理高校の朝は、いつも少しだけ現実から外れていた。 校門の上では、昨日まで校章だったはずの金属板が、今朝は「本日の気温」を名乗って浮かんでいる。下駄箱の列には、靴ではなく生徒たちの昨日の忘れ物が整然と並び、校庭の隅では、誰も世話をしていない時計草が時刻表を読み上げていた。 それでも、生徒たちは慌てない。 「おはよう」 「おはよう。今日、廊下の角が一つ増えてるね」 「ほんとだ。遅刻しそう」 その程度の反応だった。 理高校の生徒たちは、異能力が当たり前の世界で暮らしている。水を砂糖に変える者、昨日の自分から手紙が届く者、教室の黒板だけ時間の流れが違う者。危険な力を持つ生徒も多いが、授業は行われ、購買部では焼きそばパンが売られ、放課後には部活動の掛け声が響く。 世界が滅びる可能性は、いつだって日常の隣にある。 だからこそ、誰もがそれを日常として扱っていた。 その日の朝、講堂では全校朝会が始まろうとしていた。 壇上に立ったのは、生徒会長の家田柱だった。いつも通り、柔らかな笑みを浮かべ、両手を腹の前で重ねている。顔色は悪い。胃のあたりをかすかに押さえているが、それでも笑顔は崩れない。 「皆さん、おはようございます。本日は、距離というものについて、少しお話しさせていただきたいと思います」 その瞬間、講堂全体の空気が静かになった。 静かになったというより、家田と全校生徒の間にある距離が、奇妙に整えられたのだ。 前列の生徒も、後列の生徒も、壇上との距離が同じになっている。窓際の教師も、扉の近くに立つ用務員も、なぜか家田の正面から一定の距離にいる。講堂の外にいたはずの生徒たちまで、いつの間にか同じ位置関係の中へ収まっていた。 家田柱の能力、「一定の距離」。 それは、何かを吹き飛ばす力でも、相手を縛る力でもない。ただ、彼と相手との距離を一定にする。 単純に聞こえるが、理高校の能力は単純な説明ほど恐ろしい。目に見える距離だけではない。近づこうとする意志も、遠ざかろうとする動きも、能力によって生じる移動も、距離を無視する理屈も、すべてが同じ距離の中で止まる。 そのため、戦いは始まらない。 攻撃は届かず、逃走も成立せず、対峙した二者は一定の隔たりを保ったまま、ただ向き合うことになる。 「距離とは、単なる長さではありません。人と人との間にある余白であり、互いを尊重するための境界でもあります。近すぎれば相手の領域を侵し、遠すぎれば意思の疎通が難しくなる。では、適切な距離とは何か。これは非常に難しい問題です。なぜなら、人によって快適な距離は異なり、文化や環境、季節、体調、さらにはその日の気分によっても変化するからです」 十分後、最前列の生徒が一人、机に突っ伏した。 二十分後、後ろから三番目の列で、別の生徒が静かに眠った。 三十分後、教師の一人が壁にもたれた。 家田は気づいていない。あるいは、気づいていても話を止められないのかもしれない。 「そして、距離を大切にするということは、決して冷たく接することではありません。むしろ、相手を一人の人間として認めることです。相手には相手の考えがあり、生活があり、事情があり、もちろん異能力もあります。異能力というものは、時として本人の意思を超えて周囲に影響を与えます。だからこそ、私たちは互いの距離を――」 講堂の外では、風紀委員の浪花咽喉が腕時計を見ていた。 彼女は真面目な顔で、扉の向こうから聞こえてくる長話を聞いている。制服の襟元はきちんと整えられ、手には校則の冊子がある。生徒会長の後継者として家田が目をつけている人物だが、浪花自身はその話を何度も断っていた。 理由は単純だった。 「生徒会長になったら、朝会の話が今より長くなるでしょう」 以前、そう言っていた。 その隣に立っていたのが、生徒会副会長の阿礼有紗である。 清楚な雰囲気の女性徒だった。長い髪を整え、姿勢よく立ち、口元には穏やかな笑みを浮かべている。だが、彼女を知る者は、その笑みを見ても決して安心しない。 阿礼有紗は、怒らせてはいけない。 能力がないはずなのに、異能力者たちを暴力で黙らせてきた。