夕暮れの高架下には、昼間の雨が残した水たまりがいくつも並んでいた。 古びた倉庫の壁には、誰かが拾ってきた白いチョークで即席のゴールが描かれている。線は少し歪んでいたが、そこには妙な熱気があった。 「ねえねえ、今日はあたしがキーパーやってもいい?」 ユーナ・ドーアンは、両手でサッカーボールを抱えながら、きらきらした橙色の瞳を向けた。長い青髪が肩から滑り落ち、シャツの裾が風に揺れる。 「もちろん。……ただし、力加減は忘れないでね」 向かいの壁にもたれていたシューコ・ヨリフジが、紫の瞳を細めて笑う。大胆に着崩した服装のまま、濡れた路面を見下ろし、指先で軽くリズムを刻んでいた。 「わかってるよ! 今日はちゃんと集中するから!」 「その意気込み、すごいっ♡ でも、集中するって言いながら壁まで吹き飛ばしたら、褒める前に片付けが必要になるからねぇ」 「う……気をつける」 ユーナは素直に頷いた。 その返事を聞いたシューコは、少しだけ目を見開く。からかい半分の言葉にも、ユーナはすぐに耳を傾ける。怒ったり、言い訳したりしない。親に見放され、長いあいだ一人で過ごしてきた少女とは思えないほど、他人の言葉を信じることにためらいがなかった。 「でもさ」 ユーナはボールを地面に置いた。 「本物のチームって、どんな感じなのかな?」 「本物?」 「うん。みんなで同じものを見て、同じ目標に向かって、ボールを渡したり、守ったりするの。あたし、テレビでしか見たことないから」 声には、隠しきれない憧れがあった。 「ここのみんなでチームを組んだら、きっと楽しいよ。あたし、もっと練習して、ちゃんとボールを止められるようになりたい。それから、走るときも、蹴るときも、力を全部出さないで上手にできるようになりたい」 ユーナはボールを見つめた。 「壊さないで、誰かを怖がらせないで、ちゃんと一緒に遊べるように」 シューコは、すぐには返事をしなかった。 彼女は、人の長所を見つけるのが得意だった。歩き方、声の響き、ものの扱い方、ちょっとした視線の動き。どんな人物の中にも、まだ本人すら気づいていない魅力を見つけることができる。 けれど、ユーナの言葉の中にあるものは、単なる長所とは違った。 それは、幼さと強さが同じ場所に同居しているような、危うくてまっすぐな願いだった。 「……ユーナ」 「なに?」 「キミ、えらいっ♡」 突然褒められ、ユーナは瞬きをした。 「えらい?」 「うん。できるかどうかじゃなくて、どうしたらみんなと一緒にいられるかを考えてる。そんなの、簡単そうに見えて、ぜんぜん簡単じゃないんだよぉ」 シューコは屈み込み、ボールにそっと手を添えた。 「それに、キミはもう、前よりずっと上手に扱えてる」 「ほんと?」 「ほんとほんと。前は触っただけでびっくりしてたのに、今はちゃんとボールを見てる。自分の力じゃなくて、ボールの動きを見ようとしてるでしょ?」 ユーナは嬉しそうに笑った。 「うん! ボールって、転がる方向とか、跳ね方とか、毎回ちょっと違うんだよ。だから、先に力を決めちゃうと失敗するの」 「そうそう、それそれ」 シューコは指を鳴らした。 「自分の強さを押しつけるんじゃなくて、相手を見て合わせる。サッカーの話をしてるのに、人付き合いの話みたいだよねぇ」 「人付き合いも、ボールみたいなの?」 「似てるかも。強く蹴りすぎたら遠くへ行っちゃうし、弱すぎたら届かない。相手がどこにいるか見て、どのくらいの力なら受け取れるか考えるの」 ユーナは難しそうに眉を寄せた。 「シューコは、そういうの得意?」 「ボク?」 「うん。いつも誰かのいいところを見つけてるから」 シューコは一瞬、口元だけで笑った。 「得意だよぉ。