夕暮れの鐘が、魔法学院の西塔から静かに鳴り響いた。 その音を聞きながら、アリス・シルヴァーストームは中庭のベンチに腰掛け、膝の上に広げた古いノートを見つめていた。白と銀のローブの裾が風に揺れ、肩までの銀髪が薄紫の瞳にかかる。彼女は何度も同じページを読み返していたが、文字はなかなか頭に入ってこなかった。 「……やっぱり、難しいです」 小さく呟いて、アリスはため息をついた。ノートに記されているのは、風と水の流れを安定させるための基礎理論だった。魔法を使う際の柔軟性には自信がある。けれど、力の流れを細かく制御することとなると、どうしても苦手意識があった。 特に、雷の力を扱うときはそうだ。集中しているつもりでも、ほんの少し気持ちが揺らぐだけで、魔法の勢いが予想以上に膨らんでしまう。 「アリスちゃん、ここにいたんだぁ……」 眠たげな声が、頭上から降ってきた。 アリスが顔を上げると、薄紫の雲がゆっくりと中庭へ降りてくるところだった。雲の上には、青色のパジャマ姿の少女が横たわっている。肩ほどの薄紫の髪が雲の縁から垂れ、緑色の瞳は半分ほどしか開いていない。 「ステラさん。こんにちは」 「こんにちはぁ……もう夕方だけどねぇ」 「そうですね。あの、お昼寝中でしたか?」 「うん。お昼寝から起きたら、夕方だったのぉ」 ステラ・スターシープは、まるでそれが何もおかしくないことのように答えた。雲から降りる気配もなく、ふわふわとアリスの隣まで移動すると、そのまま雲の上で丸くなる。 「今日はずいぶん長く寝ていましたね」 「一日中寝ていたかったんだけどぉ……お腹が空いたから起きたのぉ」 「それは……大切な理由ですね」 アリスが微笑むと、ステラも眠そうに目を細めた。 「アリスちゃんは、何してるのぉ?」 「魔法の制御について勉強していました。でも、なかなかうまくいかなくて」 「うまくいかないのぉ?」 「魔法自体は使えるのですが、力が大きくなりすぎてしまうことがあるんです。もう少し落ち着いて扱えればいいのですけど……」 アリスは銀の腕輪にそっと触れた。腕輪は冷たく、いつもなら気持ちを落ち着けてくれる。しかし今日は、指先にわずかな震えが残っていた。 ステラはしばらくアリスを見つめていた。眠たげな表情のままだったが、緑色の瞳には静かな関心が浮かんでいる。 「アリスちゃんは、魔法を怖がってるのぉ?」 「……少しだけ」 素直に答えてから、アリスはノートを閉じた。 「失敗したら、誰かを困らせてしまうかもしれません。力が強い分、気をつけなければいけないのに、私はまだ見習いで……」 「見習いだから、失敗するんじゃないのぉ?」 「え?」 「見習いだから、練習するのぉ。練習しないと、いつまでも見習いのままぁ」 あまりにも当たり前のことを、ステラはゆっくりと言った。その声には説教めいた響きがなく、ただ眠りの中から拾ってきたような、柔らかな真実だけがあった。 「……そうですね」 アリスは少し考えてから、頷いた。 「でも、ステラさんはあまり魔法を使わないと聞きました。どうしてですか?」 「眠いからぁ」 「……それだけですか?」 「それだけぇ」 ステラは迷いなく答えた。アリスは思わず目を丸くし、それから小さく笑った。 「ステラさんらしいですね」 「そうかなぁ」 「はい。けれど、ステラさんの魔法はとても強力だと聞いています」 「そうらしいねぇ」 「ご自分のことなのに、ずいぶん他人事ですね」 「使うと疲れるからぁ。寝る時間が減るのぉ」 ステラは雲の上で寝返りを打った。雲は彼女の動きに合わせて柔らかく沈み、また元の形に戻る。 「でも、アリスちゃんの魔法はきれいだよぉ」 「私の魔法が、ですか?」 「うん。風がきらきらして、水が音楽みたいでぇ……雷は、ちょっとびっくりするけどぉ」 「やっぱり、怖いですよね」 「怖いっていうより、目が覚めるぅ」 アリスはまた笑った。ステラの言葉は不思議だったが、不思議なまま心に残る。 しばらく二人は、中庭を眺めていた。学院の庭には、星形の花をつける低木が植えられている。夕暮れの光が薄紫の花びらに当たり、静かな銀色の輝きを作っていた。 「ステラさんは、いつも雲に乗っているんですか?」 「だいたいねぇ。歩くと眠くなるしぃ、雲だと寝ながら移動できるからぁ」 「とても合理的です」 「そうでしょぉ」 ステラは得意そうに言ったが、その直後にはもう目を閉じかけていた。 「寝ないでくださいね」 「寝てないよぉ……目を閉じてるだけぇ」 「それを普通は寝ていると言うのでは……」 アリスが困ったように笑ったとき、学院の食堂の方から香ばしい匂いが流れてきた。焼きたてのパンと、温かいスープの匂いだった。 ステラの目が、わずかに開く。 「……ごはん」 「行きますか?」 「行くぅ」 ステラの雲がふわりと浮かび上がった。アリスが立ち上がると、ステラは雲の端を少し下げる。 「アリスちゃんも乗るぅ?」 「いいのですか?」 「うん。