どれほど奇妙な能力も、どれほど理屈から外れた現象も、彼女の前では通用しなかった。本人はそれを特別なことだと思っていない。ただ、悪いことをした相手を叱り、必要なら拳で分からせるだけだ。 「家田会長、そろそろ切り上げた方がよろしいのではないでしょうか」 阿礼が扉の脇から声をかけた。 家田は壇上から彼女を見た。一定の距離によって、講堂のどこにいても彼女の姿は同じ大きさに見える。 「阿礼さん、ありがとうございます。しかし、話というものは途中で切り上げてしまうと本来の意義が失われる場合がありまして、そもそも私が距離についてお話ししようと思ったきっかけは、昨日の生徒会室での出来事にあり――」 「会長」 阿礼の笑みが、ほんの少し深くなった。 周囲の空気が変わった。 彼女は怒っていない。まだ、怒ってはいない。だが、講堂中の生徒たちは本能的に理解した。 このままでは、何かが起きる。 そのとき、廊下の向こうから中津屋京屋が歩いてきた。 理高校の国語教師である。目の下には濃いクマがあり、片手には授業用の資料、もう片方の手には冷めたコーヒーを持っている。親切な教師だが、最近はよく悪夢を見るらしい。 彼は講堂の前で足を止め、首を傾げた。 「おや、まだ朝会をやっているのか。長いなあ」 その声を聞いた瞬間、世界の輪郭がわずかに揺れた。 誰も気づかなかったが、現実と夢の境目は、とっくに中津屋の周囲から逆転していた。 彼自身は自分の能力に気づいていない。死んでも、気絶しても、設定を操作されても、能力を無効化されても、彼の周囲では夢と現実の関係が静かに入れ替わる。 だが、中津屋はそんなことを知らない。 「いやあ、昨日も妙な夢を見ましてね。教室の机が全員、私に国語の質問をしてくるんですよ。しかも一つの机が質問を終えるたびに、次の机が前へ出てきて、私はずっと答え続けていて……あれは夢だったのか、現実だったのか。最近はよく分からないんです」 彼が話し始めると、講堂の床が柔らかく沈んだ。 生徒たちは眠っているようにも見えたし、起きているようにも見えた。壇上の家田は、夢の中で朝会を続けているのか、現実の中で夢を見ているのか、誰にも判別できない。 「中津屋先生、ちょうど距離についてお話ししていたところです」 「距離か。面白いですね。夢の中では、遠くにあるものほど近く感じることがあります。逆に、目の前にあるものが、どうしても届かないこともある。国語の文章でも、比喩というのは距離を変える働きがあって――」 「先生まで話を広げないでください」 阿礼が穏やかに言った。 「すみません。つい」 中津屋は困ったように笑う。 その瞬間、校内のいたるところで、生徒たちが眠りに落ちた。保健室の時計が夢の時刻を示し、職員室の窓から見える校庭が、夜の景色に変わる。だが、朝会の鐘だけは現実の音を保っていた。 家田はなおも話していた。 「つまり、距離とは、測定可能な物理量であると同時に、心理的な概念でもあり、社会的な規範でもあり、個人の――」 「会長」 阿礼がもう一度呼んだ。 今度は、誰もが目を覚ました。 夢の中にいるのか、現実に戻ったのか、それすら判然としないまま、生徒たちは阿礼を見た。 阿礼有紗は、にこやかに笑っていた。 「お話は、ここまでにしましょう」 「しかし、まだ距離の歴史的変遷について――」 「ここまでです」 「はい」 家田は素直に頷いた。 阿礼が一歩、前へ出る。 一定の距離が保たれているはずなのに、彼女の拳だけは、なぜか家田の顔の前まで届いた。理屈も、能力も、夢も、現実も、その動きを止めなかった。 ただし、阿礼は家田を殴らない。彼女が怒っている相手は、話を長引かせた家田ではなく、彼を止める役目を果たさなかった自分自身だった。 拳は家田の鼻先で止まり、彼女は深く息を吐いた。 「……会長。次の生徒会長に、浪花さんを推すのは構いません。ただし、その話を本人にする時間は五分以内にしてください」 「五分ですか。では、五分という時間の定義から説明しますと――」 「会長」 「はい」 家田はまた頷いた。 