薄暗い廃工場地帯。錆びついた鉄骨が骨組みだけになり、空を切り裂くように突き刺さっている。そこに、場違いな白衣を翻し、サングラスをかけた男――トウが立っていた。 「いやー、想定外。まさかこんなところで不法侵入者の乱撃に遭うなんてね。私の計算では、あと三分は静寂が楽しめたはずなんだけどな」 トウは陽気に笑いながら、目の前の襲撃者たちが放った銃弾を、指先一つ触れずに「弾き返して」いた。彼の能力は完全なる反射。だが、それは単なる反射神経ではない。弾丸の材質、速度、回転、そして空気抵抗。それらすべてを原子単位で瞬時に理解し、定義した上で「拒絶」することで成立する。理論に基づいた絶対的な拒絶。 一方、その少し離れた場所では、一人の少女――リンが、泥に塗れながらも激しく動いていた。彼女の動きは、客観的に見れば「ひどい」ものだった。敵を殴ろうとして足がもつれ、回避しようとして壁に激突し、ナイフを投げればあらぬ方向に飛んでいく。 だが、それが彼女の「正解」だった。 (プランA:右への回避に失敗し、壁に激突。その反動で後方に跳ね、敵の死角へ潜り込む。プランB:ナイフの投擲に失敗し、配電盤を直撃。ショートした電撃が敵の足元を焼く。……よし、想定通り) リンの脳内では、超高速の演算が並行して走っていた。彼女のスキル『失敗の呪い』は、能動的な行動をすべて失敗させる。しかし、彼女はその「失敗」という結果を前提に、数千、数万のプランを同時に構築する。Aの失敗がBの成功を導き、Bの失敗がCの道を作る。失敗の積み重ねこそが、彼女にとっての唯一の勝利への階段だった。 襲撃者の最後の一人が、リンがわざと転んだ拍子に転倒したガラクタに躓き、そのまま気絶したところで、二人の視線がぶつかった。 「おっと。隣に賑やかなお嬢さんがいたみたいだね」 トウがひょいと手を挙げ、陽気に声をかける。リンは警戒を解かず、低く構えた。彼女にとって、正体不明の強者はリスクでしかない。 「……誰。あなたも、あいつらの仲間?」 「心外だね! 私はただの教師で、しがない科学者さ。好奇心に突き動かされてここに来ただけ。君のその……なんというか、『計算された不器用さ』には非常に興味があるな。原子レベルで見ていても、君の動きは物理法則を無視して『不運』に寄っている。面白い!」 「……変な人」 互いに探り合い、張り詰めた空気が流れたその時だった。工場の中心部、地響きと共に空間がひしゃげた。コンクリートが爆ぜ、中から「それ」が現れる。 ――【虚無の執行者(ヴォイド・エグゼキューター)】。 高さ三メートルを超える、黒い甲冑に身を包んだ異形。顔があるべき場所には、ただ底なしの闇が広がっている。奴が右手を軽く振るだけで、周囲の物質が分子レベルで分解され、塵へと変わった。圧倒的な破壊力と、あらゆる攻撃を無効化する「虚無の障壁」。 トウのサングラスの奥の目が、鋭く光った。 「あーあ、出た。私のターゲット。あれを解析できれば、論文が三本は書けるな」 リンもまた、その姿を見て奥歯を噛みしめた。彼女がここに来た目的。奪われたある「記憶の断片」を保持しているのが、目の前の怪物だった。 「……あんた、あいつを倒したいの?」 「正解! さて、どうする? ひとりで相手にするには、あいつの障壁は少々厄介そうだ。私の反射能力でも、中身を理解できない『虚無』は反射しにくいからね」 リンは思考を加速させる。プラン1から100までを瞬時に走らせ、すべてが「単独での敗北」という結果を弾き出した。だが、プラン101――隣にいるこの変な男を利用する場合、生存率は40%まで跳ね上がる。 「……今は、力を合わせるだけだな」 「話が早くて助かるよ、お嬢さん! じゃあ、作戦を立てようか。あ、私は説明が長い方だから気をつけてね!」 戦闘は、一瞬で始まった。 執行者が腕を振り下ろす。超高密度の衝撃波が地面を割り、リンとトウを襲う。トウは動かず、ただ静かに手をかざした。 「理論的に説明しよう。衝撃波とは空気の急激な圧縮と膨張の連鎖だ。その波形を完全に把握し、位相を反転させて突き返せば……」 キィィィィン! 