放課後の校門前には、秋の薄い日差しが斜めに差し込んでいた。 三掛太緒子は、道場帰りの鞄を肩に掛け、校門の脇で腕を組んでいた。制服の襟元は寸分の乱れもなく、背筋はまっすぐに伸びている。通り過ぎる後輩たちは、彼女の姿を見つけるたびに足を止め、深々と頭を下げた。 「師匠、本日もご指導ありがとうございました!」 「うむ。だが、礼を述べる前に姿勢を正せ。感謝の言葉は、立ち姿にこそ表れるものだ」 「はい、師匠!」 後輩が慌てて背筋を伸ばすと、太緒子は重々しくうなずいた。厳しい言葉ではあるが、そこには相手を見捨てない世話焼きな優しさがあった。後輩たちもそれを知っているからこそ、彼女の前では自然と気が引き締まる。 その様子を、少し離れた植え込みの陰から眺めている少女がいた。 都出来実である。 いつからそこにいたのか、本人以外には誰にも分からない。彼女は食玩のおまけらしき小さなフィギュアを指先で転がしながら、楽しそうに太緒子の様子を見守っていた。 「太緒子ちゃん、今日も人気者だねえ」 「……む?」 太緒子が振り返った。 「来実か。そこにいたのか」 「うん。ずっといたよ」 「ずっと、とはどの程度だ」 「太緒子ちゃんが後輩さんに姿勢のお話をしてたあたりからかな。たぶん」 「たぶん、では困るのだが……」 太緒子は眉間にわずかな皺を寄せた。しかし来実がそこにいること自体を、不思議に思っている様子はなかった。彼女の周囲では、来実がいつの間にか現れていることなど、もはや珍しい現象ではない。 「今日は何か用があるのか?」 「んーん。太緒子ちゃんが帰るなら、私も帰ろうかなって」 「私は道場へ戻る。お前は学校帰りではないのか?」 「学校帰りだよ。だから一緒に帰るの」 「……お前の学校と私の道場は方向が違うと思うのだが」 「そうなんだ? じゃあ、途中まで一緒だね」 太緒子はしばらく黙った。来実は満面の笑みで、既に隣を歩く準備を整えている。断る理由を探そうとしたが、来実のような人間を真正面から追い返すのは、太緒子の性分に合わなかった。 「……よかろう。ただし、道中で寄り道をするなら、日没までに済ませるのだぞ」 「はーい」 二人は並んで歩き始めた。 太緒子は歩幅が大きく、歩調も一定している。一方の来実は、彼女に合わせているようでいて、少し遅れたり、先に進んだり、道端の店先に目を向けたりしていた。それでも不思議なことに、決して太緒子から大きく離れることはない。 商店街へ差しかかると、来実の足がぴたりと止まった。 「太緒子ちゃん、あのお店見ていい?」 「菓子店か。夕食前に菓子を買うのは感心せぬな」 「食べるんじゃなくて、食玩を見るの」 「同じことではないのか?」 「おまけが本体なんだよ」 来実は真剣な顔で言った。 太緒子にはその理屈が理解できなかったが、来実が目を輝かせていることは分かった。結局、二人は店内へ入ることになった。 狭い棚の前で、来実は箱を一つずつ手に取った。小さな動物や乗り物、昔の町並みを再現したミニチュア。彼女はそれらを眺めながら、箱の重さや振ったときの感触を慎重に確かめていく。 「これ、たぶん猫だよ」 「中身が見えぬのに分かるのか?」 「箱がそう言ってる」 「箱が?」 「うん。たぶんね」 太緒子はまた黙った。来実の言葉には、ときどき説明のつかない確信が混ざる。しかし、それを追及しても本人は「そういう感じ」と笑うだけだろう。 「購入するなら一つにしておけ。無制限に買えば、後で置き場に困る」 「太緒子ちゃん、私の部屋見たことないのに」 「見ずとも分かる。趣味に熱中する者は、収納を後回しにしがちだ」 「えへへ、正解」 来実は箱を一つ選び、レジへ向かった。太緒子が店の外で待っていると、来実は小さな紙袋を抱えて戻ってきた。 「何が出るか、帰ってから開けるんだ」 「今すぐ確認しないのか?」 「楽しみは後に取っておくの」 「それは鍛練にも通じるな。結果を急がず、積み重ねの先にあるものを待つ姿勢……」 「太緒子ちゃん、食玩から鍛練の話になるんだね」 「何事も学びに繋げるのが武道家の務めだ」 「じゃあ、次は何を学ぶ?」 来実がそう言った直後、商店街の先から、数人の高校生が歩いてくるのが見えた。彼らは太緒子を見つけると、途端に表情を改めた。 「三掛先輩!」 「おお、どうした」 「これから駅前の喫茶店に行くんです。