薄暗い工業地帯の廃倉庫街。錆びついた鉄骨が骸骨のように突き出し、湿ったコンクリートの匂いが鼻を突く。そこに、場違いな二人の男が対峙していた。 一人は、どこにでもいるような平凡な高校生の制服に身を包んだ少年、古舘沿。もう一人は、その名こそ不名誉だが、戦いにおいては絶対的な不変性を誇る男、サンドバック。 事の始まりは、互いに異なる目的でこの地に赴いたことだった。沿は、街に蔓延る不可解な失踪事件の手がかりを追い、サンドバックはある組織の「掃除」として派遣されていた。運悪く、彼らは同時に第三者の襲撃に遭った。沿は混乱の中で必死に抵抗し、サンドバックはただそこに立ち尽くして攻撃を受け流していた。そして、襲撃者が散った後、二人は互いに武器(あるいは構え)を向け合い、静止した。 「……あんた、誰だ。協力してくれたのか、それとも次はお前の番か」 沿が警戒しつつ問いかける。その声には、年相応の不安と、それでも退こうとしない意地が混ざっていた。サンドバックは無表情に彼を見つめ、短く答える。 「どちらでもない。お前が邪魔でなければ、そのまま消えて欲しかっただけだ」 互いに探り合い、一触即発の空気が流れたその時。空間が、ガラスが割れるような音を立てて砕けた。 中心から染み出したのは、どろりとした漆黒の泥のような物質。それが急速に凝固し、人の形を模した「何か」へと変貌する。高さ三メートルを超え、全身に無数の目と口を持つ異形――この地域の特異点であり、あらゆる因果を食い尽くす捕食者『虚無の執行者』だった。 その怪物が咆哮した瞬間、衝撃波だけで周囲のコンクリートが粉砕される。沿は咄嗟に身を伏せ、サンドバックは眉一つ動かさず、その衝撃を正面から受け止めた。衝撃波は彼の体に当たった瞬間、まるで行き先を失ったかのように霧散した。 「……チッ。あいつか。俺の目的はあれだ」 サンドバックが呟く。沿もまた、飛び起きながら叫んだ。 「なんだよ、俺だってあいつを止めなきゃならないんだ! 街の連中が消えたのはあいつの仕業なんだろ!」 二人の視線が交差する。敵はあまりに強大だ。単独で挑めば、たとえ死なない能力を持っていようと、完封されて終わる。沿の能力は「勝利」を確定させるものではない。ただ「最悪の結末」を先延ばしにする泥臭い時間稼ぎだ。 「……おい、あんた。死なないんだろ?」 沿が不敵に笑う。その瞳には、お人好しで熱血な、彼らしい危ういまでの信頼が宿っていた。 「ああ。消滅もしない」 「決まりだ。今は力を合わせるしかないな。俺が時間を稼ぐ。あんたは……いや、あんたが壁になれ。俺がその隙に、あいつの『確定した死』までのルートをめちゃくちゃにしてやる」 サンドバックは呆れたように溜息をついたが、その足はすでに前へと踏み出していた。 「勝手にしろ。死なない俺に指示を出す度胸だけは認めてやる」 戦闘が始まった。 執行者が地を這うような速さで突進し、巨大な鉤爪を振り下ろす。それは空間ごと切り裂く一撃だった。普通なら、沿のような高校生など一瞬で肉片に変わる。だが、そこに割り込んだのはサンドバックだった。 ドォォォン!! 凄まじい衝撃音が響き渡る。サンドバックの肩が深く切り裂かれ、血が舞う。しかし、彼は表情一つ変えない。傷口は瞬時に塞がるのではなく、最初から「そこになかった」かのように、あるいは「どれだけ壊されても意味がない」かのように、彼をその場に繋ぎ止めていた。 「今だ、ガキ!」 「言われなくても!」 沿が飛び出す。彼のスキルは地味だ。派手な炎を出すわけでも、剣を振るうわけでもない。だが、彼が執行者の懐に飛び込み、その腕に手を触れた瞬間、世界の色がわずかに変色した。 【分岐点の抹消】 執行者が次の一撃を繰り出そうとした。その「攻撃が命中する」という結果へ向かう因果の道筋を、沿は強引に遮断する。攻撃は空を切るのではなく、かといって防がれたわけでもない。ただ、「攻撃を完了させる」という結末に辿り着けなくなったのだ。 「な……!?」 執行者が困惑したように口を開いた瞬間、沿はもがいた。転び、泥にまみれ、みっともなくもがきながら、執行者の足元にまとわりつく。それは戦いというよりは、必死のしがみつきに近かった。 「あぁぁぁ! クソッ、うまく繋がらない! でも、まだだ! まだ終わらせねえぞ!」 沿の能力は、結果を確定させない。つまり、敵が彼を殺そうとしても、「殺した」という結果に辿り着くまでのプロセスを無限に引き延ばすことができる。それは絶望的なまでの時間稼ぎだ。 しかし、執行者の攻撃は止まらない。沿が時間稼ぎをしている間、周囲への破壊衝動は加速する。執行者が放った黒い触手が、沿を薙ぎ払おうとした。 ガキンッ!! 再び、サンドバックが間に割って入る。触手が彼の胸を貫いた。心臓を潰し、背中まで突き抜ける一撃。普通の人類なら即死だ。だが、サンドバックは貫かれたまま、執行者の触手をがっしりと掴んだ。 「……お前の攻撃は、俺にしか効かない。だが、俺は死なない。つまり、お前の攻撃はすべて無駄だということだ」 サンドバックの声は冷徹だった。