雨上がりの街は、煤と水の匂いがした。 夜更けだというのに、旧市街の通りにはまだいくつかの明かりが残っている。傾いた酒場の看板、薬草店の窓辺に吊るされた小さなランタン、そして、廃教会の割れたステンドグラスから漏れる月光。 ヴァルヴァラドは、その廃教会の軒下に腰を下ろしていた。 黒い長髪は濡れて肩に張りつき、左目を覆う眼帯にも細かな雨粒が残っている。赤い右眼だけが、暗がりの中でぼんやりと光を宿していた。 彼女は右腕の義手を持ち上げ、関節の具合を確かめるように指を開閉した。金属の擦れる音が、静かな通りに小さく響く。 「……問題なし、ですかね」 呟いたところで、通りの向こうから靴音が近づいてきた。 一定の間隔を保った、落ち着いた足取りだった。急ぐでもなく、隠れるでもない。夜の街を自分の庭のように歩く者の音。 ヴァルヴァラドは顔を上げた。 月明かりの下に、長身の男が立っていた。 白髪は雨に濡れてもなお整っており、若々しい顔立ちには、年月を感じさせる影がほとんどない。ただし、全身に残る古傷と、斬り落とされた右翼の痕だけが、彼が見た目どおりの存在ではないことを物語っていた。 バキット・バットは、彼女を見つけると、わずかに目を細めた。 「久しぶりだね、ヴァルヴァラド」 「……そうですね。探してたんですけど」 「それは嬉しい言葉だ。私も、君を探していた」 バキットは穏やかに微笑んだ。まるで旧友との再会を喜んでいるような表情だった。 ヴァルヴァラドは立ち上がった。身長差のせいで、彼を見上げる形になる。けれど、彼女の態度に怯えはなかった。 「探してた理由は、聞かなくても分かります」 「ほう。では、君の考えを聞かせてもらおうか」 「私の右腕を切ったこと。あれの続きでしょう」 バキットの笑みが、少しだけ深くなる。 「実に正確だ。もっとも、私は続きというより……再会を望んでいたのだがね」 「吸血鬼が、狩人と再会して何をするんですか」 「話をする。食事を共にする。街を歩く。そういったことだよ」 「随分と普通ですね」 「長く生きていると、普通のことがいちばん贅沢になるものさ」 その言葉に、ヴァルヴァラドはしばらく返事をしなかった。 雨だれが、教会の屋根から一定の間隔で落ちている。遠くでは、酔客の笑い声がかすかに聞こえた。 「……私は、そんなに長く生きてませんから」 「だが、君は同年代の誰より多くを見ている」 「見たくて見たわけじゃないです」 「それでも、見てきた」 バキットの声は静かだった。からかう様子も、哀れむ様子もない。ただ事実を述べているだけだった。 ヴァルヴァラドは義手の手袋を外し、指先を見つめた。医者が作った特注品。道具であり、武器であり、彼女が失った右腕の代わりでもある。 「これを作った医者は、あなたのことを知ってました」 「私を?」 「ええ。私が右腕を失った原因も、相手が誰なのかも。黙って作ってくれました」 「優しい人だね」 「優しいというより、変わった人です。私の義手を見て、最初に言ったのが『面白い構造だ』でしたから」 ヴァルヴァラドはわずかに口元を緩めた。 「でも、助かってます。これがなかったら、今の私はありません」 「君は、いつもそうやって自分を支えてきたのだろうね」 「別に。支えるものが他になかっただけです」 淡々とした言葉だった。 けれど、バキットはその奥にあるものを聞き逃さなかった。スラムでひとり生きてきた少女が、誰かに頼ることもできず、何でも屋として日銭を稼ぎ、吸血鬼を狩り続けてきた。その道のりが、簡単なものだったはずがない。 「君は、私を恨んでいるかい?」 「恨んでますよ」 即答だった。 「それはよかった」 「……よかった?」 「恨みというのは、相手を強く覚えているということでもある。忘れられるよりは、ずっと好ましい」 「吸血鬼の考え方は分かりませんね」 「私にも、人間の考え方は分からないさ。長く生きていると、どちらの側にも完全には馴染めなくなる」 バキットは廃教会の入り口へ視線を移した。 「中へ入らないかい。雨は止んだが、地面は冷えている」 「あなたがたむろしてそうな場所に?」 「私が教会に住みつく趣味でもあると思うかね?」 「似合いはします」 「それは光栄だ」 あまりに自然に返され、ヴァルヴァラドは小さく息を吐いた。呆れたようにも、諦めたようにも見える。 「始めますかね」 「何をだい?」 「話を。あなたがわざわざ私を探してきた理由を」 「すでに話しているではないか」 「まだ肝心なところを聞いてません」 バキットは彼女の横を通り、教会の中へ歩いていった。ヴァルヴァラドも少し間を置いて続く。 廃教会の内部には、壊れた長椅子が並んでいた。祭壇は半ば崩れ、古い布が埃をかぶっている。天井には大きな穴が空いており、そこから月が見えた。 バキットは比較的きれいな長椅子を選んで腰を下ろした。 「君に聞きたいことがある」 「どうぞ」 「君は、私との決着がついたら、その後はどうするつもりだい?」 ヴァルヴァラドは立ったまま、彼を見下ろした。 「考えてません」 「考えていない?」 「ええ。バキットを探して、見つけて、決着をつける。それだけです。その後のことは、その時に考えればいい」 「それは、少し寂しい生き方だね」 「そうですか」 「君は、自分の人生を一つの目的に預けすぎている」 「あなたに言われたくはないですね。