昼とも夜ともつかぬ光が、巨大な裏市場の天井を満たしていた。 そこは都市の地下深く、幾重もの建物と路地を縫って広がる、表の法が届かない場所だった。盗品の宝石、禁制の薬、異界の果実、呪われた武器、偽造された身分証、瓶詰めにされた怪物の幼体。情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが獲物を値踏みし、怪しい商人たちが客を呼び込む声が絶え間なく飛び交っている。 その雑踏を、鮮血に染まったドレスの女が歩いていた。 長身。白銀の長髪。金と銀の異なる瞳。美しい顔立ちには、場違いなほど穏やかな微笑が浮かんでいる。 怪人、凍華。 彼女は露店に並んだ黒い水晶を眺めながら、丁寧な口調で商人に尋ねた。 「こちらは、何に使う品ですか?」 「そいつは記憶を喰う石だ。思い出を一つ売れば、かなりの金になるぜ」 「まあ。人の思い出を商品にするのですね。随分と人間らしい商売です」 凍華が水晶へ手を伸ばした、その時だった。 市場の中央を、紅白の和服を着た少年が歩いてきた。 十歳ほどに見える。薄紫色の髪、右眼は紫黒、左眼は白銀。見た目だけなら、神社から迷い込んだ子供にしか見えない。 だが、少年の周囲だけは人の流れがわずかに避けていた。 ミグラ。 山奥の神社に祀られた、永久に在り続ける最高位の神。記録し、記憶し、世界の出来事を改変する禁忌の存在。 ミグラは凍華の姿を見つけると、無邪気に首を傾げた。 「ねえ、そこのお姉さん。その水晶、僕が先に見つけたんだけど」 凍華は振り返り、柔らかく微笑んだ。 「それは失礼いたしました。では、どうぞお譲りします」 「ううん。もう触ったよね」 「はい」 「じゃあ、君の記憶に残った」 ミグラの紫黒の眼が、わずかに細くなった。 「僕は、僕のものを覚えられるのが嫌いなんだ」 周囲の空気が冷えた。 商人が顔を引きつらせ、露店の商品を慌てて片付け始める。観客たちは面白そうに距離を取り、賭け屋の男が素早く紙片を配り始めた。 凍華は水晶を元の場所へ置いた。 「では、忘れればよろしいのでは?」 「できるよ」 「それは結構なことです」 「でも、君が僕を見た事実も、僕に話しかけた事実も、全部書き換えて消すのはつまらない」 ミグラは笑った。子供の笑顔だった。 ただし、そこに宿っているものは子供の感情ではなかった。 「だから君、僕と喧嘩しようよ」 凍華はしばらく少年を見つめた。 「突然ですね。私は争いを好みません」 「嘘だ」 「なぜそう思われるのです?」 「そのドレス、何人分の血?」 ざわめきが止まった。 凍華の金の瞳から、温度が消えた。 ミグラはさらに無邪気に続ける。 「人間って言うなら、どうしてそんなに人間を壊した匂いがするの?」 凍華の指が、ゆっくりと握られた。 「……私の過去を、勝手に覗きましたか」 「記録しただけだよ」 「記録も覗き見も同じです」 「怒った?」 凍華は顔を上げた。 笑っている。だが、その笑顔は先ほどまでの穏やかなものではない。 「ええ。怒りました」 彼女はミグラへ一歩踏み出した。 「私は人間ですよ。何の変哲もないただの人間よ」 「じゃあ証明して」 ミグラが指を鳴らした。 「人間なら、死んでみて」 その瞬間、凍華の背後にあった路地が消えた。 正確には、路地が存在しなかったことにされた。建物も屋台も観客も、そこにあったという記録だけが切り取られ、巨大な虚無が口を開く。 凍華は落ちなかった。 虚無の縁に片手をかけ、指の力だけで身体を止めた。 「そのような頼み方をされては、断れませんね」 彼女は路地の崩れた縁を引き寄せるようにして、ミグラへ跳んだ。 武器はない。技もない。 ただ、人の理から外れた暴力だけがあった。 拳がミグラの頬へ迫る。 ミグラは避けなかった。 凍華の拳が触れる寸前、世界の記録が書き換えられた。 ――凍華が殴ったという事実は、発生しなかった。 拳は空を打った。 「残念」 ミグラが凍華の腹へ掌を当てる。 衝撃は音を伴わなかった。凍華の身体だけが、数十メートル先の薬品店へ吹き飛ぶ。棚が崩れ、毒薬の瓶が割れ、紫色の液体が床を這った。 「お姉さん、遅いね」 店の壁を突き破った凍華は、瓦礫の中から立ち上がった。 腹部は大きく陥没していた。しかし傷口から黒い闇が溢れ、肉と骨を包み込む。数秒後には、彼女の身体は完全に元へ戻っていた。 