昼とも夜ともつかない、無数の照明が空を塗り潰す裏市場。 違法な魔導具、瓶詰めの記憶、名もない怪物の卵、盗掘品の聖遺物。情報屋が客の耳元で囁き、賞金稼ぎが人相書きを睨み、怪しい商人たちが互いに怒鳴り合っていた。 その一角を、石楯ヒメリは歩いていた。 黒髪の左側で、火を模した髪飾りが揺れている。アニメのように華やかなドレス姿は、煤けた市場の中ではあまりにも場違いだった。彼女は露店に並んだ小さな薬瓶を眺め、店主に微笑みかける。 「それ、火傷に効く薬ですか?」 「そうだ。金貨三枚」 「少し高いですね。困っている人がいたら、分けてあげたいのですが……」 「慈善事業じゃねえんだよ、嬢ちゃん」 店主が吐き捨てた、そのときだった。 市場の喧噪が、波のように割れた。 白い魔力を纏った青年が、人の流れの向こうから現れる。白髪、革の鎧、星碧の套布。右手には飾り気のないブロードソード。だが、その姿を見た者は、誰もが一瞬だけ呼吸を止めた。 国一つを覆うほどの覇気。 赤子ですら理解する、近づいてはならない存在の圧。 魔王アルバンゲロス。 彼は人々を押し退けることすらせず、ただ歩いていた。それだけで客も商人も道を空けていく。 ヒメリは彼の前に残った。 アルバンゲロスの乳白色の瞳が、彼女を捉えた。 「そこを退いてくれるかな」 素朴な声だった。親しみやすい、掠れた微笑みすら浮かべている。 けれどヒメリは動かなかった。 「すみません。今、この薬を買おうとしていて」 「そうか。なら、僕が通るまでの時間を無駄にすることになる」 「……無駄?」 アルバンゲロスは露店の薬瓶を一瞥した。 「死者の血を薄めた粗悪品だ。君が誰かに分け与えれば、その人間は半日後に内側から焼ける。善意で他人を殺すつもりかい?」 店主の顔が引きつった。 ヒメリは瓶を見た。中の液体が、照明を受けて不自然に揺れている。 「……本当ですか?」 「僕は嘘をつく必要がない」 「でしたら、あなたが買い取って処分してくださいますか?」 「なぜ僕が?」 「誰かが傷つくかもしれないからです」 アルバンゲロスは、初めて笑みを消した。 「それは君の問題だ。自分の手で解決しろ」 「あなたほど強い人なら、簡単でしょうに」 「力ある者がすべてを救えば、人は再び自分で立てなくなる。僕はそんな時代を壊すために戻ってきた」 「でも、目の前の人を見捨てる理由にはなりません」 穏やかな声音だった。 だからこそ、アルバンゲロスの眉がぴくりと動いた。 彼は市場全体に響くほどの覇気を放った。吊り下げられた鉄籠が揺れ、屋台の布がはためき、幾人もの客が膝をつく。 「見捨てる? 君は何も知らないのに、僕を裁くのか」 「裁いてはいません。ただ、怒っているように見えます」 ヒメリは少し首を傾げた。 「もしかして、図星でしたか?」 アルバンゲロスの笑みが消えた。 「……君は、僕に喧嘩を売っているのか」 「売っているつもりはありません。ただ、あなたが怒っているなら、理由を聞きたいだけで」 「ならば聞かせてあげよう。僕は、くだらない善意で歴史を止める者が嫌いだ」 彼は剣を抜いた。 「君のような者がいるから、人は誰かに守られることを当然と思う。僕はその甘えを叩き潰す」 剣先がヒメリを指す。 「さあ、証明してみろ。君の親切が、この市場でどれほどの価値を持つのか」 明確な殺意ではない。だが、喧嘩を売るには十分だった。 市場の観客たちがざわめく。 ヒメリは薬瓶をそっと店主へ返し、火の髪飾りに触れた。 「困りましたね。私は争いが苦手なんです」 「なら逃げればいい」 「でも……」 彼女はアルバンゲロスを見上げ、うっとりと微笑んだ。 