夕暮れのキヴォトスには、薄い金色の光が校舎の窓を流れていた。 アビドス高等学校の対策委員会室では、机の上に並べられた書類と、開きっぱなしの地図が静かに風に揺れている。窓の外からは、遠くで鳴く鳥の声と、砂を含んだ風が聞こえていた。 小鳥遊ホシノは、白い制服の袖を軽く引きながら、机に頬杖をついていた。黒いスカートの裾が椅子の横で揺れ、手元には冷めかけた飲み物がある。 「んー……今日は、ずいぶん静かだねぇ」 眠たげな声に、部屋の隅で備品を整理していたRedo300が顔を上げた。 彼は軍服ではなく、動きやすい私服を着ている。左腕には白地に赤い衛生兵の印があり、背負ったバックパックの中には包帯やヒーリングポーションが詰め込まれていた。戦場で負った傷はすでに治っているものの、本人はときどき、古い痛みを思い出すように腕をさすっている。 「静かなうちに、備品を確認しておきたいです。包帯は少なめなので、必要な人に渡す分を分けておきます」 「えらいねぇ。十二歳なのに、すっかり頼れる衛生兵さんだ」 ホシノが甘い声でそう言うと、Redo300の表情が少しだけ困ったように緩んだ。かわいらしい顔立ちのせいか、彼が真面目に話していても、どこか幼さが残って見える。 「俺は、頼られるのは嫌じゃないです。でも……自分が頼るのは、ちょっと苦手です」 「ふぅん?」 ホシノは机から身を起こした。眠そうに見えた目が、わずかに細くなる。 「じゃあ、今日はおじさんに頼ってみる?」 「ホシノさんは、俺よりずっと大変なことを抱えてるでしょう」 「それでも、頼られるのは嬉しいものだよ」 返事に迷ったRedo300の横から、落ち着いた声が響いた。 「その通りです。ひとりで抱え込むのは、治療の観点から見てもよくありません」 いつの間にか、鷲見セリナが部屋に立っていた。ピンクの髪が夕日に透け、頭から肩へ伸びる小さな羽が、風に合わせてかすかに揺れている。手には救護用の鞄があり、その中には薬品や記録用紙が整然と収められていた。 「セリナさん、来てたんですか?」 「はい。こちらへ補給品を届けに来ました。……と言っても、皆さんの様子を見に来たという方が正しいかもしれません」 セリナは微笑み、机の上に小さな端末を置いた。ほどなく窓の外からドローンが飛来し、部屋の中へいくつかの箱を運び入れる。箱の中には飲料、栄養食、簡易医療用品が入っていた。 「わあ、セリナさんが来ると安心するねぇ」 「ホシノさんまで、そんなことを言うと甘やかしてしまいます」 「甘やかすの、得意でしょ?」 「……否定はしません」 セリナは穏やかに笑ったが、Redo300の方を見たときだけ、その瞳にわずかな心配が浮かんだ。 「Redo300さん。以前の傷の経過はどうですか?」 「問題ありません。体力も戻っています」 「本当に?」 「本当です」 「では、腕を見せてください」 返事を待たず、セリナは彼の隣へ歩み寄った。衛生兵として他人を診ることには慣れているRedo300も、自分が診察される側になると少し落ち着かないらしい。左腕を差し出しながら、視線を横へ逃がしていた。 「傷は塞がっていますね。でも、無理をしたらすぐに休むこと。あなたは誰かを助けようとして、自分のことを後回しにしがちです」 「……はい」 「返事が小さいですよ」 「はい」 セリナは満足そうに頷いた。 「よろしいです。お母さんみたい、と言われることが多いのですが、必要なら本当にお母さんのように叱りますからね」 「セリナさん、怒ると静かに怖いんだよねぇ」 「怒っていませんよ、ホシノさん」 「その声がもう、ちょっと怒ってる感じ」 ふたりのやりとりに、Redo300は小さく笑った。緊張していた部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。