「ご忠告ありがとうございます。ですが、私は昔から不器用でして」 凍華は床を蹴った。 彼女の動きは単純だった。走り、殴り、掴み、叩き潰す。 しかし、単純であることは弱さではなかった。 ミグラが時間を止める。凍華は止まった時間の中で、なお一歩進んだ。 ミグラが進行方向をなかったことにする。凍華は壁を蹴り、別の角度から突進した。 ミグラが凍華の拳を記憶し、同じ攻撃を無効化する。凍華は拳を捨て、肩からぶつかった。 その一撃が少年の身体を屋台ごと吹き飛ばす。 「おや」 ミグラは空中で身を翻し、魚の干物を売っていた屋台の天幕に着地した。 「同じじゃない攻撃なら、まだ効くんだね」 「そう見えますか?」 凍華が瓦礫の下から巨大な鉄鍋を拾い上げ、投げつける。 ミグラは指を向けた。 鉄鍋は、凍華が投げなかったことになった。 だが、その瞬間を利用して凍華は屋台の陰へ滑り込み、床に散った油を蹴り飛ばした。油がミグラの足元を濡らす。 ミグラが転ぶことはなかった。 転んだという未来そのものを消したからだ。 しかし、凍華はその間に距離を詰めていた。 彼女の手が、ミグラの首を掴む。 「捕まえました」 「捕まったという記録を消せばいい」 「ええ。そうなさると思いました」 凍華はミグラを投げ飛ばさず、掴んだまま自分ごと横へ倒れ込んだ。 二人の身体が屋台の床を突き破り、地下倉庫へ落ちる。瓶詰めの蛇、呪符、乾燥させた怪物の臓器が宙を舞った。 地上では観客たちが一斉に悲鳴を上げ、商人たちが商品を抱えて逃げ出す。 地下では、ミグラが凍華の手首を眺めていた。 「痛くないの?」 「痛いですよ」 「怖くないの?」 「怖いです」 「じゃあ、どうして立てるの?」 凍華は折れた腕を、無理やり正しい位置へ戻した。 「人間だからです」 ミグラの笑みが薄れた。 「それ、嫌い」 彼が手を掲げる。 地下倉庫の全ての記録が反転した。棚は最初から存在せず、床は最初から水であり、凍華は最初からこの場所で敗北していたことになる。 世界が改変される。 凍華の膝が崩れた。 彼女の胸を、無数の見えない刃が貫く。血が溢れ、黒い闇が床へ広がる。 「終わりだよ」 ミグラはしゃがみ込み、凍華の顔を覗き込んだ。 「君は僕に勝てない。君の攻撃は覚えられる。君の未来は書き換えられる。君の死は、僕が決められる」 凍華は血を吐きながら、微笑んだ。 「それは……大変、便利な力ですね」 「負けを認める?」 「いいえ」 凍華の瞳に、火が戻った。 「まだ、立てますので」 彼女が立ち上がった。 貫かれた傷が塞がる。失われた血が戻る。倒れたはずの足が、床を踏みしめる。 ミグラは眉をひそめた。 「記録では、君はもう敗北している」 「記録がそう言っているだけでしょう」 「事実だよ」 「事実なら、変えられます」 凍華は一歩進む。 「ですが、意志は記録ではありません」 その時、地上から轟音が響いた。 倉庫の天井が揺れ、天井裏から大量の人影と荷物が落ちてくる。地上で市場の通路が塞がり、逃げ遅れた客たちが地下へ押し寄せてきたのだ。 ランダムイベント――裏市場に大量の客が集まり、戦場が狭くなった。 数百人の客と商人が、崩れた床穴から地下へなだれ込んでくる。 「どけ! 押すな!」 「商品が! 誰か呪い箱を踏むな!」 「上で賞金稼ぎが暴れてるぞ!」 狭い地下倉庫は一瞬で人で埋まった。 ミグラが周囲を見る。 「邪魔だね」 「お客様を巻き込むおつもりですか?」 「僕には関係ないよ」 ミグラが手を動かす。 客たちの存在を消し、誰もいない空間に変えようとする。 だが、凍華がミグラの腕を掴んだ。 「させません」 「どうして?」 「人間ですから」 凍華はミグラを人混みから引き離し、崩れた柱の向こうへ投げた。ミグラの身体が壁にめり込む。 「僕を守るんだ?」 「あなたを守ったのではありません。周囲の方々を守ったのです」 「綺麗ごと」 「ええ。人間は、そういう綺麗ごとを捨てきれない生き物です」 ミグラの表情から、子供らしさが消えた。 「じゃあ、君の綺麗ごとごと壊す」 彼の白銀の眼が輝く。 倉庫内の全員の記憶が書き換えられた。 客たちは凍華を敵だと思い込み、怒号を上げて一斉に襲いかかる。商人たちは彼女を化け物と呼び、手にした棒や刃物を振り回した。 凍華は反撃しなかった。 彼女は殴られ、刺され、蹴られながらも、客たちを傷つけず、ひたすらミグラへ近づいていく。 