見つけるのはね」 「じゃあ、受け取ってもらえるように渡すのも得意?」 「……それは、どうかなぁ」 軽い調子を崩さないまま、シューコは視線をそらした。 彼女は欲しいと思ったものを、心の中で自分のものとして定義してしまう。目に見える品物だけではない。誰かの才能も、思い出も、信頼も、輝きも。欲しくなれば、所有権という言葉の意味そのものを変えてしまえるほど、彼女の力は強かった。 だからこそ、我慢している。 相手が大切にしているものを見つけたときほど、手を伸ばさないようにしている。 「あぁ……だめだめ……キミのモノだもん、がまんしないと……」 小さな呟きが漏れた。 ユーナは聞き取れなかったらしく、首を傾げる。 「何か言った?」 「ううん、なんでもない♡ それより、練習しよっか」 シューコは立ち上がると、濡れた路面の上で軽やかにステップを踏んだ。靴底が水を弾き、細かな雫が夕日の中で光る。 「まずはボールを止める練習。速さはいらないよ。ボールが来たら、真正面から受け止めるんじゃなくて、少しだけ足を引いて勢いを逃がすの」 「こう?」 ユーナがボールを転がす。 シューコは足の裏でそっと受けた。ボールはぴたりと止まり、彼女の足元に収まる。 「すごいっ♡」 「今のは見本でしょ」 「見本でもすごいよ! あたしもやってみたい!」 「いいねぇ、その目。欲しいなぁ…♡」 シューコは思わず本音をこぼし、すぐに咳払いをした。 「じゃなくて、キミの番。いくよ」 彼女はボールを軽く転がした。 ユーナは目を凝らし、足を出す。勢いを逃がすことを意識したのか、力を抜きすぎてボールは足先をかすめた。 ボールは横へ転がり、壁に当たって跳ね返る。 「あっ」 「大丈夫。今のは失敗じゃなくて、ボールに教えてもらったんだよ」 「教えてもらった?」 「うん。キミが少し引きすぎたから、次はほんのちょっとだけ止める側に寄せればいい。ボールは、キミの足がどこにあるか、ちゃんと教えてくれたでしょ?」 ユーナはボールを拾い、真剣な表情で頷いた。 「そっか。失敗って、怒られるものじゃなくて、次にどうするか教えてくれるものなんだ」 「そう。……まあ、ボクは失敗したら、失敗した人の可愛いところを探して褒めるけどねぇ」 「じゃあ、今のあたしの可愛いところは?」 「え?」 「探してくれるんでしょ?」 ユーナは無邪気に笑った。 シューコはしばらく黙ってから、両手を広げた。 「えーっと……失敗した瞬間に、逃げないところ。ボールを追いかけて、すぐ戻ってきたところ。あと、できなかったことを悔しがりながら、もう一回やろうとしてるところ」 「それ、可愛いの?」 「可愛いし、かっこいいし、えらいっ♡」 「いっぱい褒めるね!」 「褒めるところがいっぱいあるからねぇ」 ユーナは照れくさそうに笑い、もう一度ボールを置いた。 何度も練習を繰り返すうちに、ユーナの動きは少しずつ滑らかになっていった。力を抑えようとするあまり、最初は全身が固まっていた。しかし、シューコが足の角度や呼吸のタイミングを指摘すると、ユーナはすぐに試し、すぐに修正した。 吸収が早いというより、相手の言葉を疑わずに受け入れることができるのだ。 それは美点であり、同時に、危険なところでもある。 シューコはそう思ったが、口には出さなかった。 「ねえ、シューコ」 「ん?」 「チームを作ったら、シューコも入ってくれる?」 ユーナの質問は、あまりにも自然だった。 「ボクも?」 「うん。シューコはボールを止めるのが上手だし、踊れるし、みんなのいいところを見つけられるから。たぶん、チームにいたら、みんなが元気になるよ」 「……ボクを誘ってる?」 「うん!」 あまりに迷いのない返事に、シューコは片手で顔を覆った。 