「そんな怖い顔で迫られると、少し嬉しくなってしまって」 アルバンゲロスの目が細くなる。 「なるほど。恐怖を快楽に変換する性質か。厄介だね」 「理解が早いですね。では、もう少し怖くしていただけますか?」 「望みどおりに」 次の瞬間、アルバンゲロスの姿が消えた。 剣閃がヒメリの肩口をかすめ、ドレスと皮膚を裂く。血が飛び、周囲の客が悲鳴を上げて逃げ出した。 ヒメリはよろめいた。だが、倒れない。 「あぁ……この痛み、私の命が……うふふ……」 「笑うのか」 「はい。あなたの剣、とても綺麗です」 アルバンゲロスは即座に間合いを詰めた。二撃目は首を狙う。しかしヒメリの足元から赤茶色の粒子が噴き上がり、剣の軌道を逸らした。 塵。 ただの塵ではない。灼熱した粒子が無数に舞い、触れた木箱を瞬時に焦がしていく。 「塵焦の魔法……」 アルバンゲロスは剣を返し、燃え広がる火を一閃で断ち切った。 炎そのものではない。ヒメリの塵が、火種から火種へ爆炎を伝播させている。 「燃焼ではなく、熱を持つ媒介物。周囲の可燃物を連鎖的に起爆させる術か」 「正解です」 ヒメリが指を鳴らした。 先ほど焦げた木箱から爆炎が噴き出し、隣の屋台へ飛び移る。布、油、乾燥薬草。炎は市場の構造を利用して、蛇のように走った。 商人たちは商品を抱えて逃げ、観客は悲鳴を上げながら路地へ殺到する。 アルバンゲロスは燃え移る炎の位置を一瞬で見抜き、屋根の梁、吊り籠、鉄柱へと剣を打ち込んだ。切断された梁が倒れ、炎の連鎖を遮る。 だが、その行動自体が別の店を潰した。瓶が割れ、紫色の煙が噴き出す。 「あなた、戦いながら被害を抑えているつもりでしょう?」 「君が市場を焼き尽くすからだ」 「でしたら、私を早く倒してください」 ヒメリは両手を広げた。 灼熱の塵がドレスの裾から舞い上がり、彼女自身の腕や頬を焼く。皮膚が赤く爛れるほどの熱。それでも彼女は恍惚として笑った。 「自分を巻き込むのが、私の魔法の一番楽しいところです」 「自滅を戦術と呼ぶのか」 「いいえ。相手も巻き込めば、立派な勝ち筋です」 爆炎が弾けた。 アルバンゲロスは身を低くし、熱波の中を突進する。彼の套布が燃え、革の手袋が焦げる。だが、速度は落ちない。 彼は炎の発生源ではなく、ヒメリの視線を見ていた。 彼女が見た場所に、次の爆発が生まれる。 ならば見せなければいい。 アルバンゲロスは近くの露店から反射鏡を蹴り上げた。鏡面が複数の照明を乱反射し、煙と熱で歪んだ市場に無数の光点を作る。 ヒメリの視線が一瞬迷った。 「目を使う術なら、目を欺けばいい」 「なるほど……では、目を使わなければいいんですね」 ヒメリは目を閉じた。 「音、熱、匂い。全部、塵は覚えています」 彼女の周囲の粒子が、アルバンゲロスの動きを感知するように震えた。 アルバンゲロスの剣が横薙ぎに走る。 ヒメリは避けず、腕で受けた。血が噴き出す。同時に、剣の刃へ塵がまとわりついた。 「触れました」 「それがどうした」 「あなたの剣が、次の火種です」 彼女が手を握る。 アルバンゲロスの剣身が爆発した。 彼は剣を手放さず、爆発の勢いを利用して後方へ跳んだ。煙の中から、屋台の看板を踏み台にして高く舞う。 空中で剣を回し、落下の勢いを加えた斬撃を放った。 ヒメリは身を捻ったが、刃は脇腹を深く裂いた。彼女の身体が屋台を突き破り、瓶や金属片とともに路地へ転がる。 観客の一人が、震える声で叫んだ。 「魔王が勝つぞ!」 「いや、あの女はまだ立つ!」 ヒメリは血まみれのまま起き上がった。 「痛い……すごく痛いです……」 そして、嬉しそうに笑う。 「最高ですね」 アルバンゲロスは剣を構え直した。 