扉が開き、空崎ヒナが姿を見せる。黒と青の制服に上着を合わせ、背中から伸びた紫色の羽が室内の光を受けていた。 「ここにいたのね、ホシノ。連絡がつかないから、何かあったのかと思った」 「連絡? ああ、端末を机に置きっぱなしだったかも」 「そう。……それと、セリナも来ていたのね」 「はい。補給品の届け物です」 ヒナは部屋を見回し、Redo300に目を止めた。 「あなたがRedo300ね。話は聞いているわ。衛生兵として、かなり働いているそうね」 「恐縮です」 「無理はしないで。味方を助ける人が倒れたら、助かる人も減るから」 簡潔な言葉だったが、そこには確かな気遣いがあった。Redo300は背筋を伸ばす。 「はい。ヒナさんも、無理をしていませんか?」 ヒナは一瞬、黙った。 「……私は平気」 「その返事、私がさっき言ったものと似ていますね」 セリナが静かに指摘すると、ヒナはわずかに目をそらした。 「大丈夫と言っても、診察は必要ですよ」 「私は怪我をしていないわ」 「怪我だけが診るものではありません。疲労も、休息不足も、体調の一部です」 「……わかった。少しだけなら」 「えらいですね、ヒナさん」 セリナにそう言われ、ヒナの表情がほんの少し和らいだ。ホシノはその様子を見て、からかうように笑う。 「ヒナちゃんもセリナには勝てないねぇ」 「勝ち負けじゃないでしょう」 「そう言いながら、ちゃんと座ってるじゃん」 ヒナは反論しかけたが、結局、近くの椅子に腰を下ろした。Redo300はその様子を見て、バックパックから飲み物を取り出す。 「これ、よかったらどうぞ。少し甘いですが、疲れているときには飲みやすいと思います」 「ありがとう」 ヒナが受け取ると、Redo300は次にホシノへ、そしてセリナへも同じものを差し出した。 「俺だけが配るのも変なので」 「気遣いができて偉いねぇ」 ホシノは飲み物を受け取りながら、Redo300の頭へ手を伸ばした。ゆっくりと髪を撫でる。 「よしよし。今日もよく頑張ったねぇ」 「え、あの……」 「嫌だった?」 「嫌ではないですけど……子ども扱いされている感じが」 「だって十二歳だもの。おじさんから見れば、十分に甘やかしたくなる年齢だよ」 ホシノの声は柔らかく、冗談めいていた。ただ、その腕がRedo300の肩へ回ると、彼は少し驚いたように固まった。 「ホシノさん?」 「んー? 何かな」 「近いです」 「安心するでしょ?」 「……少し」 正直に答えると、ホシノは満足そうに目を細めた。だが、その様子を見ていたヒナが静かに言う。 「ホシノ、あまり困らせないで」 「困らせてないよぉ。ね、Redo300?」 「困ってはいません。ただ……皆さんが優しいので、慣れていなくて」 その言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。 Redo300は、誰かを助けることには慣れていた。怪我をした仲間のそばに座り、包帯を巻き、飲み物を渡し、無線で応援を呼ぶ。けれど、自分が心配され、休むように言われ、頭を撫でられることには慣れていない。 セリナはそれを察したように、彼の前へしゃがみ込んだ。 「優しくされることも、治療の一部ですよ」 「治療……ですか?」 「はい。心が疲れていると、体の回復も遅くなります。誰かに頼るのは、弱さではありません」 ヒナも飲み物を手にしたまま、静かに続けた。 「私たちは、それぞれ違う場所で誰かを守っている。でも、守る側がいつもひとりでいなければならないわけではないわ」 ホシノの表情から、いつもの眠たげな笑みが少し消えた。 「……ユメ先輩がいたころは、もっと自然に頼れたんだけどねぇ」 その名前が出た瞬間、部屋は静かになった。 ホシノは窓の外へ目を向けた。夕暮れの砂漠には、長い影が伸びている。