凄まじい金属音と共に、衝撃波がそのまま執行者へと跳ね返った。執行者は自身の攻撃に押し戻され、わずかに体勢を崩す。 「今だ!」 トウの合図と共に、リンが飛び出した。彼女は真っ直ぐに執行者の懐へ突き進む。だが、その足取りは危なっかしく、何度も石に躓き、あらぬ方向へよろけている。 (プランA:直進して斬りつける――失敗。足がもつれて転倒する。プランB:転倒した勢いでスライディングし、執行者の足首を狙う――失敗。地面の油に滑り、さらに後方へ流される。プランC:後方へ流されたことで、トウが配置した『反射の起点』にちょうど入り込む――成功!) 「いいタイミングだ!」 トウが指を鳴らす。彼はあらかじめ、地面に微細な反射膜を構築していた。リンが「失敗して滑り込んだ」場所こそが、その起点だった。トウがそこに強力な指向性エネルギーを撃ち込む。それが反射膜に当たり、屈折し、加速し、リンの背中を強烈に突き飛ばした。 「うわああああ!」 悲鳴のような声を上げながら、リンは弾丸のような速度で執行者の懐へと射出された。執行者が慌てて「虚無の障壁」を展開する。あらゆる攻撃を無効化する絶対の壁。 だが、リンの攻撃は「命中」しなかった。 彼女が振るったナイフは、障壁のわずか数ミリ手前で、あらぬ方向に「逸れた」。 (プランD:障壁を貫く――失敗。ナイフが弾かれる。プランE:弾かれたナイフが、執行者の甲冑の継ぎ目――唯一の物理的弱点である頸部の隙間に、偶然、深く突き刺さる――成功!) グチャ、という鈍い音が響いた。完璧な狙いなどない。ただ、あらゆる「失敗」が連鎖し、結果として「ありえない角度」から弱点に刃が突き刺さったのだ。 「……っ!?」 執行者が衝撃にのけ反る。その隙を、トウは見逃さなかった。 「さあ、フィナーレだ。お嬢さん、もう一度『失敗』してくれ!」 「言われなくてもやってるわよ!」 リンは再び、めちゃくちゃな動きで執行者に飛びかかる。わざと空振りし、わざと壁にぶつかり、わざと自分の足に躓く。そのたびに、彼女の軌道は予測不能に変わり、執行者の迎撃をすべて空振りさせた。 トウはそれを完全記憶能力でトレースし、リアルタイムで計算を更新し続ける。リンの「失敗の軌跡」を線で結べば、そこには一つの巨大な幾何学模様が浮かび上がっていた。 「見えた。君の失敗の連鎖が作る、唯一の正解ルートだ!」 トウが白衣を翻し、全力で右手を突き出した。彼は、リンが今までに起こしたすべての「失敗による物理的衝撃」を、空気中の粒子を通じて蓄積し、一つの点に集約させていた。 「全反射・収束(オール・リフレクション・フォーカス)!」 リンが最後の一歩を大きく踏み外して転倒した瞬間、その背後から凝縮された光の奔流が放たれた。リンが転んだことで、ちょうど執行者の懐へと道が開いた。光の槍は、リンの身体をかすめるように通り抜け、執行者の胸の中央――虚無の核を真っ向から貫いた。 ドォォォォォォン!! 大爆発と共に、黒い甲冑が砕け散る。執行者は絶叫さえ上げず、粒子となって消滅していった。 静寂が戻った工場跡地。リンは地面に大の字になって、激しく肩で息をしていた。 「……はぁ、はぁ……。死ぬかと思った……」 「いやー、最高のショーだったね! 君のプランニング能力には脱帽だよ。失敗を前提にして成功を導き出すなんて、なんてロマンチックな思考法なんだ! ぜひ詳しく聞かせてくれ。論文に書きたい!」 トウがキラキラした目で、リンに詰め寄る。リンは呆れたように、けれどどこか心地よさそうに溜息をついた。 「……本当に、変な人。あーもう、うるさい。少し黙って」 「いいじゃないか! 運命の共同戦線を潜り抜けた仲だよ。お礼に美味しいパンケーキ屋を教えてあげる。もちろん、私の奢りでね!」 「……パンケーキ、食べる」 「決まりだ!」 不器用すぎる少女と、天才すぎる教師。 正反対の二人は、夕暮れの廃工場を後にした。歩き出したリンが、またしても何もないところで派手に転んだが、それが結果的に、トウが落としたサングラスを拾い上げる動作に繋がったことに、トウは「やっぱり君は最高だ!」と大笑いしていた。