よかったら先輩も……あれ?」 声を掛けた生徒が、太緒子の隣にいる来実を見た。 「先輩、いつから二人で歩いてたんですか?」 「最初からだが」 太緒子が即答すると、後輩たちは顔を見合わせた。 「いや、その……先輩一人で歩いていたように見えたんですけど」 「何を言っている。来実は最初からここにいた」 「うん、いたよ」 来実も自然にうなずいた。 後輩たちは困惑したまま、来実に会釈をした。誰も彼女を見た記憶がはっきりしない。しかし、そこにいる以上、いたのだろう。そう納得するしかなかった。 「喫茶店へ行くのか」 太緒子が尋ねると、後輩たちは嬉しそうにうなずいた。 「はい。師匠もぜひ!」 「私は道場へ戻らねばならぬ」 「ですが、今日は稽古の時間まで少し余裕があるはずです」 「……よく把握しているな」 「師匠の予定を覚えるのも後輩の務めです!」 太緒子は腕を組み、考え込んだ。実際、道場へ戻るにはまだ時間がある。断る理由はない。だが、喫茶店という場所で後輩たちが浮ついた振る舞いをしないか、それが気に掛かった。 「よかろう。ただし、騒がぬこと。店内では周囲への配慮を忘れるな」 「はい、師匠!」 「来実、お前も来るのか?」 「もちろん。みんなで行くんでしょ?」 「お前はいつの間に参加を決めたのだ……」 「今決めたよ」 一行は駅前の喫茶店へ向かった。 店内は落ち着いた雰囲気で、窓際の席に案内されると、後輩たちは緊張した面持ちでメニューを開いた。太緒子は紅茶を注文し、来実は季節限定のクリームソーダを選んだ。 「師匠、最近の稽古について相談があるのですが」 一人の後輩が切り出すと、太緒子はすぐに姿勢を正した。 「申してみよ」 「どうしても組み手になると、相手の動きを怖がってしまいます。頭では分かっているのですが、体が固まって……」 「恐怖を消そうとするな」 太緒子の声は低く、静かだった。 「恐怖とは、危険を知らせる感覚だ。それを無理に押し殺せば、判断を誤る。まずは恐怖を感じた自分を認め、そのうえで、何をすべきかを選べ」 「何をすべきか……」 「足の位置、呼吸、視線。大きな動きを考える前に、確実に扱えるものへ意識を戻せ。鍛練とは、派手な技を身につけることではない。動揺したときにも、基本へ帰れるようにすることだ」 後輩は熱心に聞き入っていた。来実はクリームソーダのストローをくるくる回しながら、感心したように太緒子を見ている。 「太緒子ちゃんって、やっぱり師匠なんだねえ」 「何を言う。私は当然のことを述べているだけだ」 「でも、みんな太緒子ちゃんの話を聞くと安心してるよ」 太緒子は返事をしなかった。代わりに、紅茶のカップへ視線を落とす。その横顔は厳格だったが、耳だけがわずかに赤くなっていた。 しばらくして、後輩たちがそれぞれの話題で盛り上がり始めると、来実は紙袋から先ほどの食玩を取り出した。 「開けてもいい?」 「自分で買ったものなら、好きにするがよい」 「じゃあ開けるね」 包みを丁寧に外し、中から小さな箱を取り出す。来実が蓋を開けると、そこには白い猫のミニチュアが入っていた。 「ほら、猫だった」 「見事に当てたな」 「箱が教えてくれたからね」 太緒子は猫の置物をじっと見つめた。 「……小さいが、よくできている」 「太緒子ちゃん、こういうの好き?」 「嫌いではない。道場の受付に置けば、後輩たちも和むかもしれぬ」 「じゃあ、あげる」 来実が差し出すと、太緒子は目を見開いた。 「何? これはお前が集めているものだろう」 「うん。でも、太緒子ちゃんが気に入ったなら、持ってていいよ」 「安易に人へ譲るものではない。趣味の品とは、自分で大切にするものだ」 「でも、太緒子ちゃんのところにいた方が、猫も友達が増えるよ」 「猫に友達が必要なのか?」 「必要だよ。私も友達がいる方が好きだし」 来実は何気なく言った。その言葉に、太緒子は少しだけ表情を和らげた。 「……では、預かろう。だが、いつでも返してほしいと言えば返す」 「うん。よろしくね、猫ちゃん」 太緒子は小さな猫を両手で受け取った。武術の稽古で鍛えられた手には、あまりにも小さな品だったが、扱いは驚くほど慎重だった。 その後も一行は、日が傾くまで喫茶店で過ごした。太緒子は後輩たちの相談に一つずつ答え、来実は時折会話に加わりながら、誰かの注文した菓子を少し分けてもらったり、窓の外を眺めたりしていた。 