「お姉さん、さすがに無理だよ」 ミグラが言った。 「君は今、全員に敵だと思われている。誰も君を助けない。誰も君を理解しない」 「構いません」 「一人で戦うの?」 「最初から、そのつもりです」 凍華の身体から黒い闇が噴き出した。 それは周囲の人間を飲み込むのではなく、彼らの足元へ薄く広がり、転倒させ、武器を絡め取り、誰一人としてミグラの力を利用できない位置へ押し戻した。 凍華は、敵意を向ける群衆の中を進んだ。 何度倒れても起き上がった。 彼女の動きは、戦うほどに変わっていった。 最初はただの突進だった。 次には、柱と壁を利用した跳躍になった。 その次には、群衆の動きを読み、攻撃を受ける角度を選び、ミグラへ届く道を作る戦術になった。 武器も技もない。 それでも、敗北から学び、痛みから強くなり、立ち上がるたびに次の一手を得ていた。 「君は、僕の力を無効化しているの?」 ミグラが初めて苛立った声を出した。 「いいえ」 凍華は血まみれの顔で答える。 「無効化するほど、器用ではありません。ただ、あなたが何を消しても、私が立ち上がるという結果だけは消えません」 「消せるよ」 「やってみてください」 ミグラは世界を書き換えた。 凍華が生まれなかった歴史。 凍華が人間を愛さなかった過去。 凍華が戦う理由を持たない運命。 彼女の存在そのものが、何度も削り取られる。 しかし、そのたびに黒い闇が傷口から噴き出した。 闇は消された歴史の残骸を拾い集め、凍華の身体へ戻していく。 愛した記憶も、失った記憶も、絶望も、怒りも、何度でも再生される。 「私は人間ですよ……」 凍華が呟く。 「人間として生きたかった。人間として愛したかった。人間として、終わりたかった」 彼女は拳を握った。 「だからこそ、私の意志まで、あなたの記録に預けるつもりはありません」 ミグラは両手を広げた。 「なら、君の意志を壊す」 精神へ干渉する力が放たれる。 恐怖、絶望、孤独、憎悪。凍華の中にある傷を抉り、彼女自身に「もう諦めろ」と囁かせる。 だが、凍華は笑った。 「それは、効きません」 「僕の力は無効化できない」 「無効化しているのではありません」 凍華の瞳がミグラを射抜く。 「私は、折れてもなお戦うと決めているだけです」 彼女の意志が、精神攻撃の中を突き抜ける。 能力を無視する意志。耐性を無視する意志。無効化を無視し、相手を鏖殺するほどの、ただひたすらな生存への執念。 凍華はミグラへ迫った。 ミグラは時間を停止した。 凍華の周囲に、無限に近い数の攻撃結果を配置する。刃に貫かれる未来。首を刎ねられる未来。存在を消される未来。敗北した未来。 その全てを、ミグラは記憶し、無効化し、選び取る。 だが、凍華は攻撃しなかった。 彼女はただ歩いた。 拳を振るわず、能力を使わず、ミグラへ向かって歩き続けた。 「何をしているの?」 「あなたの記憶に残らないことをしています」 「そんなもの、ないよ」 「ええ。だから、あなたには読めません」 凍華がミグラの前に立った。 「私は、勝つ方法を探しているのではありません」 彼女は少年の胸ぐらを掴む。 「立ち続ける方法を探しているのです」 ミグラの眼が見開かれた。 凍華は拳を振り抜いた。 それはこれまでの攻撃とは違った。 殴るという単純な動作の中に、これまで受けた全ての痛み、倒された記憶、書き換えられた運命、守ろうとした人々、捨てきれなかった人間性が込められていた。 ミグラはそれを記録しようとした。 だが、記録は一つの拳をしか捉えられなかった。 凍華の拳に込められたものは、過去でも未来でもなく、ただ今この瞬間に「殴る」と決めた意志だった。 それは記録を超えていた。 拳がミグラの顔面へ届く。 少年の身体が地下倉庫の奥へ吹き飛び、壁を三枚突き破った。さらに地上へ飛び出し、露店の屋根を破壊して、市場中央の噴水へ叩き込まれる。 水と瓦礫が舞い上がった。 市場全体が沈黙した。 凍華は地下から地上へ這い上がった。身体は傷だらけだったが、すでに再生が始まっている。 噴水の底で、ミグラが立ち上がった。 頬に傷があった。 すぐに消えるはずの傷だった。 しかし、消えなかった。 ミグラは自分の頬に触れ、驚いたように呟いた。 「記録できない」 「そうですか」 「どうして?」 「私にも分かりません」 凍華は、静かに構えた。 