彼は自らの体を「最高の盾」として利用し、敵の攻撃リソースをすべて自分に集約させる。彼がそこに居るだけで、沿への致命的な攻撃は物理的に遮断される。 「あはは! 最高だなあんた! 本当にサンドバッグみたいだ!」 「笑うな。痛いのは痛い」 「ごめん! でも、これでいける! もっと、もっと時間を稼がせてくれ!」 沿は叫びながら、執行者の核と思われる中心部に手を伸ばした。だが、執行者は激昂し、周囲の空間を圧縮して爆発させる。大爆発が二人を飲み込んだ。 轟音と閃光。煙が晴れた後、そこにはボロボロになった少年と、穴だらけの男が立っていた。 沿は服が焼け焦げ、皮膚は赤く充血していた。それでも、彼は笑っていた。彼が「時間稼ぎ」を続けていたおかげで、爆発という結末に至る直前の「わずかな空白」が生まれ、致命傷を避けることができたのだ。 「……ふぅ。案外、タフな奴らだな」 サンドバックが、身体の穴を埋めながら呟く。彼は、沿という少年の特異性に気づき始めていた。自分は「死なない」ことで時間を稼ぐ。だが、この少年は「因果」を操作することで時間を稼ぐ。 一方は不変の肉体。一方は不確定な運命。 「おい、サンドバックさん! 次に行くぞ!」 「……名前で呼ぶな。気分が緩む」 「いいじゃん! 今俺たち、最高のコンビだろ!」 沿が突き出した手を、サンドバックは一瞬だけ見て、無視して前へ出た。だが、その歩調は、少年がついてきやすい速度に緩められていた。 執行者が再び咆哮し、今度は全方位に鋭い棘を突き出した。サンドバックはそれを正面から受け止め、肉を裂かれ、骨を砕かれながらも、一歩も引かずにそこに立ち続ける。 「うおおおおっ!!」 沿が再び地を蹴る。もはや洗練された格闘術などない。ただ、泥臭く、みっともなく、相手の懐に潜り込む。執行者が彼を排除しようと腕を振り上げるが、その軌道は沿の能力によって「決定」されない。右に行くか左に行くか、あるいは止まるか。あらゆる分岐点が霧散し、執行者の攻撃は空虚な空気を切り裂き続ける。 「俺はヒーローにはなれない! 誰かを救うみたいな格好いいことはできないけど……でも、あんたがそこに居てくれるなら、俺は何度だって時間を稼げる!」 沿の叫びと共に、彼は執行者の核に、全力の拳を叩き込んだ。それは決定打ではない。彼には敵を倒すほどの強大な力はないからだ。 だが、彼が叩いたのは「物理的な衝撃」ではなく、「結果への拒絶」だった。 「終わらせない……! まだ、この戦いを『勝利』か『敗北』に分けるな!!」 沿のスキルが最大出力で発動する。執行者が「勝利」という結末へ辿り着こうとする因果を、沿が全力で引き摺り戻す。その瞬間、執行者の動きが完全に停止した。時が止まったのではない。ただ、「次の行動」という結果に辿り着けなくなったのだ。 その静止した空白の時間。それを現実の破壊力へと変えるのは、サンドバックの役目だった。 「……時間稼ぎは十分だ」 サンドバックが、蓄積していたすべての反動を拳に込める。彼は死なない。それは同時に、あらゆる衝撃を蓄積し、限界まで耐え抜くことができるということでもある。執行者に受けた数千回の打撃、空間爆発の圧力、すべてを一点に凝縮させた一撃。 ドガァァァァン!! 執行者の核が砕け散った。因果を食い尽くす怪物も、確定した物理的な破壊の前には抗えない。爆風が吹き荒れ、執行者は黒い霧となって霧散していった。 静寂が戻った廃倉庫街に、二人の荒い呼吸だけが響く。 沿はそのまま地面に大の字に寝転がった。全身が悲鳴を上げている。服はボロボロで、もう高校生の制服とは呼べない代物になっていた。 「……終わったか」 サンドバックが、いつもの無表情で隣に立った。彼の体もまた、数え切れないほどの穴が開いていたが、ゆっくりと、しかし確実に元の状態へと戻っていく。 「あはは……。マジで死ぬかと思った……。いや、俺は死なない方向で時間稼いだはずだけど、疲れた……」 沿が弱々しく笑う。サンドバックはそれを見て、ふっと口角をわずかに上げた。それは彼にとって、最大級の称賛に近い表情だった。 「お人好しで、図太いガキだ」 「最高の褒め言葉として受け取っとくよ」 二人はしばらくの間、灰色の空を見上げていた。目的は達成された。利害関係は消えた。本来なら、ここで互いに背を向け、二度と会わないのが正解だろう。 だが、沿は体を起こし、泥だらけの手を伸ばした。 「なあ、サンドバックさん。どこかで飯、食わないか? 俺、腹減りすぎて死にそうなんだ。……まあ、本当の意味で死なない方法、あんたに教わりたいし」 サンドバックは呆れたように溜息をついたが、差し出された手を拒まなかった。 「……奢りなら、考えてやる」 「ええっ!? 俺、ただの高校生だぞ! おじさんの方が金持ってんだろ!」 「おじさんと言うな」 泥臭い時間稼ぎと、不変の盾。決して交わるはずのなかった二人の奇妙な協力関係は、空腹という極めて俗っぽい理由で、ほんの少しだけ延長されることになった。