薄い霧が、forsakenの街並みを静かに包んでいた。 かつて何かに使われていたらしい建物の壁は、ところどころ崩れ、窓ガラスには細かなひびが走っている。風が通り抜けるたび、看板がかすかに揺れ、遠くで金属の擦れる音がした。 その荒れ果てた通りの中央に、ひとりの影が立っていた。 全身を黒で覆い、胴体だけが不気味な緑色を帯びている。片目は赤く光り、頭上にはドミノクラウンが乗っていた。両手には、二本一組の奇妙な両剣――ヴェノムシャンク。 1×1×1×1は、誰もいないはずの通りを見渡しながら、わずかに首を傾けた。 「……静かすぎる」 声は低く、平坦だった。けれど、退屈していることだけは隠しきれていない。 そのとき、上空から羽ばたきの音が響いた。 霧を押し分けるように、青く長い髪の少女が降りてくる。背中には大きな青い羽。白衣をまとった姿は、この荒廃した場所にはあまりにも清らかで、まるで場違いな天使のようだった。 少女――蒼森ミネは、地面に降り立つと、周囲を見回した。そしてすぐに、1×1×1×1の姿を見つける。 「あなたが、この場所にいる危険人物ですね」 凛とした声だった。しかし、目の奥には妙に熱い光が宿っている。 1×1×1×1は、両剣を軽く下げたまま答えた。 「危険人物。そう呼ばれるのは慣れている」 「そうですか。では、話は早いですね」 ミネは一歩進み、白衣のポケットから小さな医療用ケースを取り出した。中身を確認し、満足そうにうなずく。 「この地域には、まだ使えそうな医療品が残っています。私はそれを回収しに来ました」 「そのために、ここへ?」 「ええ。救護騎士団の団長として、必要なものを集めるのは当然の務めです」 「騎士団長……」 1×1×1×1は、赤く光る片目で彼女を見つめた。 「その格好で?」 「この格好だからこそ、です」 ミネは胸を張った。青い羽が背後で大きく広がり、薄暗い街に淡い色を落とす。 「白衣は、誰かを救う覚悟の証。羽は、どこへでも駆けつけるためのもの。そしてこのショットガンは――」 彼女は背負っていた銃に手を添えた。 「救助活動を妨げるものを、速やかに片付けるためのものです」 1×1×1×1は少しだけ沈黙した。 「救助活動と言いながら、随分と物騒だ」 「救うためには、まず道を開けなければなりませんから」 ミネはにこりと笑う。 その笑顔は穏やかだった。だが、なぜか周囲の空気が一瞬だけ張り詰める。 救護騎士団では、こんな噂がある。 ――ミネが壊して、騎士団が治す。 その言葉を思い出したように、ミネは小さく咳払いをした。 「……ただし、今日は争うつもりはありません」 「本当に?」 「本当です。医療品を探しているだけですから」 「ならば、なぜ私を危険人物と呼んだ」 「見た目と雰囲気です」 「正直だな」 「よく言われます」 ふたりの間に、妙な沈黙が落ちた。 やがてミネが辺りを見回し、崩れた建物の方へ向かおうとする。だが、すぐに足を止めた。 「……あちらへ行く道が塞がっていますね」 「そうだな」 「あなた、ここに詳しいのですか?」 「多少は」 「では、案内していただけませんか?」 1×1×1×1は、わずかに眉を動かした。 「私に頼むのか」 「頼れる相手が、今はあなたしかいませんので」 「私が嘘をついて、危険な場所へ誘導するとは考えないのか」 「その場合は、あなたが責任を取ってください」 「……なるほど」 「それに」 ミネは少しだけ身をかがめ、彼の顔をのぞき込んだ。 「あなたは、さっきから私が持っている医療品に視線を向けています。興味があるのですか?」 「ない」 「では、見ていた理由は?」 「確認しただけだ」 「それを世間では興味と言います」 1×1×1×1は返事をしなかった。 ミネはその反応を見て、ふっと口元を緩める。 「案外、話しやすい方ですね」 「それは初めて言われた」 「では、記念すべき第一号です」 「そういう記念はいらない」 「遠慮しなくてもいいですよ」 ミネは堂々と歩き出した。1×1×1×1は少し遅れて、その後をついていく。 瓦礫の間を抜け、ひび割れた建物の横を通り、ふたりは狭い路地へ入った。霧が濃くなり、ミネの青い羽が壁に影を落とす。 「ところで」 ミネが歩きながら尋ねた。 「あなたは、普段どんな場所で過ごしているのですか?」 「ここだ」 「ずっと?」 「必要なら」 「家は?」 「ない」 「食事は?」 「必要ない」 「睡眠は?」 「必要ない」 ミネは足を止めた。 