帝都の空は、常に薄い灰色に塗り潰されていた。政府直属の能力者集団である『帝都連隊』の敷地内は、規律と緊張感に包まれているが、その一角にある休憩室だけは、まるで時間の流れが止まったかのような緩慢な空気が漂っていた。 ふかふかのソファに身を沈め、長い青い髪を乱雑に散らしている女性が一人。雨宮澪である。彼女は手にした傘を杖のように使いながら、ぼんやりと天井を眺めていた。その赤と青のオッドアイは、どこか遠くの、誰にも見えない景色を追いかけているように見える。 「……あー、疲れた。何もしないことに疲れましたね」 澪は、実際には何もしていない。ただそこに横たわっていただけだ。しかし、彼女にとってはその「静止」という行為さえも、心地よい怠惰へのアプローチであった。彼女が特別兵の育成に心血を注ぐ(ように見せかけている)理由は、単純明快だ。優秀な部下が増えれば、自分の仕事が減る。そうすれば、さらに昼寝の時間が増える。この合理的かつ怠慢なサイクルこそが、彼女の信奉する平和の形だった。 そこへ、控えめな足音が近づいてくる。軍服を隙なく着こなし、軍用帽子を深く被った小柄な少年――不知火尚だ。彼は手にした書類を抱え、困ったように眉を下げて澪を見つめていた。 「雨宮隊長……またここで休んでいたんですか。いえ、その、休憩時間は大切だと思いますが……」 尚の口調は丁寧で、どこか自信なさげだ。童顔で心優しい彼は、その外見から女性兵たちに非常に好かれているが、本人はそれに自覚がない。むしろ、異性と接することに慣れていないため、常に一定の距離を保とうとする傾向にある。 澪はゆっくりと視線を彼に移した。不気味なほどに静かな笑みを浮かべ、彼女はふわりと指先を動かす。すると、尚が持っていた書類が、物理法則を無視してふわりと宙に浮き上がり、澪の手元へと吸い寄せられた。 「おや、尚くん。そんなに肩をいせぬで。平和ですよ。平和な時は、こうして心を無にするのが正解なんです。ねえ?」 「あ、ありがとうございます……。でも、この報告書、早急に提出しないといけないって上層部が……」 「ふふ。『早急に』というのは、大抵の場合『明日まで』という意味です。私はそう定義することにしました」 「そんな定義があるんですか……?」 尚は呆れたように溜息をついたが、その表情にはどこか安心感が混じっていた。彼は、澪の気まぐれで捉えどころのない性格を、不思議と心地よいと感じていた。彼女は決して何かを強要しない。ただ、隣にいてくれる。その距離感が、人見知りの彼にとって心地よかったのかもしれない。 澪は浮かせていた書類を適当なテーブルに放り出すと、ふと思いついたように、いたずらっぽく目を輝かせた。 「ねえ、尚くん。退屈ですね。何か面白いことをしませんか」 「面白いこと……ですか。例えば?」 「【愛してるゲーム】、やりませんか?」 尚は、ぽかんとした表情になった。彼は真面目な性格ゆえに、世俗的な「遊び」や「ゲーム」に疎い。そして、そのゲームの内容を正確に理解していない。 「アイシテル……ゲーム? それは何をするゲームなんですか。対戦形式ですか? それとも戦略的な……」 「いいえ、単純です。お互いに『愛してる』と言い合い、先に照れたり、耐えられなくなったりした方が負け、という至極単純な精神力測定ゲームです」 澪はクスクスと笑いながら、彼をじっと見つめた。彼女にとって、これは単なる暇つぶしであると同時に、純粋な少年である尚がどのような反応を示すかという「観察」でもあった。人をからかうことは、彼女にとって数少ない積極的な娯楽の一つだ。 「えっ……!? な、ななな何を言っているんですか! そんなの、恥ずかしすぎます!」 尚は一瞬で顔を真っ赤にした。彼は異性慣れしていない。しかも、相手は自分よりも年上の、そして不可思議な魅力を持つ女性隊長だ。心拍数が跳ね上がり、帽子を深く被り直して顔を隠そうとする。 「あら、拒否権はありませんよ。これは『隊員と上官の親睦を深めるための訓練』ということにしましょう。はい、私の勝ち確定に見えますね」 「そういう理屈は通りません! それに、僕はそういうことに慣れていなくて……」 「いいじゃないですか。誰も見ていませんし、ここには私とあなただけです。それとも……尚くんは、私に『愛してる』と言うのが怖いんですか?」 澪の声が、少しだけ低くなる。耳元で囁くような、蠱惑的なトーン。尚は逃げ場を失った。