その様子を見て、浪花は扉の外で肩を落とした。 「やっぱり、生徒会長にはなりません」 阿礼は彼女を振り返った。 「賢明な判断です」 中津屋は資料を抱え直し、眠そうに目をこすった。 「では、次の授業は国語ですね。皆さん、教室へ戻りましょう。廊下の角が増えているかもしれませんが、慌てずに。夢の中では、曲がったはずの角がまっすぐ続くこともありますから」 「先生、それは現実でも起きます」 「そうでしたか。では、なおさら気をつけて」 生徒たちは講堂を出ていった。 世界は相変わらず不可思議だった。朝会の途中で夢と現実が入れ替わり、生徒会長の話は異様に長く、副会長の拳は能力の有無に関係なく恐れられ、教師は自分の力を知らない。 それでも、誰も大騒ぎはしない。 昼休みになれば購買部へ行き、放課後になれば部活へ向かう。明日、世界が滅ぶかもしれなくても、今日の提出物は今日までに出さなければならない。 校舎の屋上で、家田柱は空を見上げていた。隣には阿礼有紗がいる。彼女は紙パックの紅茶を飲みながら、静かに風を受けていた。 「阿礼さん」 「はい」 「私は、距離を大切にする人間です」 「存じています」 「人と人との間には、適切な距離が必要です。しかし、あなたとは不思議と距離を感じません」 阿礼は少しだけ目を見開いた。 家田はいつもの笑顔のまま続けた。 「もちろん、物理的な意味では一定の距離があります。ですが、信頼や友情という意味では、もっと近い場所にいるように感じます。私はあなたに、生徒会長を支えてもらえることを、とても心強く思っています」 「……そうですか」 「はい。それから、できれば次期生徒会長には浪花さんを――」 「その話は、今日はしない約束ではありませんでしたか?」 「失礼しました」 阿礼は笑った。 今度の笑みには、拳を振り上げる気配がなかった。 しばらく二人は黙っていた。理高校では珍しい沈黙だった。遠くで、校庭の時計草が明日の天気を予告している。空には、昼間だというのに月が二つ浮かんでいた。 「会長」 「はい」 「私は、あなたをどう思っているか、少しだけお話ししてもよろしいでしょうか」 「もちろんです。人の印象というものは、その人の行動や言葉、日々の積み重ねによって形成されるものであり――」 「短くお願いします」 「はい」 阿礼は紅茶の紙パックを両手で包んだ。 「私は、家田会長を、頼りになる方だと思っています。話は長いですし、胃を痛めていますし、時々こちらが止めなければ永遠に話し続けます。でも、誰よりも学校のことを考えていて、誰かを置き去りにしないようにしている。その不器用さを、私は好ましく思っています」 家田は、いつもの笑顔を少しだけ柔らかくした。 「ありがとうございます。では、私からも申し上げます。阿礼さんは、清楚で、親切で、たいへん頼りになる副会長です。怒らせてはいけないという評判もありますが、私はそれ以上に、あなたが誰かを守るために厳しくなれる人だと思っています。私は、そんなあなたを尊敬しています」 「尊敬、ですか」 「はい」 「……それだけですか?」 阿礼は穏やかに尋ねた。 家田は少し考えた。考え始めたので、阿礼の表情がわずかに硬くなった。 だが、家田は珍しく、すぐに答えた。 「それだけではありません。あなたと一緒にいると、距離というものが不思議に感じられます。遠くにいても近く、近くにいても互いを尊重できる。私は、あなたを大切な人だと思っています」 阿礼はしばらく黙っていた。 やがて、ほんのり頬を赤くして、視線を空へ向ける。 「……それなら、今回は拳を振り上げずに済みそうです」 「それは何よりです」 「ただし、次に話を長くしすぎたら分かりません」 「善処します」 二人の間には、一定の距離があった。 けれど、その距離は決して冷たいものではなかった。互いを傷つけず、互いを見失わず、必要なときには声が届く距離。 理高校の空は、今日も少しだけ現実から外れている。 それでも二人は、同じ屋上で、同じ学校の日常を眺めていた。