帰り道、駅前で後輩たちと別れることになった。 「本日はありがとうございました、師匠!」 「うむ。明日の稽古では、今日話したことを実践してみよ」 「はい!」 後輩たちが去っていくと、太緒子は小さな猫の置物を鞄の内ポケットへしまった。 「太緒子ちゃん、道場に置くの?」 「そうするつもりだ。受付の棚なら、誰の邪魔にもならぬ」 「みんな、かわいいって言うよ」 「そのような感想を述べるかどうかは、見た者に任せる」 「太緒子ちゃんも、かわいいって思ってるのに」 「……来実」 「なあに?」 「余計なことを言うな」 太緒子は重々しく言ったが、声には強い怒気がなかった。来実は楽しそうに笑い、彼女の半歩後ろを歩いた。 やがて道が分かれる場所へ着いた。太緒子は道場へ続く道を指し、来実は反対側の道を見た。 「じゃあ、ここでばいばいだね」 「うむ。今日は付き合わせてしまったな」 「私がついてきたんだよ」 「……そうであったな」 「また一緒に帰ろうね」 太緒子は少し考えてから、うなずいた。 「お前がいつの間にか現れるなら、次も見失うことはないだろう」 「うん。どこ行くのか分かったら、いつでも追いつくよ」 「それは頼もしいのか、油断ならぬのか、判断に迷うところだ」 「どっちでもいいよ。友達なら一緒にいるでしょ?」 太緒子は来実を見た。夕暮れの光の中で、彼女は相変わらず気さくに笑っている。誘った覚えはないのに、気付けば隣にいる。端の方にいることが多いのに、誰かのそばからいなくなることはない。 太緒子は、そんな来実の在り方を少しずつ理解し始めていた。 「……ああ。友達ならば、共に歩くものだ」 来実は嬉しそうに笑った。 「じゃあ、またね、太緒子ちゃん」 「うむ。また会おう、来実」 二人はそれぞれの道へ歩き出した。 数歩進んだところで、太緒子はふと振り返った。来実の姿はもう見えない。先ほどまで確かに隣にいたはずなのに、いつの間にか夕暮れの街並みに溶け込んでいる。 しかし、太緒子の鞄の中には、小さな白い猫がいた。 それを見れば、今日の出来事が夢でなかったことは分かる。 一方その頃、来実は太緒子が見えなくなった角を曲がり、いつの間にか自分の帰り道へ戻っていた。手元には新しい食玩の箱はない。それでも、彼女は満足そうだった。 「太緒子ちゃんって、怖そうに見えるけど、すごく優しいんだよね」 来実は誰に聞かせるでもなくつぶやき、空を見上げた。 「猫ちゃんも、きっと太緒子ちゃんのこと好きになるよ」 その日の夜、道場の受付棚には、小さな白い猫の置物が置かれた。後輩たちはすぐにそれを見つけ、口々に感想を述べた。 「師匠、これ、かわいいですね!」 「うむ。来実から預かったものだ。丁重に扱え」 「来実さんって、いつの間にかいる方ですよね?」 「そうだな。気付けばいる」 「師匠は、来実さんのことをどう思っているんですか?」 太緒子は腕を組み、しばし沈黙した。 「不思議な者ではある。だが、決して不確かな者ではない。誘わずとも共にあり、騒がずとも場を和ませる。……私にとっては、信頼できる友だ」 後輩たちは嬉しそうに顔を見合わせた。 同じ頃、来実は自室で今日の出来事を日記に書いていた。 『今日は太緒子ちゃんと喫茶店に行った。後輩さんたちもいた。白い猫を太緒子ちゃんにあげた。太緒子ちゃんは厳しいけど、ちゃんと話を聞いてくれる。歩くときも、私が隣にいるのを当たり前にしてくれるから安心する。太緒子ちゃんは、頼れる友達。今度は私から誘ってみようかな。でも、たぶん気付いたら一緒にいると思う』 書き終えると、来実は満足してペンを置いた。 「太緒子ちゃん、明日はどこに行くのかな」 そう呟いた直後、彼女はもう、翌日の予定を楽しみにしながら眠りについた。 太緒子にとって、都出来実は、いつの間にか隣にいる不思議な少女だった。だが、その存在は決して邪魔ではない。むしろ、厳しさばかりになりがちな日々に、思いがけない柔らかさを運んでくれる友だった。 来実にとって、三掛太緒子は、堂々としていて、少し怖そうで、それでも困ったときには必ず話を聞いてくれる頼もしい友だった。 二人の間に、特別な約束はない。 ただ、どこかへ向かう者がいれば、来実はいつの間にかその隣にいる。そして太緒子は、そんな彼女を追い払わず、当然のように歩幅を合わせる。 それだけで、二人には十分だった。