二人で乗ったほうが、たぶん楽しいからぁ」 アリスは一瞬迷ったが、差し出された雲の上へそっと腰を下ろした。薄紫の雲は見た目よりもしっかりしていて、柔らかなクッションのようだった。 「本当にふわふわですね」 「ふわふわでしょぉ。眠くなるよぉ」 「それは……少し困ります」 「じゃあ、寝ないようにお話ししてぇ」 「私が話すのですか?」 「うん。アリスちゃんの話、聞きたいぃ」 雲は食堂へ向かってゆっくり進み始めた。速度は決して速くないが、風を切る感覚は穏やかで、歩くよりもずっと楽だった。 アリスは何を話そうか考えた。自分の話をするのは、あまり得意ではない。けれど、隣でステラが眠りかけながら待っているのを見ると、何か答えなければと思った。 「私は、小さい頃から魔法が好きでした。風が窓辺のカーテンを揺らすのを見るのが好きで、水たまりに落ちる雨を見るのも好きでした」 「うん……」 「だから、風と水の魔法を学べると知ったときは嬉しかったんです。でも、実際に使ってみると、思っていたより難しくて」 「好きなものでも、難しいことはあるよぉ」 「はい」 「でも、好きなら、難しくても嫌いにはならないでしょぉ?」 アリスは、薄紫の空を見上げた。雲の向こうから、一番星が顔を出している。 「……そうかもしれません」 「だったら、大丈夫ぅ」 「そんな簡単に言ってしまって、いいのでしょうか」 「簡単じゃないよぉ。私は眠いのに、今ちゃんと起きてるからぁ」 アリスは吹き出した。 「それは確かに、大変なことですね」 「でしょぉ」 食堂に着く頃には、ステラはすっかり目を覚ましていた。もっとも、それは食事の匂いが近くなったからであり、アリスの話に集中していたからではないらしい。 二人は窓際の席に並んで座った。ステラは温かいミルクと焼きたてのパンを頼み、アリスは野菜のスープと小さな焼き菓子を選んだ。 「アリスちゃん、甘いもの好きぃ?」 「好きです。ステラさんもですか?」 「好きぃ。でも、食べると眠くなるぅ」 「食べなくても眠そうですけど」 「それはそうだねぇ」 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。 食事の合間、アリスはノートを取り出した。先ほどまで難しく見えていた理論が、少しだけ違って見える。魔法を完璧に制御する方法を探すのではなく、まずは自分の中にある怖さや迷いを認めること。そのうえで、力の流れを一つずつ確かめていく。 ステラはアリスのノートを覗き込み、首を傾げた。 「それ、寝る前に読むといいよぉ」 「なぜですか?」 「難しい本を読むと、すぐ眠れるからぁ」 「勉強になりませんね」 「でも、よく眠れるぅ」 アリスはペンを置き、少しだけ考えた。 「では、ステラさん。今度、私に魔法のことを教えてくださいませんか?」 「私がぁ?」 「はい。ステラさんの魔法は、土や星の力を使うと聞きました。私はあまり知らないので、興味があります」 「いいよぉ。起きてるときならぁ」 「起きているとき、ですか?」 「うん。寝てるときは、たぶん返事できないからぁ」 「それはそうですね……」 アリスは苦笑しながらも、嬉しそうに頷いた。 「私も、ステラさんに風や水の流れをお見せします。無理のない範囲で」 「うん。アリスちゃんの魔法、また見たいぃ」 「今度は、驚かせないようにします」 「驚いても、たぶん寝てたら平気ぃ」 「それでは練習になりません」 食堂の窓の外には、夜の帳が下りていた。星々が一つ、また一つと輝き始め、ステラの腕輪に宿る藍色とよく似た色を空に散らしている。 二人は食事を終えると、再び雲に乗って寮へ向かった。帰り道、ステラはアリスの肩にもたれ、すぐに眠ってしまった。アリスは起こさないよう姿勢を正し、雲がゆっくり進む夜道を眺めていた。 不思議なものだ、とアリスは思った。 魔法の力を制御する方法は、まだ見つかっていない。明日になれば、また失敗するかもしれない。それでも、先ほどより心は軽かった。 隣で眠るステラの呼吸が、規則正しく響いている。その穏やかさに触れていると、力を恐れるだけでなく、力と付き合っていくことを考えられるような気がした。 寮の前で雲が止まる。ステラは目を開けないまま、かすかに呟いた。 「アリスちゃん……」 「はい?」 「明日も、一緒にごはん食べよぉ……」 「はい。約束します」 それだけ言うと、ステラはまた深い眠りに落ちた。 アリスはそっと彼女の髪を整え、雲から降りた。銀の腕輪が夜の明かりを受け、静かに光る。 寮へ戻る前、アリスは振り返った。雲の上で眠るステラは、星明かりに包まれている。まるで夜空の一部になったようだった。 「ステラさんは……不思議な方ですね」 アリスは微笑んだ。 「でも、とても安心できます」 その頃、眠っているはずのステラが、ほんの少しだけ口元を緩めていた。 「アリスちゃんはぁ……静かだけど、ちゃんと強い子ぉ」 寝言のような声が、夜の風に溶けていく。 「一緒にいると、起きてても眠くならないしぃ……たぶん、いい友達ぃ」