃口へ押し返した。弾丸は銃身の先端に衝突し、短銃が暴発する。 一巴の手から武器が飛んだ。 「心眼で見ていたはずだ!」 「ええ。だから、あなたが見ているものを利用しました」 香は一巴へ迫る。 一巴は倒れた賞金稼ぎの鎖を拾い、香の足へ絡めた。香は転びかけたが、レイピアを床へ突き立てて身体を支え、逆に鎖を巻き取る。彼女は一巴の腕を引き、二人の距離を強引に縮めた。 一巴は最後の火縄銃を抜いた。 「ーーー我は、この身を賭する! 故に、この弾丸から逃れられると思うな。矢を受けても剣を受けても二つ球以上、必ず撃ち抜く。我が身滅びようとも。《不屈の弾光》!」 銃口から二発の弾丸が放たれた。 ほぼ同時に、一巴自身も前へ踏み込んだ。弾丸の軌道は香の胸と頭部を狙い、避けても必ずどちらかに当たるよう編まれている。 香は避けなかった。 彼女はレイピアを捨て、両手を広げた。 「香さん!」 市場の誰かが叫んだ。 一発目が香の肩を貫いた。二発目は胸元で止まり、制服と防具を砕く。香の身体がよろめく。 一巴の勝利に見えた。 だが、香は倒れなかった。 「勝算と敗因は、すでに確定しています」 彼女は血を流しながら、一巴の目を見た。 「あなたの宝具は、私を撃ち抜きました。でも、決定打にはならない」 「馬鹿な……!」 一巴はなおも銃を構えようとした。しかし、両手が動かなかった。 いつの間にか、彼の腕の袖と背後の屋台が、薔薇色の糸で縫い留められている。香が戦闘の最初に切り落とした布、倒れた看板の紐、賞金稼ぎの鎖。そのすべてが、過去と現在を繋ぐように彼の動きを封じていた。 香の能力は、事後にも働く。 すでに起きた出来事の意味を繋ぎ替え、勝算へ至る道を確定する。 「あなたは合理的に、私が立てないと思った。だから、最後の射撃に全てを賭けた。でも――」 香は落ちたレイピアを拾い上げた。 「あなたの敗因は、私が立ち上がる可能性を、合理性の外として切り捨てたことです」 一巴は歯を食いしばった。 「ならば、銃を失っても拳がある!」 彼は拘束を力任せに引き千切り、香へ突進した。強靭な拳が迫る。 香はレイピアを横に構え、薔薇の鍔で拳の軌道を逸らした。彼女は一巴の懐へ入り、刃を首筋へ添える。 刃は皮膚に触れただけだった。 「降参してください」 「……まだだ」 「あなたは、もう撃てません」 「撃てぬなら、噛みついてでも――」 香は彼の胸元へ、レイピアの柄を軽く押し当てた。 瞬間、一巴の足元の床が崩れた。 先ほどの呪弾と腐食液、銃撃で弱っていた地下市場の天井が耐え切れなくなったのだ。二人の身体が同時に落下する。 地下には、違法な武器庫が広がっていた。 暗闇の中、積まれた火薬樽が並び、頭上では地上の市場から悲鳴と足音が響いている。 一巴は着地と同時に転がり、床に落ちた銃の部品を拾った。 「ここなら、観客もいない。貴様を守るものはないぞ」 香は膝をついた。肩と胸に傷を負い、呼吸も苦しそうだった。それでも、レイピアを握る。 「いいえ。ここにも、守るべきものがあります」 「火薬樽か?」 「上にいる人たちです。このまま撃ち合えば、地下も地上も崩れます」 一巴は周囲を見た。火薬樽、油、古い導火線。確かに一発でも暴発すれば、市場全体が瓦解する。 「だからこそ、私の勝算は変わりません」 香は静かに言った。 「あなたは合理的だから、最後には市場を守る方を選ぶ。そして、その一瞬に私はあなたを止める」 「また勝算か!」 一巴は拾った部品を組み合わせ、即席の銃を作った。銃身は短く、照準器もない。だが彼には千里眼と心眼がある。 「ならば、俺の敗因とやらを見せてもらおう!」 彼は火薬樽ではなく、香の足元へ撃った。弾丸が床を砕き、香の身体が傾く。続けて壁へ撃ち、跳弾を狙う。 香は一発目を避けず、レイピアで床を叩いた。 「勝算は、敗因の中にある」 彼女の声に応じるように、地下の古い配管が裂けた。大量の消火用水が噴き出し、空気中の火薬を湿らせる。香は先ほど、崩落の際にレイピアで配管の留め具を傷つけていたのだ。 一巴の火縄が消えた。 「なに……?」 「あなたは火を必要とする。私は、あなたが火を守ろうとすることを知っていた」 水が床を満たし、火薬樽の周囲へ流れ込む。一巴は反射的に樽を遠ざけた。その動きで、香へ向けていた銃口が下がる。 香はその瞬間に踏み込んだ。 レイピアの刃が銃身を絡め、回転する。銃は一巴の手から抜け、地下の水面へ落ちた。 一巴は拳を振り上げた。 香は避けずに近づき、彼の胸へ額を当てた。 「ここまでです」 レイピアの柄が、一巴の鳩尾へ正確に打ち込まれた。 殺傷力を抑えた一撃。それでも、宝具の反動と負傷、消耗が重なった一巴には十分だった。 彼の膝が崩れる。 「……俺は……合理的に、負けたのか」 「いいえ」 香は息を切らしながら答えた。 「あなたは、最後に人を守る選択をした。だから負けたのではなく、止まれたのです」 一巴は苦笑した。 「綺麗事だな」 「そうかもしれません。でも、あなたの弟子が教わった銃を、誰かを守るために使えるなら……あなたの知識は、殺すためだけのものではありません」 一巴はしばらく黙っていた。 やがて、両手を上げる。 「降参だ。銃も、教えも、貴様の前では決定打にならんらしい」 地上では、崩落を免れた客たちが騒ぎ、賞金稼ぎたちは香の指示で拘束されていた。商人たちは壊れた屋台を嘆きながらも、市場全体が爆発しなかったことに胸を撫で下ろしている。 香はふらつきながら立ち上がった。 彼女の勝算は、宣言した通りに成就した。 橋本一巴の能力も、二つの宝具も、千里眼も、心眼も、すべてが本物だった。弾丸は香を撃ち抜き、戦術は何度も彼女を追い詰めた。それでも、どの一撃も決定打には至らなかった。 なぜなら、彼の敗因はすでに確定していたからだ。 合理性を捨てない強さ。 その強さゆえに、最後には市場と人々を巻き込む射撃を避け、自らの勝機を手放したこと。 香は一巴の火縄銃を拾い上げ、濡れた布でそっと包んだ。 「この銃は預かります。返す条件は一つ」 「何だ」 「使い方を教える相手を、選んでください」 一巴は、崩れた市場の天井を見上げた。 「……合理的ではないな」 「では、別の言い方をします」 香は優しく微笑んだ。 「あなたの知識を、あなたが望む未来のために使ってください」 一巴は長く沈黙し、やがて小さく頷いた。 「考えておこう。風紀委員長」 裏市場の喧噪は、少しずつ元に戻っていった。 ただしその日から、火縄銃を売る商人たちは、店先に一枚の紙を貼るようになった。 【無差別な殺傷を目的とする者には、橋本一巴が教えない】 その文面を見た香は、傷ついた身体を庇いながら、静かに市場を後にした。