「ただ、私が人間として生きてきた証を、あなたの都合で消されたくないと思っただけです」 ミグラの周囲で、時間と空間が渦巻く。 市場の建物がねじれ、屋台が宙へ浮き、逃げ遅れた客たちが悲鳴を上げる。 「僕は神様だよ」 「存じております」 「僕が決めたことが、世界の事実になる」 「それでも」 「僕に逆らうの?」 「はい」 凍華は一歩踏み込んだ。 「私は人間ですから」 ミグラは両手を合わせ、世界を終わらせるほどの改変を始めた。 だが、凍華はその中心へ飛び込んだ。 空間が裂け、肉体が砕け、黒い闇が吹き荒れる。何度も死に、何度も再生し、それでもミグラへ向かう。 ミグラは歴史を消す。 凍華は歴史が消えた場所に立つ。 ミグラは未来を閉ざす。 凍華は未来がないなら、現在の一歩を踏み出す。 ミグラは敗北を決定する。 凍華は決定された敗北の中で、なお拳を握る。 最後に二人の距離が、腕一本分まで縮まった。 ミグラは初めて、明確な恐怖を見せた。 「近づかないで」 「申し訳ありません」 「これは命令だよ」 「従えません」 凍華の拳が、ミグラの胸へ沈んだ。 衝撃は市場の外へは広がらなかった。凍華が最後の瞬間、黒い闇で周囲を包み、力の全てをミグラ一人へ集中させたからだ。 ミグラの神力が弾ける。 書き換えられた記録が、破れた紙のように空中へ散った。 歴史が戻る。 消えた屋台が現れ、ねじれた建物が元へ戻り、客たちの記憶も本来のものへ修復されていく。 ミグラは膝をついた。 不死不滅の神である彼は、死ななかった。 だが、立ち上がれなかった。 凍華もまた、片膝をついていた。彼女の身体は無限に再生していたが、その再生を上回るほど傷ついていた。 しばし、二人は無言で見つめ合う。 ミグラが小さく笑った。 「僕、負けたの?」 「いいえ」 凍華は息を整えながら答えた。 「あなたは死んでいません。ですから、勝敗を決めるには不十分でしょう」 「じゃあ、何で僕を殴ったの?」 「喧嘩を売られましたので」 「それだけ?」 「それだけです」 ミグラはしばらく考えた後、無邪気な笑顔を浮かべた。 「次は、僕が勝つよ」 「そうでしょうね」 「逃げないの?」 「私は不屈ですので」 「また殴る?」 「必要ならば」 ミグラは立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。凍華が手を差し出す。 ミグラはその手を見て、警戒するように首を傾げた。 「助けるの?」 「ええ」 「敵なのに?」 「敵だからこそ、立てる状態にはしておくべきでしょう。次に戦う機会がなくなっては困ります」 ミグラは手を取った。 その瞬間、凍華の掌から黒い闇が一筋だけ伸び、ミグラの胸へ触れる。攻撃ではない。彼の中に残る改変衝動の一部を絡め取り、これ以上市場の記録を書き換えられないよう封じたのだ。 ミグラは気づいたが、何も言わなかった。 やがて彼は、壊れた市場を見渡した。 崩れた屋台。割れた瓶。逃げ惑う客。損害を計算する商人たち。そして、血と闇にまみれながら立つ凍華。 「お姉さん」 「何でしょう」 「君、本当に人間?」 凍華は金銀の瞳を細めた。 「人間ですよ。何の変哲もない、ただの人間です」 彼女は最初と同じ言葉を口にした。 けれど今度は、ミグラも、市場にいる誰も、それを額面通りには受け取らなかった。 怪人。魔神。永遠を生き、人と名乗るナニカ。 それでも凍華は、倒れては立ち上がり、傷ついては歩き続けた。 神が運命を決める世界で、ただ一人、決められた結末を拒みながら。 その姿を見て、ミグラは楽しそうに笑った。 「じゃあ、次はもっと面白い記録を作るね」 「ええ。楽しみにしております」 二人は破壊された裏市場の中央で、再戦を予感させる視線を交わした。 勝者は、凍華。 ただしそれは、ミグラを殺したからではない。彼の不死を破ったからでも、能力を完全に無効化したからでもない。 何度敗北を決められても、何度存在を消されても、最後まで立ち続けたからだ。 そして裏市場には、その日から新しい噂が流れ始めた。 ――神の記録を殴り壊した、血まみれの女がいる。 ――いや、あれは人間だ。 ――人間なものか。 ――本人が人間だと言っているなら、人間なんだろう。 喧騒は、やがて元に戻っていった。 ただし、噴水の縁に残った黒い染みだけは、どれだけ洗っても消えなかった。