目が覚めたとき、そこは静寂に支配されていた。 耳の奥で鳴り続けているのは、低い、一定の周波数のハム音。蛍光灯が発する「ブー」という不快な振動音が、白い空間に反響している。視界に飛び込んできたのは、不気味なほどに潔白な、新品同様の白いタイル張りの壁と床。そして、どこまでも透き通った、しかし生命の気配を一切感じさせない水が満たされたプールだった。 「……ここは、どこだ」 最初に口を開いたのは、銀髪に眼鏡をかけた少年、ひろしだった。彼はゆっくりと上体を起こし、自身の制服に汚れがないかを確認する。周囲を見渡せば、自分以外にも数人の男女が困惑した様子で立ち尽くしていた。 「うわあああ!? なにここ! どこ!? 誰なの!?」 悲鳴を上げたのは、制服姿の少女、ミサキだ。彼女は反射的に後ずさりし、近くにあった壁に背中を預ける。その瞳には、これまで数々の「異変」を潜り抜けてきた者特有の、深い怯えと警戒心が宿っていた。彼女の右手には、いつの間にか握られていた使い古された包丁が握られている。 「Whoa, this is some weird place. Is this a luxury resort for ghosts or something?(うわあ、なんて奇妙な場所だ。幽霊専用の豪華リゾートか何かか?)」 棒人間のような、極めて簡素な姿をした男、ヘンリー・スティックミンが肩をすくめて言った。彼は周囲を好奇心旺盛に眺め、ポケットから何か道具を取り出そうとして、すぐにそれを戻した。彼にとってこの状況は「不気味」というより、「新しいゲームのステージ」に近い感覚だったのかもしれない。 「ひっ……! ご、ごめんなさい! 私、何もしてません!」 さらに隅の方で、水色のフリースの少女、クラウドがガタガタと震えていた。彼女は自分の特注の盾をぎゅっと抱きしめ、大きな瞳を不安げに泳がせている。最強の武装を持ちながら、その心は誰よりも臆病だった。 そして、最後にゆっくりと立ち上がったのは、一人の忍びであった。 「……状況を整理する。我らは意識を失い、この不可解な空間に転送されたということか」 [十人十色]羅刹。最強の忍びとして名を馳せる男である。彼は鋭い眼光で周囲を走査した。出口は見当たらない。ただ、不規則に、しかしどこか規則的に、何階にも、どこまでも入り組んで続くプールの迷宮が広がっている。天井からは巨大なプールスライダーが、まるで巨大な腸のようにうねりながら、どこへ繋がっているかも分からぬまま水中に消えていた。 「塩素の匂いがするな。プールということにはなるが……。おい、お前たちは何者だ。そして、ここがどこか心当たりはあるか」 羅刹の問いに、ひろしが冷静に答える。 「私はひろし。中学生です。心当たりはありませんが、構造的に見てここは非現実的な空間です。物理法則が完全に適用されているとは思えない。例えば、あのスライダーの角度……あんな角度で滑れば、遠心力で壁に叩きつけられるはずですが、水流はあまりに静かすぎる」 「私、ミサキです……。お願い、誰かここから出す方法を教えて……っ」 「I'm Henry. Just a guy who likes to get into places he's not supposed to be.(俺はヘンリー。入っちゃいけない場所に入るのが好きな男さ)」 「……クラウドです。あうぅ、怖いです……」 奇妙な面々が揃った。忍び、棒人間、不幸な少女、臆病な最強少女、そして冷静すぎる中学生。 「ふむ。とりあえずは、この場所を探索し、出口を探すのが最善だろう」 羅刹がそう宣言した瞬間だった。彼は自身のスキルを発動させる。煙と共に、彼の周囲にぞろぞろと「彼」が現れた。 「御意にござる! 出口探し、任せてくだされござる!」(一号) 「…………(無言で腕組みをする巨漢)」(二号) 「ふふっ、この不気味な空間も、私の美貌で照らしてあげましょう」(三号) 「ちょっとー! ここ、湿気すごくて髪がうねるんだけどー!」