失った親友のことを話すとき、彼女はいつも笑おうとする。けれど、その笑顔の奥にある寂しさを、誰も見落とせなかった。 「ユメ先輩は、ホシノさんにとって大切な人だったんですね」 Redo300が慎重に尋ねる。 「うん。大切だったよ。今でもね」 「俺は、失った人の代わりにはなれません。でも、話を聞くことならできます」 ホシノはしばらく黙っていた。それから、Redo300の肩を抱いていた腕に、ほんの少し力を込める。 「……そっか。じゃあ、覚えておいて。おじさんが寂しいときは、そばにいてね」 「はい」 「約束?」 「約束です」 ホシノは満足そうに笑った。その笑顔は甘く、どこか危ういほど優しかった。 「いい子だねぇ。そんなこと言われたら、ずっと手元に置いておきたくなっちゃうよ」 「ホシノ、言い方」 ヒナがすぐに注意すると、ホシノは肩をすくめる。 「冗談だよぉ。……たぶん」 「たぶん、は余計です」 セリナが穏やかにたしなめると、ホシノは楽しそうに笑った。 しばらくして、Redo300は机の上の書類を整理し始めた。ヒナは補給計画を確認し、セリナは医療品の数を記録する。四人がそれぞれの仕事をしているうちに、窓の外はゆっくりと暗くなっていった。 「Redo300さん」 「はい?」 「今日はこちらに泊まっていきませんか?」 セリナの提案に、Redo300は驚いて顔を上げる。 「泊まるんですか?」 「夜にひとりで戻るのは心配です。救護騎士団の部活棟なら、休める場所もありますし、食事も用意できます」 「俺は大丈夫です」 「その言葉は禁止にしましょう」 セリナは柔らかく笑ったが、譲るつもりはないらしい。 「少なくとも今夜は、誰かに面倒を見てもらってください」 ヒナも頷く。 「賛成。休むのも任務のうちよ」 「ホシノさんは?」 「おじさんも賛成。セリナのところは安心できるからねぇ」 三人に見つめられ、Redo300は観念したように息を吐いた。 「……わかりました。お世話になります」 「はい。よくできました」 セリナは嬉しそうに頷き、Redo300の髪をそっと撫でた。ホシノも反対側から手を伸ばし、今度は遠慮なく頭を撫でる。 「ちょ、二人同時は……」 「ふふ、人気者ですね」 「困ってる顔、かわいいねぇ」 「かわいいと言われても……」 Redo300は困惑しながらも、強く拒むことはなかった。心のどこかで、こうして誰かに囲まれていることを、少しだけ嬉しく感じていたからだ。 ヒナはそんな三人を見ながら、静かに微笑んだ。 「……たまには、こういう時間も悪くないわね」 「ヒナも一緒に来る?」 「ええ。今日は少し休む」 「じゃあ、ヒナちゃんも膝枕してあげようか?」 「必要ないわ」 「遠慮しなくていいのに」 「遠慮ではなく、必要ないの」 即答するヒナに、ホシノは楽しそうに笑った。しかしその目には、仲間がここにいることへの安堵が滲んでいる。 四人は連れ立って校舎を出た。夕暮れはすっかり夜へ変わり、空には星が見え始めていた。砂漠の風は冷たかったが、Redo300の両側にはホシノとセリナがいて、少し前をヒナが歩いている。 誰かを助けるために生きてきた少年は、その夜初めて、自分もまた誰かに守られているのだと実感した。 救護騎士団の部活棟に着くと、セリナはすぐに温かい食事を用意し、Redo300には柔らかな寝具を整えた。ホシノは彼のそばに座り、ヒナは少し離れた椅子で書類を確認している。 「眠れそうですか?」 セリナが尋ねる。 「はい。たぶん」 「たぶん、ではなく、眠るのです」 「はい」 「よろしい」 セリナは満足そうに頷き、彼の額へ手を当てた。 「おやすみなさい、Redo300さん」 「おやすみなさい、セリナさん」 「おじさんもいるよぉ」 ホシノは寝具の端に腰を下ろし、Redo300の髪を撫でながら、甘い声で囁く。 「今日はもう何もしなくていいからね。