夕暮れ時の廃工場地帯。錆びついた鉄骨が骸骨のように突き出し、赤黒い陽光がコンクリートの地面に長い影を落としていた。 エルは、至極単純な理由でここにいた。迷い込んだ。それだけだ。だが、運の悪いことに、迷い込んだ先は「何か」の縄張りだった。黒い泥のような姿をした異形の怪物たちが、飢えた獣のようにエルに襲いかかっていた。 「いやー、ついてない! でもまあ、こういう展開も悪くないよね!」 エルは笑っていた。能力なんて一つもない。超人的な筋力があるわけでも、魔法が使えるわけでもない。あるのは、凡庸な高校生としての身体能力と、「ここで死ぬのは納得いかない」という強烈な生存本能、そして折れない心だけだ。 彼は手近な鉄パイプを拾い上げ、泥のような怪物の頭を全力で殴りつけた。正攻法では勝てない。だが、彼は「正解」を無理やり作り出す。怪物が攻撃に転じた一瞬の隙に、足元の瓦礫を蹴り飛ばして視界を遮り、その混乱に乗じて急所を突く。泥臭く、無様な、しかし確実に相手を追い詰める戦い方だった。 そこへ、唐突に「声」が響いた。 「――絶望に染まりし魂よ、我が黒き福音の前に跪け!」 派手な叫びと共に、上空から金色の髪をなびかせた少女が舞い降りた。いや、舞い降りたというより、派手に着地して少しよろけていた。金髪ロングに、右目に巻かれた眼帯。不釣り合いなほど格好いい容姿をしていたが、その立ち振る舞いにはどこか抜けた空気がある。 彼女――天野照美は、空中に黒い羽根のようなエフェクトを散らしながら、大げさなポーズを決めた。 「ククク……この地の穢れ、我が『黒キ翼(方翼)』が浄化してくれよう。……あいたっ!」 ポーズを決めた拍子に、自分の足元の空き缶を蹴ってバランスを崩しそうになりながらも、彼女は強引にクールな表情を維持した。彼女が指先から放った黒い光の礫が、エルを襲っていた怪物の中心を貫き、一気に霧散させる。 静寂が訪れた。エルと照美は、数歩の距離を置いて互いを見つめ合う。互いに、相手が敵か味方か、あるいはそれ以上の「何か」なのかを測る視線が交差した。 「……えーっと。助けてくれたのかな? ありがとう! 俺、エル。君は?」 エルが屈託のない笑顔で手を振ると、照美はふんと鼻を鳴らし、眼帯に手を添えて不敵に微笑んだ。 「名乗る必要などない。私は深淵に刻まれし孤独の旋律、デザストル・オプスキュリテの歌い手……天野照美。貴様のような凡夫に名を開かすほど、私は安くないぞ」 (めちゃくちゃ厨二病だ!) エルは内心でそう思ったが、同時に「最高に面白いやつが来た」とも感じた。普通なら引くところだが、エルにとってはこの世のあらゆる個性が愛おしい。彼はさらに陽気に笑った。 「照美ちゃんね! よろしく! その眼帯、めちゃくちゃ格好いいね!」 「……っ! ふふん、気づいたか。この右眼には、世界を崩壊させうる禁忌の力が封印されており――」 「へぇー! すごいね!」 照美が調子に乗って語り始めようとしたその時。地面が激しく揺れ、廃工場の中心部から、どす黒い衝撃波が突き抜けた。 地鳴りとともに現れたのは、高さ5メートルを超える巨大な異形だった。全身が硬質な黒い甲殻に覆われ、背中からは不気味な触手が数本、鞭のようにうねっている。その眼窩には赤い光が宿り、周囲の空気を凍りつかせるほどの圧倒的な威圧感を放っていた。 「……出たな」 エルの表情から余裕が消え、代わりに鋭い集中力が宿る。同時に、照美も(演技が混ざってはいたが)真剣な面持ちで敵を睨んだ。 「フン、ようやく現れたか。この『虚無の執行者』こそが、我が魂の共鳴を乱す元凶。ここで消し飛ばし、我が伝説に新たな一ページを刻もう」 「あれが目的か。俺も、あいつを倒して帰りたいんだよね。どうやら目的は一致してるみたいだ」 エルは鉄パイプを握り直し、照美を見た。彼女は超非力だ。能力こそあるが、あれは演出に近い。一方の自分は無能力者。単体で挑めば、どちらも数秒で肉塊にされるだろう。 「ねえ、照美ちゃん。一人でやるより、二人でやったほうがハッピーエンドに近いと思わない?」 「……ハッピーエンド? くだらん。私は破滅と絶望の美学を追求しているのだ。だが……まあいい。貴様のその『凡庸なる勇気』に免じて、一時的に我が眷属として扱うことを許そう」 「あはは、眷属か! いいね、乗った!」 二人の奇妙な共闘が始まった。 強敵――執行者は、猛烈な速さで触手を振り下ろした。コンクリートが砕け、爆風が巻き起こる。エルはそれを紙一重で回避し、地面を転がりながらも叫んだ。 「照美ちゃん! 右から来るよ!」 「分かっている! 貴様に指示されるまでもない! ……えいっ!」 照美が華麗に(つもりで)ターンし、黒い光の弾を放つ。しかし、弾はあさっての方向に飛び、執行者の足元にある鉄柱に当たって火花を散らしただけだった。 「あぁっ! 計算が……風向きの計算が狂った!」 