「……それは、健康状態を心配すべきなのでしょうか」 「心配する必要はない」 「医療従事者としては、そう言われると余計に心配になります」 「お前は誰にでもそうなのか」 「特に年下には」 ミネは振り返り、少し得意げに言った。 「私は、年下を甘やかすのが好きですから」 「私が年下に見えるのか」 「外見だけでは判断できません。ですが、少なくとも放っておくと面倒を起こしそうです」 「それは甘やかす理由になるのか」 「なります。面倒を起こす前に、こちらで管理しておけばよいのです」 「管理……」 1×1×1×1は、あまり好ましくない言葉を聞いたように両剣を持ち直した。 ミネはすぐに気づき、両手を上げる。 「誤解しないでください。拘束するつもりはありません。ただ、食事や休息を取らない人を見ると、世話を焼きたくなるだけです」 「私は人ではない」 「それでも、あなたには意思があり、会話ができる。なら、扱いを変える理由はありません」 その言葉に、1×1×1×1は黙り込んだ。 霧の向こうで、古い時計塔が見えた。針は止まっている。時間さえ、この場所では捨てられているようだった。 「……変わった奴だ」 しばらくして、彼はそう言った。 「よく言われます」 ミネは先ほどと同じ返事をした。 建物の裏手に回ると、崩れた倉庫があった。扉は半分外れ、内部には木箱や棚が残っている。 ミネの表情が明るくなった。 「医療品がありそうです」 「見ただけで分かるのか」 「救護騎士団の団長ですから」 彼女は羽をたたみ、慎重に倉庫へ入った。棚の上に積まれた箱をひとつずつ確認し、ラベルを読み取っていく。 「包帯、消毒液、鎮痛剤……こちらは期限切れですね。これはまだ使えます」 ミネは手際よく仕分けを始めた。 1×1×1×1は入口に立ったまま、その様子を眺めている。 「随分とうれしそうだな」 「医療品は、いくらあっても困りません」 「使う相手がいるのか」 「もちろんです。トリニティ総合学園には、助けを必要としている人がたくさんいます。セナやセリナ、ハナエも、いつも忙しくしていますから」 「仲間か」 「ええ。救護騎士団の大切な仲間です」 「呼べるのか」 「必要なら、すぐに来てもらえます。ただ、今回は私ひとりで十分です」 ミネは箱を抱え上げようとした。 しかし、箱は予想以上に重かったらしい。持ち上げた瞬間、彼女の肩がわずかに沈む。 「……少し、量が多いですね」 「貸せ」 1×1×1×1が手を伸ばし、箱を受け取った。 ミネは目を丸くした。 「手伝ってくださるのですか?」 「案内の礼だ」 「ありがとうございます。とても助かります」 「礼は不要だ」 「では、感謝だけ受け取ってください」 1×1×1×1は返事をしなかったが、箱を持つ手を緩めることはなかった。 ふたりは倉庫から医療品を運び出し、比較的崩れていない建物の一室へ集めた。ミネは品物を並べ、種類ごとに整理していく。 その手つきは迷いがなく、几帳面だった。 「あなたは、どうしてそこまで医療品を集める?」 1×1×1×1が尋ねた。 ミネは包帯の束を整えながら答える。 「助けられる人を、助けられなかったという理由で失いたくないからです」 「すべてを救えると思っているのか」 「いいえ」 ミネは静かに首を横に振った。 「すべてを救えるほど、私は万能ではありません。それでも、目の前にあるものを放っておくことはできません」 彼女は一度、1×1×1×1を見る。 「あなたは?」 「私?」 「何かを守るために、ここにいるのですか?」 「分からない」 即答だった。 「ただ、ここにいる。それだけだ」 「それでも、誰かを案内し、荷物を運んでくれました」 「気まぐれだ」 「気まぐれでも、誰かの助けになったなら十分です」 「お前は、何でも前向きに解釈するな」 「そうでなければ、団長など務まりません」 ミネは胸を張った。青い羽がふわりと揺れる。 「それに、救護騎士団の団長は、仲間の前で落ち込んでばかりもいられませんから」 「過激だという噂もあるようだが」 「……どこで聞きました?」 「騎士団が治す、と」 ミネは数秒黙った。 「その噂は、少々誇張されています」 「否定はしないのだな」 「私が道を切り開き、仲間が後から治療する。役割分担です」 「壊しているのは認めるのか」 「必要な範囲で、です」 彼女はきっぱりと言った。 1×1×1×1は、初めて少しだけ笑ったように見えた。赤く光る片目の印象が変わったわけではない。それでも、声の響きにわずかな柔らかさが混じる。 「噂は、あながち間違いではないらしい」 「あなたも、見た目ほど無口ではありませんね」 「そうか?」 