夜風工業の社長室には、午後の薄い光が差し込んでいた。 広すぎる部屋だった。壁一面の窓から見える街並みは、工場の煙突や倉庫の屋根ばかりで、華やかさとは無縁だった。それでも、机の上に積み上げられた書類と、使われていない応接用の椅子だけが、この場所に人の営みがあることを示している。 季彦は机に突っ伏していた。 「……もう無理だ。書類、多すぎる」 23歳にして夜風工業の現社長を務める男は、顔を上げないまま呻いた。黒い髪が紙の束にかかり、端に置かれていた判子を危うく床へ落としかける。 その判子を、白い袖が拾った。 「まあまあ。落としたら壊れてしまいますよ」 麗依が、にこやかに判子を差し出した。 美しい着物の裾が床を静かに撫でる。白い長髪は背中に流れ、首元にはヘッドホンがかけられていた。彼女は死者でありながら、あまりにも自然にそこに立っている。まるで、長い眠りから目覚めたばかりの人が、何事もなかったように家事を始めたようだった。 「母さん、助かる」 「ふふ、どういたしまして。けれど、社長さんが机で寝ていてはいけませんよ」 「俺は社長だから寝ていいんだよ。偉いから」 「偉い人ほど、きちんと休むものですか?」 「そこじゃない」 季彦はようやく顔を上げ、判子を受け取った。面倒そうな表情を浮かべているが、麗依へ向ける声には棘がない。 部屋の隅では、零が窓のそばに立っていた。 緑色の着物に、黒い耳飾り。街を見下ろす横顔は静かで、以前の彼を知る者なら、その変化に気づいたかもしれない。かつての零には、感情がなかった。明るく振る舞うことはあっても、それは場の空気に合わせた結果ではなく、ただそうするものだと判断していただけだった。 今の零は違う。 迷いも、罪悪感も、決意も、隠すことなく瞳の奥に宿している。 「季彦」 零が振り返った。 「君に話したいことがある」 「嫌だ」 「まだ何も言っていないよ」 「どうせ面倒な話だろ。俺は面倒な話が嫌いなんだ」 「うん。たぶん、君が嫌がる話だと思う」 「じゃあ帰れ」 季彦は書類へ視線を戻した。だが、手にしたペンは動かない。 零はすぐに返事をしなかった。彼は弟の背中を見つめ、それから静かに歩み寄った。 「僕は、君に謝らなければいけない」 ペン先が紙の上で止まった。 麗依も、何も言わずに二人を見ていた。 「……今さらかよ」 季彦の声は低かった。 「今さらだね」 「本当に、今さらだ」 季彦は椅子の背にもたれた。口元には薄い笑みが浮かんでいたが、目は笑っていない。 「俺はお前が嫌いだ。昔からずっと。お前が何を考えてるか分からなかったし、分からないくせに、何でもできる顔をしていた。周りはお前を見て、優秀だ、立派だって言う。俺はその横で、ずっと置いていかれてた」 零は反論しなかった。 「君の言う通りだと思う」 「そこで素直になるなよ。殴りにくいだろ」 「殴る必要はないよ」 「お前はそういうところが嫌いなんだ」 吐き捨てるように言ってから、季彦は視線を落とした。 「……でも、お前だけのせいじゃない」 零の瞳がわずかに揺れた。 「父さんがいた。母さんが死んで、父さんはおかしくなった。俺たちを使って、何かを壊そうとしている。俺は社長になってから、会社の中にある記録を見た。知らないふりをしていた連中もいたし、知らなかった連中もいた」 机の上には、工場や研究設備に関する資料が並んでいた。その中には、季彦が自分で調べた痕跡がいくつも残っている。 「父さんは、まだ来る」 「うん」 零は頷いた。 「狂彗は、僕たちの父親であると同時に、世界を壊そうとしている人だ。僕は彼を止める」 「一人で?」 「一人ではない。マーカーブレイカーの皆がいる」 「それでも、だ」 季彦は椅子を回し、零と正面から向き合った。 「お前は、全部自分で背負う癖がある。昔からそうだった。感情がないくせに、妙なところだけ頑固で、他人を頼らない。今は感情があるんだから、少しは学習しろ」 「君が心配してくれているの?」 「違う。俺が後から面倒に巻き込まれるのが嫌なだけだ」 「そういうことにしておくよ」 「勝手にしろ」 麗依が、二人の間にそっと湯気の立つ茶を置いた。 「お茶をどうぞ。大事なお話をするときは、喉が渇きますから」 季彦は茶碗を見つめた。 