「いいよ、次行こう!」 エルは笑いながら、弾が当たった鉄柱の崩落を利用した。柱が倒れ込み、執行者の視界を遮る。その瞬間、エルは迷わず敵の足元へ飛び込んだ。能力はない。だが、彼は「今ここにある最適解」を瞬時に導き出す。 (右に避ければ触手に斬られる。左に避ければ壁にぶつかる。なら――) エルはあえて、執行者の足元の隙間に体を滑り込ませ、持っていた鉄パイプを全力で甲殻の継ぎ目に叩き込んだ。 ガキンッ!! 「ぐあああっ!」 執行者が咆哮を上げ、体をよじらせる。決定打にはならない。だが、一瞬の隙が生まれた。 「照美ちゃん! 今だ! 最大出力でやって!」 「言われずとも! 究極の絶唱、闇に溶けし黒き葬送曲(レクイエム)!!」 照美が大きく腕を広げ、空中に黒い翼を顕現させた。演出としての翼だが、彼女が本気で「こうありたい」と願う時、その想いは物理的な衝撃へと変換される。黒い光が集束し、巨大な槍となって執行者の中心へと突き刺さった。 ドォォォォン!! 爆風が二人を襲い、エルは照美の体を抱き寄せて地面を転がった。砂埃が舞い、視界が遮られる。 「ふぅ……危なかったね」 「……っ! 離せ、この凡夫! 私の美学が、貴様の腕の中で台無しに――」 照美が頬を赤くして抗議しようとしたが、目の前の光景に言葉を失った。執行者は、黒い光に焼かれ、甲殻に深い亀裂が入っていた。だが、まだ死んではいない。むしろ、怒りでその身を赤く染め、さらに強大な力を蓄え始めている。 「うわ、まだいた。しかも怒ってるし」 エルは苦笑いしながら、手から離れた鉄パイプを拾い上げた。全身に疲労が溜まっている。照美の方は、派手な技を出し切って既に肩で息をしていた。 「……クク、いいだろう。絶望が深ければ深いほど、それを塗り潰す光は眩いものになる。……あー、でも正直、もう体力ないかも」 「あはは、正直だね。いいよ、俺が囮になる。照美ちゃんは、もう一回だけ特大のやつ、準備できる?」 「……できるわけないだろ! 私がどれだけ繊細な魔力回路を持っていると思っている! ……まあ、あと一回だけなら、絞り出せるかもしれないが」 「決まりだ!」 エルは前へ出た。絶望的な状況。相手は完全な上位存在。正攻法で戦えば、100%負ける。だが、エルは「諦める」ことが大嫌いだ。選択肢が「死」か「敗北」しかないなら、第三の選択肢を創ればいい。 (あいつの攻撃パターンは、触手の振りに合わせて右肩が上がる。なら、あえて懐に飛び込んで、攻撃を誘って――そのまま自分の体を盾にして、死角に回る!) 正気ではない。だが、それがエルのやり方だった。彼は全力で走り出した。 「死ねぇ!!」 執行者が咆哮し、数本の触手が同時にエルを襲う。エルはそれをギリギリで避け、あるいはわざと服を切り裂かれながら、泥臭く、必死に、敵の懐へと潜り込む。 「あはは! こっちだ、こっちだぞ!!」 挑発するエル。執行者は苛立ち、最大の一撃をエルに叩き込もうと、全身の力を右腕の触手に集中させた。その瞬間、敵の防御が完全に消え、背中の核が露わになる。 「今だ!!」 エルの叫びに合わせ、後方から照美が跳躍した。彼女は空中で激しく回転し、自身のすべてを込めたポーズを決める。 「我が魂の咆哮を聞け! 闇を裂き、虚無を穿つ――黒キ翼、最終崩壊(ジ・エンド)!!」 黒い光の奔流が、執行者の無防備な核を正確に貫いた。 轟音とともに、執行者の体が内側から崩壊していく。赤い光が弾け、黒い甲殻が粉々に砕け散った。最後の一撃は、照美の「神がかった運」と、エルの「泥臭い正解」が合わさった結果だった。 静寂が戻った。ゆっくりと、夕陽が完全に沈み、夜の帳が降りてくる。 「……勝った」 照美がふらりと地面に座り込んだ。金髪が乱れ、眼帯が少しずれている。彼女は激しく肩で息をしながらも、満足げに口角を上げた。 「見たか、凡夫。これが、堕天使の真の力というものだ……」 「うん、すごかったよ! 照美ちゃん、かっこよかった!」 エルが屈託なく笑い、彼女に手を差し出す。照美は一瞬、その手を見て戸惑ったが、やがてふん、と鼻を鳴らしてその手を握った。 「……ふん。貴様の泥臭い戦い方には反吐が出るが、まあ、最高のサポートだったと言ってやろう」 「あはは、最高の褒め言葉だね」 二人は、瓦礫の山に腰を下ろした。能力のない少年と、能力はあるが使いどころを間違えがちな少女。正反対の二人が、偶然出会い、偶然に勝ち取った、三流の、しかし十分すぎるほどにハッピーな結末。 「ねえ、照美ちゃん。これからどうする? お腹空いたんだけど、どっかでなんか食べない?」 「……っ! 私のような高貴な存在を、凡俗な食事に誘うとは不敬であるぞ! ……で、何食べるんだ?」 「ハンバーガーとかどう?」 「……ふむ。闇の深淵に似た黒いコーラがあれば、付き合ってやらんでもない」 そう言って笑い合う二人の影が、夜の街へとゆっくりと伸びていった。