「ええ。最初は、こちらを見たまま一言も話さない方かと思っていました」 「話す必要がなかっただけだ」 「今は必要があるのですか?」 「お前が質問するからだ」 ミネはくすりと笑った。 「では、私のおかげですね」 「好きにしろ」 整理を終えると、ミネは持ち帰る分をまとめた。大きな荷物を背負い、青い羽を広げる。 その姿を見て、1×1×1×1が言った。 「運べるのか」 「これくらいなら問題ありません」 「無理をしているように見える」 「団長ですから」 「その言葉で何でも済ませるつもりか」 「便利な言葉ですよ」 「そうは見えない」 ミネは少し考え、荷物の一部を地面に置いた。 「……では、もう一度だけお願いします」 「何を」 「持つのを手伝ってください」 1×1×1×1は、置かれた荷物を見た。それからミネを見る。 「最初からそう言えばいい」 「年下に甘えるのは、少し気が引けるので」 「お前が年下を甘やかすと言っただろう」 「甘やかすのと、甘えるのは別です」 「面倒だな」 「よく言われます」 彼は荷物を持ち上げた。 帰り道、ミネは時折、彼の横顔を盗み見る。相変わらず全身黒く、緑色の胴体と赤い片目は不気味だった。けれど、先ほどから彼は一度も荷物を乱暴に扱っていない。 歩幅も、ミネに合わせているようだった。 「あなたは、意外と親切ですね」 「親切ではない」 「では、何ですか?」 「……気まぐれだ」 「またそれですか」 「それで十分だ」 街の入口まで戻ると、ミネは荷物を受け取った。だが、すぐには飛び立たず、1×1×1×1の前に立つ。 「今日は助かりました」 「そうか」 「もしまたこの辺りに来ることがあれば、トリニティ総合学園の救護騎士団を訪ねてください」 「私を歓迎するのか」 「もちろんです。少なくとも私は」 「仲間は?」 「セナは驚くでしょうし、セリナは質問をたくさんするでしょう。ハナエは……たぶん、あなたの健康状態を心配します」 「健康状態は問題ない」 「それを本人たちに説明してください」 「断る」 ミネは笑った。 「では、私が説明しておきます」 「勝手にしろ」 「ええ、勝手にします」 彼女は羽を広げた。青い羽ばたきが霧を散らし、灰色の空へ淡い光が舞う。 飛び立つ直前、ミネは何かを思い出したように振り返った。 「そういえば、あなたのお名前は?」 「1×1×1×1」 「……独特なお名前ですね」 「お前は?」 「蒼森ミネ。救護騎士団の団長です」 「覚えておく」 「私も覚えておきます、1×1×1×1さん」 ミネは丁寧に頭を下げた。その仕草は騎士らしく、同時にどこか優しかった。 「また会いましょう」 「気が向けばな」 「それで構いません」 次の瞬間、ミネの姿は霧の上へ舞い上がった。青い髪が風に流れ、羽が大きく揺れる。やがて彼女は建物の向こうへ消えていった。 1×1×1×1は、しばらくその空を見上げていた。 静かなforsakenに、再び風の音が戻ってくる。 「……騒がしい奴だった」 そう呟きながらも、彼は倉庫から運び出した荷物の置かれた方を振り返った。 そして、誰も見ていないことを確かめるように、ほんのわずかに口元を緩める。 その頃、空を飛ぶミネもまた、ひとりで小さく呟いていた。 「怖そうに見えましたが、きちんと話を聞いてくださる方でしたね」 荷物を抱えながら、彼女は満足そうにうなずく。 「少し放っておけない感じもあります。次に会ったら、医療品の整理を手伝ってもらいましょう。ついでに、食事と休息についても確認しなくては」 その声には、すでに次に世話を焼く算段を立てている熱があった。 一方、地上の1×1×1×1は、霧の向こうへ消えた青い羽を見つめながら、低く言った。 「蒼森ミネ……凛としているが、妙に押しが強い。救うという言葉を、あれほど迷いなく口にする者は珍しい。面倒で、騒がしくて、危なっかしい。それでも……悪くはない」 彼にとって、それは最大級の評価だった。 空の上では、ミネが彼に対する印象を語っていた。 「1×1×1×1さんは、近寄りがたい雰囲気がありますが、実際にはとても律儀な方です。自分では気まぐれと言っていましたけれど、困っている人を放っておけないところがあるのかもしれません。少し無理をしすぎるようなので、次に会ったときは、きちんと甘やかしてあげたいですね」 霧に覆われたforsakenで、ふたりの姿はもう見えない。 それでも、荒れ果てた街に残された医療品と、並んで歩いた足跡だけが、その出会いが確かなものだったと物語っていた。