「君は死を恐れていない」 「死ねないんです」 「それは違う。死ねないことと、恐れないことは別だ」 「では、試してみますか?」 ヒメリは路地の壁に手を当てた。そこには、裏市場を支える古い煉瓦の壁と、無数の木箱、油壺、魔導具の残骸があった。 塵が一斉に染み込む。 「この区画全部を、爆炎の回路にします」 アルバンゲロスは周囲を見渡した。 彼は瞬時に理解した。ヒメリは自分を中心に爆発させるのではない。市場の構造全体を巨大な導火線に変え、どこを踏んでも連鎖するようにしている。 「君も死ぬぞ」 「死ねません」 「ならば、苦痛だけが残る」 「それも素敵です」 アルバンゲロスが踏み込もうとした、その瞬間だった。 市場の奥から、銅鑼の音が鳴り響いた。 「緊急競売だ! 伝説級の竜種幼体が入ったぞ!」 混乱の中、別区画の門が開かれた。 そして、ランダムイベントが起きた。 商品の中から危険生物が逃げ出したのだ。 鋼鉄の檻を破って現れたのは、鱗の代わりに硝子質の甲殻を持つ巨大な獣だった。四つの顎から青白い蒸気を吐き、尾で露店を薙ぎ倒す。蒸気に触れた金属が一瞬で凍りつき、屋根が次々と崩れていく。 客たちは二人への恐怖を忘れ、我先に逃げ出した。 獣が咆哮し、アルバンゲロスへ突進する。 彼は剣で角を受け止めた。足元の石畳が砕け、身体が数メートル押し込まれる。 「なるほど。君の術だけでなく、獣まで相手にしろというわけか」 「私が呼んだわけではありませんよ」 「だが、利用するつもりだろう?」 「もちろんです」 ヒメリは獣の周囲へ塵を散布した。だが、爆発は起こさない。獣の吐く冷気が塵を固め、透明な熱粒子の壁を作る。 獣が壁へ突っ込むと、熱と冷気の温度差で甲殻に亀裂が走った。 アルバンゲロスはその亀裂を見逃さなかった。 「君は敵を傷つけるだけでなく、僕に弱点を示したのか」 「ええ。どうぞ使ってください」 「親切だね」 アルバンゲロスは笑った。 次の瞬間、彼は獣の背を駆け上がった。剣を逆手に持ち、甲殻の亀裂へ突き立てる。獣が暴れ、周囲の屋台がさらに崩れた。 ヒメリはその足元へ塵を集めた。 「今です!」 「僕に指図するな」 「でも、あなたは勝ちたいのでしょう?」 「勝つのは僕だ」 アルバンゲロスが剣を捻る。 ヒメリが指を鳴らす。 獣の内部で、冷気に固められた塵が連続爆発した。 獣は咆哮し、巨体を横倒しにする。アルバンゲロスはその背から跳び、ヒメリへ向かった。 彼の剣が、真正面から彼女の胸を貫いた。 観客の残った者たちが息を呑む。 ヒメリの身体が後ろへ反り、剣先が背中から突き出る。熱い血が刃を伝った。 「終わりだ」 アルバンゲロスは静かに言った。 しかしヒメリは、剣に貫かれたまま彼の腕を掴んだ。 「はい。あなたの勝ちです」 「……なら、なぜ笑う」 「敗者の天罰が、来ますから」 空が、裏市場の天井を突き抜けた。 雲もないのに、白い雷光が落ちる。 それはヒメリだけを標的にした、理不尽な処刑の光だった。 処刑台の呪い。 彼女の身体が剣ごと宙へ吊り上げられ、足元に炎の輪が現れる。天から降る炎は彼女を焼き、ドレスを、髪を、皮膚を、すべて赤く染めていった。 アルバンゲロスは剣を抜いて後退した。 「君の呪いか」 「はい……あぁ……熱い……痛い……!」 ヒメリは苦痛に震えながら、それでも笑っていた。 「でも、すぐ終わるんです……それが少し、不満で……」 炎は激しく燃え上がり、彼女の姿を完全に包む。 客たちは凍りついた。敵味方を問わず、誰もその光景を喜ばなかった。アルバンゲロスでさえ、乳白の瞳を細めていた。 「これは、君の敗北を祝うものではない」 「ええ。私を罰するだけの、意味のない天罰です」 「意味がないなら、僕が壊す」 「……え?」 