「母さん、いつの間に」 「先ほどから淹れていましたよ」 「全然気づかなかった」 「それは、お二人が真剣だったからですね」 麗依は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、季彦は少しだけ表情を緩める。 零は茶碗に手を伸ばした。温かさが指に伝わる。母が生きていた頃の記憶は、彼の中で断片的だった。声、白い髪、穏やかな笑顔。どれも長いあいだ、触れようとすれば崩れてしまう夢のように感じられていた。 今、麗依は目の前にいる。 その事実が、零にとってどれほど重いものか、季彦は理解していた。 「母さん」 「はい、零」 「僕が君を生き返らせたことを、後悔していない?」 麗依は少しだけ目を丸くした。 「どうして、そんなことを聞くのですか?」 「君は死んでいた。僕の力で戻しただけだ。君が望んだことではなかったかもしれない」 麗依は茶碗を置き、零の前に立った。 「私は、貴方を責めていませんよ」 「でも」 「生きていることは、不思議なことです。嬉しい日もあれば、苦しい日もあります。けれど、貴方が私にもう一度時間をくれたことは、私にとって大切な贈り物でした」 彼女は零の頬に手を添えた。 「だから、貴方が一人で罪を背負う必要はありません」 零は黙っていた。 その横顔に、迷いが浮かぶ。季彦はそれを見て、舌打ちした。 「母さんの前で泣くなよ。俺まで気まずくなる」 「僕は泣いていないよ」 「泣くならさっさと泣け。中途半端が一番面倒だ」 「君は相変わらず優しいね」 「どこがだ」 「僕に対しても、完全には突き放さないところ」 季彦は答えなかった。 それが答えのような気もした。 そのとき、社長室の扉が開いた。 誰も入室の許可を求めなかった。 現れた男は、黒い服をまとい、腰に凶刀を携えていた。43歳とは思えないほど姿勢がまっすぐで、冷たい顔つきには感情らしいものが浮かんでいない。 狂彗だった。 麗依の笑顔が消えた。 零は静かに立ち上がり、季彦は椅子に座ったまま父を睨んだ。 「父さん」 零の声に、狂彗は反応を示さなかった。 「季彦。会社の帳簿を勝手に調べたな」 「俺の会社だ。調べて何が悪い」 「お前は昔から、余計なことをする」 「その言葉、そっくり返す。世界を壊そうとしてる奴に言われたくない」 狂彗は季彦を見た。 「私に対して、恐怖を覚えないのか」 「覚える理由がない。お前は父親として最低で、敵としても面倒なだけだ」 「季彦」 麗依が心配そうに呼びかける。 季彦は片手を上げた。 「母さん、大丈夫。俺は誰に対しても差別的なことは言わない。けど、嫌いな奴を嫌いだと言う権利くらいある」 「そうですね」 麗依は小さく頷いた。 狂彗は、そんな二人の様子を無表情に見ていた。やがて零へ視線を移す。 「零。お前は私を止めるつもりか」 「そうする」 「私に勝てると思うのか」 「勝てるかどうかは、今は問題じゃない」 零の声は静かだった。 「止めると決めた。君が父親だからといって、見逃す理由にはならない」 狂彗は黙った。 その沈黙を破ったのは季彦だった。 「お前は、俺たちをどうするつもりだ」 「邪魔をしなければ、殺すつもりはない」 「それは優しさのつもりか?」 「必要がないから殺さないだけだ」 「相変わらずクズだな」 「否定はしない」 狂彗は冷徹な男だった。世界を壊そうとし、子どもたちを置き去りにし、妻の死さえ計画の一部にした。それでも、彼が息子たちを見つめる目の奥には、ほんのわずかな揺れがあった。 麗依だけが、それに気づいた。 「貴方は、本当は二人を心配しているのですね」 「麗依」 狂彗の声が、わずかに低くなった。 「私の名を呼ぶな」 「どうしてですか?」 「お前は死んでいる。ここにいるべきではない」 「それは、貴方が決めることではありませんよ」 麗依は穏やかに言った。 「零が私を戻してくれました。私は今、ここにいます。貴方と話すこともできます」 「話す必要はない」 「私はあります」 麗依は一歩、狂彗へ近づいた。 「貴方がどんな道を選んでも、私は貴方の妻です。けれど、貴方のすることをすべて許すという意味ではありません。零も季彦も、貴方の所有物ではありませんから」 狂彗は目を伏せた。 長い沈黙だった。 季彦はそれを見ながら、胸の奥に湧く苛立ちを持て余していた。父親が何を考えているのか、やはり分からない。だが、昔から変わらない冷たい顔の裏に、何かがあることだけは感じ取れた。 それが分かったからといって、許すつもりはない。 「父さん」 季彦は立ち上がった。 