彼女の持つ《怠惰》の能力は、本来は危機回避のためのものだが、その副次的な空気感――周囲の緊張感を削ぎ落とし、脱力させる感覚――が、今の彼には逃避を許さない心地よい拘束のように感じられた。 「……っ。わかりました。やればいいんでしょ! やればいいんですよね!」 尚は意を決したように顔を上げた。赤色の瞳に、わずかな決意が宿る。彼は本来、怒りによって力を得る《憤怒》の能力者だが、今はその怒りではなく、恥ずかしさと緊張による高揚感が彼を突き動かしていた。 「いい返事です。では、せーの、で言い合いましょう。準備はいいですか?」 澪が指を鳴らした。 「せーの!」 「愛してる!!」 尚が叫んだ。あまりに真っ直ぐで、全力すぎる言葉だった。彼は「ゲーム」として処理しようとしたため、中途半端な気持ちで言うのではなく、全力でぶつけることで恥ずかしさを塗り潰そうとしたのだ。その声は、静かな休憩室に驚くほど大きく響き渡った。 対して、澪は。 「……愛してるよ、尚くん」 ふわりと、綿菓子のような甘い声で、彼女は微笑んだ。いたずらっぽく笑っていたはずの彼女の瞳が、一瞬だけ、本当に深い慈しみを湛えているように見えた。 静寂が訪れる。 尚は、自分の言葉の反動と、彼女の予想外に自然な返答に、脳内の処理が追いつかなくなっていた。彼は、相手が困惑したり、笑い転げたりすることを予想していた。しかし、澪は至極当然のことのように、彼を愛していると言い切った。 「……っ!!」 尚の顔は、もはや茹で上がったタコのように真っ赤だった。彼はガバッと口を押さえ、そのまま後ずさりして壁に激突した。心臓が早鐘を打ち、視界が白くなる。彼にとって、この「言葉」はあまりに重量級だった。 「ふふ……あははは! 完敗ですね、尚くん。顔が真っ赤ですよ。本当に可愛いですねぇ」 澪はソファに倒れ込み、お腹を抱えて笑っていた。彼女にとって、この結果は予想通りだったが、尚の反応が想定以上に純粋だったため、心からの笑いが出た。彼女は彼をからかうのが好きだが、同時に、その純粋さに救われている部分もある。 「うぅ……ひどい……。あんなの、反則です……」 尚は壁に寄りかかったまま、ずるずると座り込んだ。悔しさと恥ずかしさで、目尻に涙が浮かんでいる。しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、胸の奥が温かい感覚に包まれている。 「まあまあ、負けた尚くんには、ご褒美をあげましょうか。今日の報告書、私が適当にまとめておいてあげます」 「……それ、本当に助かるんですけど、仕事を手伝ってほしい人が言う言葉じゃないですよね」 「平和が一番ですから。さあ、もう一度だけやりましょうか。今度は、もっとゆっくりと……」 「もうしません!!」 尚の叫びが再び響き、澪はさらに愉快そうに笑った。二人の間にあるのは、軍隊という厳しい組織の中ではあり得ない、ゆるやかで温かい時間だった。 澪は、彼が時折口にする「真の平和とは何か」という問いに、答えを持っているのかもしれない。それは、大きな理想ではなく、こうして誰かと笑い合い、くだらないゲームに興じ、心地よい怠惰に身を任せられる瞬間こそが、平和の正体なのだと。彼女は、それを言葉にする代わりに、ただ彼をからかい続けることで表現していた。 「さて。笑いすぎて疲れました。尚くん、肩を貸してください。そのまま一緒に昼寝しましょう」 「ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! ここは休憩室であって、寝室じゃないし……!」 「いいんですよ。命令です。はい、おやすみなさい」 澪の《伝播》の能力が、ほんのわずかに彼を包み込む。やる気が削がれ、心地よい眠気が彼を襲った。抗おうとした尚だったが、彼女の穏やかな呼吸と、ふわりと漂う香りに、次第に意識が溶けていく。 帝都の灰色の空の下、軍服の少年と青い髪の女性は、静かに、深く、怠惰な午後の眠りに落ちていった。 * 【お互いに対する印象】 雨宮 澪 → 不知火 尚: 「とても純粋で、反応が面白い可愛い子。からかう甲斐があるし、一緒にいると心地よく怠けられるので大好きです。彼が考える『真の平和』の答えが、いつか私の怠惰に辿り着けばいいですね」 不知火 尚 → 雨宮 澪: 「本当に掴みどころがない人で、いつも振り回されてばかりです。不気味というか、不思議な方ですが……でも、彼女の隣にいると不思議と緊張が解けて、安心します。……あのおねだり(ゲーム)は、もう二度とやりたくありません(顔を赤くしながら)」