アルバンゲロスは剣を構えた。 彼は呪いの炎を見ていた。単なる火ではない。敗北という結果を媒介にして、対象の存在を処刑し、直後に再生させる術式。死や消滅を許さない呪縛が、蘇生までを一つの循環にしている。 ならば、倒すべきは炎ではない。 「君は負けた。だから罰を受けている」 アルバンゲロスは呟いた。 「なら、その判定そのものを斬る」 剣が白く輝いた。 伝説の聖剣、その原型。 アルバンゲロスは炎へ踏み込み、剣を振るった。炎を斬るのではない。ヒメリと天罰を結びつける見えない因果を、根源から断つ。 空間が軋んだ。 白い火刑の炎が裂け、雷光が行き場を失って市場の柱へ流れ込む。柱が崩れ、瓦礫が二人の周囲へ降り注いだ。 ヒメリの身体が落ちる。 焼け焦げたはずの皮膚が、呪いの力によって強引に再生していく。彼女は地面へ膝をつき、荒い息を吐いた。 「……どうして、助けたんですか?」 アルバンゲロスは剣を下ろした。 「君を倒したのは僕だ。だが、君を罰する権利まで空に渡した覚えはない」 ヒメリは目を見開いた。 「それは……私の敗北を否定した、ということですか?」 「違う。君は僕に負けた。そこは変えない」 アルバンゲロスは彼女の前に立つ。 「だが、負けた者を永遠に苦しめるだけの制度を、僕は認めない。かつての王国では、敗北は次に立ち上がるためのものだった」 ヒメリは焼けた髪を指で梳いた。 「……あなた、最初からそれを言えばよかったのに」 「君が僕を怒らせた」 「親切にしただけなのですが」 「その親切を、僕は停滞と呼んだ。僕の間違いだった」 市場は見る影もなかった。燃えた屋台、凍った石畳、倒れた檻。逃げ遅れた商人たちは商品を拾い集め、遠巻きに二人を見ている。 硝子甲殻の獣は、アルバンゲロスの一撃で気絶していた。崩れた門の向こうでは、賞金稼ぎたちがこちらへ近づく気配がある。 ヒメリは立ち上がった。身体は再生していたが、痛みの余韻だけが残っている。 「では、もう一度喧嘩を売ってもいいですか?」 「なぜ?」 「今度は、あなたが本当に怒っている顔を見たいので」 アルバンゲロスはしばらく黙った。 それから、困ったように笑う。 「君はつくづく厄介だね」 「褒め言葉ですか?」 「そう受け取っておけばいい」 ヒメリは燃え残った髪飾りを直し、彼の横に並んだ。 「では、薬屋さんを探しましょう。さっきの店主さん、逃げてしまいましたから」 「君はまだ他人の心配をするのか」 「ええ。あなたが壊した市場の弁償も必要ですし」 「僕一人に払わせる気かい?」 「勝者の責任です」 アルバンゲロスは、今度こそ小さく笑った。 背後で、遅れて火が爆ぜた。ヒメリが仕込んでいた最後の塵が、崩れた屋台の油壺を熱したのだ。 アルバンゲロスは振り返り、剣の腹で炎を叩き消す。 「まだ終わっていないようだ」 「戦闘は終わりましたよ。これは後片付けです」 「君の魔法は、後片付けまで危険なのか」 「はい。とても便利でしょう?」 彼女は無邪気に笑った。 魔王はため息をつき、燃え残った市場を見渡す。 勝敗は決した。 ヒメリは剣に貫かれ、完全に敗北した。だが、敗者の天罰はアルバンゲロスによって断ち切られ、彼女は焼かれたまま終わることを許されなかった。 アルバンゲロスは勝者として立ち、同時に、呪いを否定する者として彼女を救った。 そして二人は、壊れた裏市場の中を歩き出す。 片方は、痛みを楽しむ不死の魔法少女。 もう片方は、世界を壊して勇気を取り戻そうとする初代勇者の魔王。 その背を見送りながら、商人の一人が震える声で呟いた。 「……次に会ったら、絶対に別の市場へ行こう」 誰もが同意した。