七百年以上も生きて、ずっと狩人を返り討ちにしてきた吸血鬼に」 バキットは苦笑した。 「耳が痛い。だが、私は狩人を殺してはいない」 「それが何ですか」 「命を奪うことが好きではないのでね。勝負がつけば、皆、逃がしてきた」 「それで、みんなあなたを許したと?」 「まさか。恨まれたし、再び挑まれた者もいる。だが、それでいいのだよ」 「変ですね」 「よく言われる」 ヴァルヴァラドは空いた長椅子に腰を下ろした。彼との距離は、腕を伸ばしても届かないほど離れている。 「命を奪うのが嫌いなのに、狩人を返り討ちにする」 「自分の命を守ることまで嫌っているわけではないからね」 「都合がいい」 「そうだとも。生き物は皆、どこか都合よくできている」 バキットはそう言って、彼女の義手を見た。 「それにしても、素晴らしい義手だね」 「武器が仕込まれてるだけです」 「君らしい」 「褒めてます?」 「もちろん」 「なら、受け取っておきます」 ヴァルヴァラドは義手の手袋を戻した。 「あなたの翼は?」 「右翼かい?」 「ええ。あの時、私が切り落とした」 「もう飛べないよ」 「不便でしょう」 「最初はね。今は地面を歩くのも悪くないと思っている。空にいると、見えすぎるから」 「見えすぎる?」 「人の営みがね。遠くから眺めていると、すべてが小さく見えてしまう。地上にいると、誰かの声や表情を近くで感じられる」 「あなたは、そんなことを考えながら歩いてるんですか」 「いつもではないさ。私もそれほど暇ではない」 「暇そうに見えますけど」 「君と話す時間を作る程度には、暇だったのだろうね」 ヴァルヴァラドは目を細めた。 「そういう言い方をするから、狩人に妙な誤解をされるんですよ」 「誤解ではないかもしれない」 「何がです?」 バキットは、わずかに身を乗り出した。赤い眼が月明かりを受け、静かな熱を帯びる。 「私は君に好意を抱いている」 廃教会の中に、雨だれの音だけが残った。 ヴァルヴァラドは瞬きを一度した。それから、いかにも面倒そうに眉を下げた。 「……困りますね」 「困るのかい?」 「吸血鬼に好かれても、仕事が増えるだけです」 「私は君を食べたいとは言っていないよ」 「好物がAB型だと聞いてます」 「それはそれ、これはこれだ」 「都合がいい」 「先ほど君が言った通りだね」 ヴァルヴァラドは立ち上がった。窓の外を見れば、雲の切れ間から月がさらに明るくなっている。 「私は、あなたを倒すために探してました」 「分かっている」 「あなたに好意を持つつもりはありません」 「それも、分かっている」 「それでも、私を探すんですか」 「それでもだよ」 あまりにも迷いのない返答だった。 ヴァルヴァラドはしばらく彼を見つめた。バキットは余裕のある微笑みを浮かべている。けれど、その目には、長い年月の中で初めて見つけたものを手放したくない者の色があった。 「……面倒な人ですね」 「吸血鬼だよ」 「同じことでしょう」 彼女は出口へ向かう。 「もう行くのかい?」 「仕事があります。朝までに届ける荷物があるので」 「君は、実に君らしいね」 「あなたは、私らしさを知ったつもりにならないでください」 「では、これから知っていくことにしよう」 ヴァルヴァラドは足を止めた。 「次に会った時、決着をつけます」 「始めようか、と言うのかい?」 「そのつもりです」 「楽しみにしているよ」 彼女は振り返らなかった。ただ、右の義手を軽く持ち上げ、指先を一度だけ鳴らした。 「はい終わり」 そう言い残し、ヴァルヴァラドは夜の通りへ消えていった。 バキットは廃教会にひとり残り、彼女の足音が遠ざかるのを聞いていた。 やがて音が完全に途切れると、彼は静かに立ち上がる。 「まったく……実に魅力的な人だ」 その声には、隠しきれない愉悦があった。 一方、教会から離れたヴァルヴァラドは、濡れた石畳を歩きながら、先ほどの会話を思い返していた。 好意を抱いている。 あの男は、確かにそう言った。 「……余計なことを」 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。 彼女は義手を見下ろす。そこには、失ったものと、生き延びてきた時間が詰まっている。バキットへの恨みも、決着への執着も、簡単に消えるものではない。 それでも、今夜の彼は、ただの討つべき吸血鬼とは少し違って見えた。 そのことが、ヴァルヴァラドには気に入らなかった。 「……バキット・バット。やっぱり、面倒ですね」 彼女はそう呟き、歩みを速めた。 互いに対する印象は、まだ交わらない。 ヴァルヴァラドにとって、バキットは自分の右腕を奪った、余裕がありすぎて腹立たしい吸血鬼だった。けれど同時に、命を奪わず、長い年月を生きながらも他者の痛みを見落とさない、理解しがたい存在でもある。 バキットにとって、ヴァルヴァラドは自らの翼を奪った唯一の狩人であり、何よりも強い意志を抱えながら、それを誇示しようとはしない、目を離せない女性だった。冷たく見えて、その実、誰よりも生きることに執着している。その不器用さこそが、彼にはひどく好ましく思えた。 夜の街の別々の場所で、二人は同じ相手を思い浮かべていた。 次に会った時、何が始まり、何が終わるのか。 その答えだけは、まだ月明かりの届かない場所に沈んでいた。