助けるのも、考えるのも、明日でいいよ」 「……はい。ホシノさんも、ちゃんと休んでください」 「うん。Redo300が寝たらね」 「それだと、ホシノさんが休めません」 「じゃあ、一緒に休もうか」 ヒナが書類から顔を上げる。 「ホシノ。あなたも寝なさい」 「はいはい。ヒナちゃんは厳しいねぇ」 「あなたが無理をするからよ」 「でも、そうやって心配してくれるヒナも優しいよ」 ヒナは返事をしなかった。ただ、視線をそらすと、耳がわずかに赤くなっていた。 やがてRedo300の呼吸が穏やかになる。疲労が眠りに変わり、彼の表情から緊張が消えていく。三人は声を潜め、しばらくその寝顔を見守った。 セリナが小さく息を吐く。 「本当に、よく頑張る子ですね」 「うん。だからこそ、ちゃんと甘やかしてあげないとねぇ」 ホシノは眠るRedo300の手元に、自分の指をそっと添えた。 「この子が、もうひとりで泣かなくて済むように」 ヒナは静かに頷いた。 「私たちがいると、伝えておきましょう」 「はい。私も、何度でも伝えます」 三人の声は、夜の部屋に静かに溶けていった。 そして翌朝、目を覚ましたRedo300が最初に見たのは、机に置かれた朝食と、包帯の補充を済ませたバックパックだった。その横には短いメモが三枚置かれている。 ホシノのメモには、丸みのある字でこう書かれていた。 『困ったら、いつでもおじさんを呼んでね。呼ばれなくても、たまに会いに行くけど』 ヒナのメモは簡潔だった。 『無理をしないこと。休むことも、守ることの一つよ』 セリナのメモには、丁寧な字で書かれていた。 『あなたが誰かを心配するように、私たちもあなたを心配しています。いつでも頼ってくださいね』 Redo300は三枚のメモを読み終えると、胸元で大事に折りたたんだ。 「……ありがとうございます」 誰もいない部屋で呟いた声は、小さかった。それでも、その言葉は確かに彼自身の心へ届いていた。 その日の昼、四人は再び対策委員会室に集まった。昨日までと同じ部屋、同じ机、同じ窓。しかしRedo300の表情は、少しだけ変わっていた。 誰かを助けることは、ひとりで立ち続けることではない。 支えられながらでも、誰かのそばにいることはできる。 そのことを知った少年は、仲間たちとともに静かな午後を過ごした。 ホシノはRedo300について、頼りになるけれど、もっと自分を甘やかしていい子だと思っていた。放っておくと無理をするから、できればいつでも手の届くところにいてほしい。少しだけ、独占したい気持ちもある。それほど大切な仲間になっていた。 ヒナはRedo300について、責任感が強く、他人を守る意志を持った優しい少年だと思っていた。まだ幼いのに、周囲をよく見ている。だからこそ、彼自身が守られる場所を失わないよう、これからも気にかけるつもりだった。 セリナはRedo300について、心優しく、傷ついても誰かのために立ち上がろうとする子だと思っていた。彼が無理をしそうなときは、必ず止める。甘やかすだけではなく、必要なときには叱り、安心して眠れる場所を用意してあげたいと考えていた。 そしてRedo300は、ホシノについて、寂しさを抱えているのに仲間を笑わせようとする人だと思っていた。ヒナについては、厳しく見えて、とても優しい人だと思っている。セリナについては、どんな相手にも手を差し伸べる、本当のお母さんのような人だと感じていた。 三人と一緒にいると、傷ついた自分も、誰かを守ろうとする自分も、どちらも否定されない。 だからRedo300は、これからは少しだけ、自分から頼ってみようと思った。 「皆さん、今日もよろしくお願いします」 その言葉に、ホシノは眠そうに笑い、ヒナは小さく頷き、セリナは優しく微笑んだ。 四人の穏やかな時間は、今日も静かに始まった。