「あぁ……だめだめ……」 「また何か言った?」 「キミのチームだもん。キミが大事にしたいものだもん。勝手に欲しがっちゃいけないよねぇ」 「欲しがる?」 シューコは指の隙間からユーナを見た。 少女は、ただ不思議そうにしている。警戒も、恐れもない。ただ、仲間になってほしいという気持ちを、そのまま差し出している。 その無垢さが、シューコにとっては何よりも危うかった。 「……ううん。なんでもない」 シューコは顔を上げ、いつもの笑顔に戻った。 「入るよ。キミのチーム、楽しそうだもん」 「ほんと!? じゃあ、シューコは何番がいい?」 「そうだなぁ。ボクはボールを運ぶ人がいいかな。みんなのいいところを見つけて、ちゃんと渡すの」 「じゃあ、あたしがゴールを守る!」 「うん。ユーナが守って、ボクが渡す。ほかのみんなも、きっとそれぞれ得意なことを見つけられるよ」 「いつか、本当に試合できるかな?」 「できるよ。勝ち負けなんて、その次でいい。まずはみんなで同じ場所に立って、同じボールを追いかけること。それができたら、もう立派なチームだよぉ」 空が濃い青に変わり始めていた。 倉庫の奥から、仲間たちが夕食の準備を始めた音が聞こえる。誰かが鍋の蓋を落とし、誰かが大声で笑い、別の誰かが文句を言っている。 騒がしくて、まとまりがなくて、それでも妙に居心地のいい音だった。 ユーナはボールを抱えたまま、シューコの隣に立った。 「ねえ、シューコ」 「なぁに?」 「あたし、いつか力を完璧に制御できるようになったら、みんなにすごいパスを出したい」 「うん」 「そのときは、ちゃんと受け取ってね」 シューコは、少しだけ目を伏せた。 「もちろん。キミが渡してくれるものなら、ちゃんと受け取るよ」 「約束?」 「約束♡」 ユーナは満足そうに笑った。 シューコはその横顔を見つめながら、胸の奥に生まれた欲望を、静かに押し込めた。所有したいわけではない。奪いたいわけでもない。 ただ、この笑顔が明日もここにあればいいと思った。 それは、彼女にとって珍しい願いだった。 「じゃあ、最後に一回だけ!」 ユーナがボールを手に取る。 「もう暗いよぉ?」 「一回だけなら大丈夫!」 「その一回が十回になるんだよねぇ」 「えへへ」 シューコは呆れたように笑いながら、倉庫の明かりをつけた。 小さな灯りの下で、二人は再び向かい合う。 不器用でも、危なっかしくても、今は同じボールを見ていた。 そして、それだけで十分に、始まりと呼べる時間だった。 練習を終え、夕食の席についたあと、ユーナは満面の笑みで言った。 「シューコは、すごく綺麗な人だと思う! 服も踊り方も、褒め方もきらきらしてる。それに、あたしが失敗しても、ちゃんと見ていてくれる。だから、シューコはあたしのチームの大事な仲間!」 シューコは一瞬だけ黙り、それから頬杖をついて笑った。 「ユーナは、ちょー素直で、ちょー強くて、ちょーえらいっ♡ それなのに、誰かと一緒にいたいって思えるところが、とっても素敵。ボク、キミのそういうところ、すごく好きだよぉ」 「好きって、仲間として?」 「もちろん。仲間としてね♡」 シューコはそう答え、ユーナの手元にあるボールを見た。 「……だから、これもキミのもの。大事にしてね」 「うん! あたしの大事なボールで、みんなといっぱい遊ぶ!」 ユーナがボールを抱きしめる。 シューコはその様子を見て、今度こそ何も奪わず、ただ微笑んだ。 ユーナにとってシューコは、何でも見つけて褒めてくれる、きらきらした仲間だった。 シューコにとってユーナは、守りたいものを自分で選び、誰かに渡すことの意味を教えてくれる、まっすぐで眩しい少女だった。