薄暗い照明に照らされた『鴉』の拠点の一室。そこは、国家直属の暗殺部隊という血なまぐさい肩書きからは想像もつかないほど、どこか緩やかな空気が流れていた。 部屋の主である神崎翔は、自分にはあまりに大きすぎる、蓮のシャツをぶかぶかに着込んでいた。袖から指先がわずかに覗くその姿は、情報屋としての冷徹な仕事ぶりからは程遠く、捨てられた子犬のような危うさを孕んでいる。彼はいつものようにノートパソコンの画面に向かっていたが、その背後から忍び寄る気配に肩をびくりと震わせた。 「……っ、」 逃げる間もなく、太い腕が翔の細い腰をがっしりと抱き寄せ、耳元で低く愉悦に満ちた声が響く。 「お疲れ、翔。まだ仕事してんのか? 真面目すぎるのも考えものだな」 黒瀬悠真だ。鴉の副長であり、翔にとっては畏怖と快楽が混ざり合った、最悪で最高の「いじられ役」の相手である。悠真はわざとらしく翔のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。タバコの香りと、彼特有の危うい色気が翔の思考を塗りつぶしていく。 「……ぅ、や、めて……悠真、さん……」 翔は消え入りそうな声で抵抗するが、それが逆に悠真のドSな精神に火をつける。悠真はクスクスと笑いながら、空いた手で翔の黒いマスクを強引にずらし、露わになった白い頬に深いキスを落とした。 「んっ!?」 不意打ちの衝撃に、翔が小さく声を上げて跳ねる。しかし、逃げ場はない。悠真の腕は万力のように強く、彼を拘束していた。 「いい反応するな。お前、こういうところ本当に可愛いよな」 悠真は楽しげに目を細める。かつて猛威を振るったヤンキー時代の粗暴さは、今や洗練された残酷さと、身内に対する歪んだ愛情へと形を変えていた。彼は翔の耳たぶを軽く噛み、わざとゆっくりと離れる。 「……ひどい、人……」 翔が頬を赤らめて俯くと、悠真は満足げに彼を解放し、近くのソファにどさりと腰を下ろした。そして、ポケットからタバコを取り出し、火をつける。 「まあいい。たまには息抜きしろよ。ずっとパソコンばっか見てると、頭の中までコードになっちまうぞ」 「……僕は、これでいいんです」 翔は慌ててマスクを直すと、もぞもぞと自分の殻に閉じこもろうとした。内気で人見知りな彼にとって、この静寂と画面の中の世界こそが唯一の安息地だ。だが、同時に彼は知っている。自分をこの場所に引き入れ、唯一肯定してくれた蓮への深い思慕と、そしてこうして自分を強引に揺さぶってくる悠真という存在が、今の自分にとって不可欠な刺激になっていることを。 悠真は紫煙を吐き出しながら、ふと気まぐれなことを思いついたように口角を上げた。 「なあ、翔。暇だし、ちょっとした『遊び』をしないか」 「遊び……?」 翔が警戒心を露わにして首を傾げる。悠真が提案する「遊び」が、大抵の場合、翔にとって精神的な(あるいは肉体的な)試練を伴うものであることを、彼は経験から学んでいた。 「『愛してるゲーム』だよ」 「……え?」 翔は呆然とした。知っている。知っているが、自分がやるべきゲームではない。相手が誰であっても、精神的な持久戦になり、最終的にはどちらかが完敗するまで「愛してる」と言い合い続ける、極めて精神的負荷の高いゲームだ。 「いいだろ? お前、蓮さんのこと大好きだよな。だったら、その情熱を俺に対してもぶつけてみろよ。負けた方は、勝った方の言うことを何でも一つ聞く。どうだ?」 悠真の目は、獲物を追い詰めた捕食者のそれだった。残酷で、けれどどこか期待に満ちた瞳。翔は断ろうとしたが、悠真の「負けたら、蓮さんのシャツを全部没収する」という脅し(という名の誘惑)に、抗う術を持たなかった。 「……っ! やります……やればいいんでしょ!」 翔が珍しく声を上げて宣言すると、悠真は「いい返事だ」と愉快そうに笑い、真っ向から彼を凝視した。 ルールは単純だ。交互に「愛してる」と伝え合い、どちらかが照れたり、言葉に詰まったり、あるいは感情に耐えきれず先に折れた方が負けとなる。 「じゃあ、俺から行くぞ。準備はいいか、翔」 悠真はタバコを灰皿に押し付けると、ゆっくりと翔に歩み寄り、至近距離でその黒い瞳を覗き込んだ。彼の距離感は常に攻撃的で、相手のパーソナルスペースを軽々と蹂躙する。 「愛してるよ、翔」 低く、心地よいバリトン。冗談めかした響きはあったが、その視線だけは真剣に翔の心を射抜いていた。普通の人なら、この色気に当てられて即座に赤面して敗北するだろう。 (……負けない。僕だって、だって……っ) 翔は心臓が早鐘を打つのを感じながら、ぎゅっとシャツの裾を握りしめた。