「俺はお前が嫌いだ。零も、たぶん簡単には許さない。母さんを死なせたことも、俺たちを放っておいたことも、世界を壊そうとしていることも、全部だ」 狂彗は黙っている。 「でも、俺たちを殺さないと言ったことだけは覚えておく。だから俺も、お前を無駄に殺すつもりはない」 「君らしいね」 零が呟いた。 「何が」 「嫌いだと言いながら、最後には命を残そうとするところ」 「俺は基本的に人を殺さないだけだ。勘違いするな」 「うん」 零は頷いた。 「それでも、ありがとう」 「礼を言うな。気持ち悪い」 季彦は顔を背けた。 麗依がくすりと笑う。 「お二人は、仲が良いのですね」 「どこがだ」 「どこがだろうね」 季彦と零の声が重なった。 その瞬間だけ、社長室にかすかな温かさが戻った。 狂彗は三人を見ていた。妻と、二人の息子。かつて自分が守るべきだった家族。すでに壊れたと思っていた関係が、完全ではないにせよ、まだそこに残っている。 だからこそ、彼は視線を逸らした。 「私は行く」 「逃げるの?」 零が尋ねる。 「準備がある」 「次に会ったとき、僕は君を止める」 「分かっている」 「父さん」 季彦が呼び止めた。 狂彗は扉の前で立ち止まった。 「……何だ」 「母さんに、たまにはちゃんと話しかけろ」 狂彗の表情が、わずかに固まった。 「俺は面倒だから、仲直りの手伝いなんかしない。零も自分でいっぱいいっぱいだ。だから、やるなら自分でやれ」 麗依は驚いたように瞬きをした。それから、柔らかく微笑む。 「狂彗。お茶をもう一杯、淹れましょうか?」 狂彗は答えなかった。 ただ、扉を開けたまま、すぐには出ていかなかった。 「……少しだけなら」 麗依の顔が明るくなる。 「はい。すぐに用意しますね」 季彦は深くため息をつき、零は目を細めた。 世界を壊そうとする男と、死から戻った女。憎しみを抱える兄弟。まともとは言い難い家族だった。 それでも、その日、社長室には四人分の茶が並んだ。 誰も過去を消すことはできない。謝罪だけで傷がなくなるわけでもない。許すかどうかも、まだ決まっていない。 だが、話すことはできる。 同じ場所に立ち、互いの声を聞くことはできる。 季彦は新しい書類を一枚手に取り、渋々ながら目を通し始めた。零は窓の外を見ながら、これから向き合うべきものを考えている。麗依は四人分の茶を淹れ、狂彗は無言のまま椅子に座った。 しばらくして、季彦が口を開いた。 「……なあ、零」 「何だい、季彦」 「お前への印象を言っておく」 「急だね」 「俺にとってお前は、嫌いな兄貴だ。昔は何を考えているか分からなくて、今は分かるようになった分、余計に面倒だ。でも、謝るべきことを謝って、逃げずに父さんと向き合おうとしているところは、少しだけ認めてやる」 「少しだけ?」 「少しだけだ。調子に乗るな」 「分かった。僕から見た君は、面倒くさがりで口が悪くて、かなり不器用だ。でも、誰かを見捨てることができない。社長としても、弟としても、君は思っているよりずっと優しいよ」 「……本当に気持ち悪いな、お前」 麗依が手を挙げた。 「では、私も言ってよいですか?」 「母さんは好きにして」 「季彦は、昔からとても優しい子です。零は、ずっと頑張りすぎる子。二人とも、私にとって大切な息子です」 零は照れたように目を逸らし、季彦は書類で顔を隠した。 最後に、狂彗へ視線が集まった。 「私も言う必要があるのか」 「家族ですから」 麗依が微笑む。 狂彗は長く沈黙した。 「零は……強情だ。季彦は……怠惰で、口が悪い」 「父さん、そこまでは否定しないけど、他にないのか?」 季彦が呆れた声を出す。 狂彗は二人を見た。 「だが、二人とも私の息子だ。私が何を思おうと、それは変わらない」 それは、彼にできる精一杯の言葉だった。 麗依は静かに頷き、零はその言葉を胸に刻むように聞いていた。 季彦だけは、照れ隠しのように鼻を鳴らした。 「……遅すぎるんだよ」 「ああ」 狂彗は否定しなかった。 「遅すぎた」 窓の外で、夕暮れの光が街を赤く染めていく。 壊れたものは、元通りにはならない。 けれど、壊れたままでも、拾い上げることはできる。隣に置き直すことも、もう一度言葉を交わすこともできる。 その日、夜風家の四人は、ようやく同じ机を囲んだ。 不器用で、ぎこちなく、決して穏やかとは言えない時間だった。 それでも、誰も席を立たなかった。