彼はもともと感情の起伏が少ないタイプだ。だが、このゲームにおいては、その「冷静さ」が武器になる。彼は深く息を吐き、悠真の目を真っ向から見返した。 「……僕も、愛してます。悠真さん」 蚊の鳴くような小さな声だったが、はっきりと意志がこもっていた。悠真は意外そうに片方の眉を上げた。この内気な情報屋が、意外にも粘り強い。 「へぇ。いいな、その顔。……じゃあ、二回目だ。愛してるぜ、翔。お前のそういう不器用なところも含めて全部な」 今度は少しだけ温度を上げた言葉。悠真はわざと翔の腰に手を回し、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。身体が密着し、互いの体温が伝わってくる。翔の心拍数はさらに跳ね上がったが、彼は必死に理性を保っていた。 「……愛してます。僕を……いじめる、最低なあなたのことまで」 「ははっ! 口が悪いな。最高だ」 悠真は快楽に浸ったように笑う。このゲームの残酷なところは、言葉を重ねれば重ねるほど、それが単なるゲームとしての台詞ではなく、本心に近い領域へと踏み込んでいくことにある。殺し屋として冷徹に生きてきた悠真にとっても、この「愛」という不確定な感情を言葉にする行為は、ある種の快感であった。 三回、四回と回数が重なる。悠真の攻勢は激しくなった。耳元で囁き、首筋に軽く触れ、視線で翻弄する。そのたびに翔の顔は林檎のように赤くなり、呼吸は乱れていく。 「愛してる。お前のことは、俺がずっと壊してやりたいと思ってるよ」 ドSな本性が漏れ出た言葉に、翔は小さく身震いした。だが、彼はここで折れるわけにはいかなかった。彼にとって、この場所で自分を認めてくれた人々への想いは、何よりも強い。たとえそれが歪んだ形であったとしても。 「……っ、愛して……ます! 悠真さんっ!」 翔が精一杯の声を張り上げた瞬間だった。悠真の表情から余裕が消え、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、目を見開いた。彼は、翔のその必死な、けれど真っ直ぐな眼差しに、不意を突かれたのだ。 静寂が訪れる。 悠真は呆然とした後、ふっと自嘲気味に笑い、額に手を当てて後ろにのけぞった。 「……くそ。完敗だ」 「……え?」 翔が拍子抜けしたように声を出す。悠真は肩をすくめ、心地よさそうな表情で呟いた。 「まさか、お前にここまで真っ向から返されるとは思わなかったよ。心臓に悪いな、おい」 悠真は、自分が翔をコントロールしていると思っていた。だが、実際には翔の純粋さと、その裏にある強固な信頼に、自分の方が絆されていたことに気づかされたのだ。 「……僕の、勝ち……ですね」 翔は、勝利した実感を得て、ほんの少しだけ誇らしげに胸を張った。その様子があまりに可愛らしく、悠真は我慢できなくなったように再び彼を抱きしめた。今度は強引にではなく、どこか大切に扱うような、不器用な抱擁だった。 「ああ、お前の勝ちだ。約束通り、何でも言うことを聞くよ。……で、何が欲しい? 蓮さんの服をもう一枚盗んでやるか?」 「……っ! そんなこと、言わないでください!」 翔が慌ててもがく。結局、いつもの喧騒に戻ったが、二人の間に流れる空気は、ゲームを始める前よりも少しだけ濃くなっていた。 「ま、たまにはこういうのも悪くないな」 悠真は再びタバコに火をつけ、満足そうに煙を吐き出す。隣では、翔が顔を赤くしながらも、どこか安心したように、ぶかぶかのシャツの袖に顔を埋めていた。 暗殺部隊『鴉』。血と硝煙にまみれた世界に身を置く彼らにとって、このような稚拙で、けれど切実な感情のやり取りこそが、人間であることの唯一の証明なのかもしれない。 窓の外では夜の帳が降り、静寂が街を包み込んでいたが、この部屋の中だけは、不器用な熱量を持って、夜が更けていった。 * 【お互いに対する印象】 ■黒瀬悠真 → 神崎翔 「見た目は弱々しいし、内気で扱いやすいと思ったら……意外と芯が強い奴だった。いじめて反応を見るのは最高に楽しいが、たまに真っ直ぐなところを見せられると、調子が狂う。まあ、そういうところも含めて、飽きない最高の『おもちゃ』であり、信頼できる相棒だと思ってる」 ■神崎翔 → 黒瀬悠真 「本当に、本当にひどい人……。いつも急に距離を詰めてくるし、恥ずかしいことをさせるし、ドSすぎて怖いです。でも……僕が僕のままでいられる場所をくれた蓮さんと一緒に、僕をこの世界に繋ぎ止めてくれる大切な人。本当は、たまに優しくしてくれるところが好き……です(絶対言わないけど)」