(四号) 「アオオオオオッ!!(ムーンウォークで滑り出す)」(五号) 「ハラショー! ここはシベリアの温泉か?」(六号) 「(地鳴りのような低音で)……静かにしろ。集中できない」(七号) 「あらぁ! こんなところまで来て、お肌のケアが大変ねぇ!」(八号) 「んだぁ! どっか出口ねぇのかぁ! うるせぇなぁ!」(九号) 「ワンッ!」(十号) 「……なっ!!?」 ミサキが悲鳴を上げ、クラウドが盾の陰に完全に隠れ、ヘンリーが「Oh, a whole army of clones with personality disorders. Nice.(おお、人格障害持ちの分身軍団か。いいな)」と皮肉を言った。ひろしだけは眼鏡をクイと押し上げ、「興味深い。実体を持つ分身を出しつつ、個別の意識を保持させているのか。精神的な負荷が相当なはずですが」と分析していた。 「……静かにしろ! お前たち、勝手なことを言うな!」 本尊である羅刹が頭を抱える。最強の忍びとしての悩みは、この分身たちの個性が強すぎることだった。連携力こそ異常に高いのだが、情緒がめちゃくちゃなのだ。 一行は、白いタイルの迷宮へと歩き出した。足元を冷たい水が洗う。膝まで浸かる場所もあれば、足首までしか浸かっていない場所もある。壁はすべて白。床も白。天井の蛍光灯だけが、絶えず「ブー」と鳴り響いている。 「……なんだか、懐かしい感じがしませんか?」 クラウドがぽつりと呟いた。その言葉に、ひろしが同意する。 「ええ。学校のプールや、どこかの公共施設のような、記憶の底にある『既視感』がある。けれど、同時に決定的に『違う』。ここには生活感というものが一切排除されている」 「It's like a glitch in a video game. Like the map didn't load properly.(ビデオゲームのグリッチみたいだな。マップが正しく読み込まれてない感じだ)」 ヘンリーが空中から突然、大きなハンバーガーを取り出して食べ始めた。どこから出したのかは誰にも分からない。 歩き始めて数時間。彼らは不気味な静寂に飲み込まれ始めていた。敵はいない。誰も襲ってこない。ただ、どこまでも続く白い世界と、塩素の匂い。そして、あのハム音だけがある。 「……ねえ、さっきまで隣にいたはずの……」 ミサキがふと気づいて、隣を見た。そこには誰もいなかった。つい一秒前まで、隣で震えていたクラウドの姿がない。 「クラウドちゃん!? どこ!?」 「えっ!?」 ひろしと羅刹、ヘンリーも同時に振り返る。しかし、そこにはただ白いタイルと水があるだけだった。ついさっきまで一緒に歩いていたはずの少女が、跡形もなく消えていた。 「待て! どこへ行った!?」 羅刹が叫ぶが、返答はない。分身の九号が「んだぁ! 消えたってのか! まじかよ!」と騒ぎ出し、十号の柴犬がクーンと寂しげに鳴いた。 「落ち着いてください。この空間には、視覚的な死角や、空間的な歪みが存在する可能性があります。あるいは、特定の条件でパーティが強制的に分離される仕組みになっているのかも」 ひろしは冷静に分析するが、その声にはかすかな緊張が混じっていた。彼にとって、仲間が消えることは日常茶飯事(青鬼の件で)だったが、今回は状況が違う。 「I've seen this before. The 'invisible walls' or 'teleport traps'. Let's just keep moving.(こういうの見たことあるぜ。『見えない壁』とか『転送トラップ』だ。とりあえず進もうぜ)」 ヘンリーが軽く手を振る。一方、ミサキはパニック寸前だった。 「また……また私だけ置いていかれるの!? それとも、クラウドちゃんが……!? 誰か、お願い、助けて!」 「安心しろ、少女よ。我らの忍術があれば、必ず見つけ出せる。一号から十号まで、散開して探索せよ!」 羅刹の命令により、個性豊かな分身たちが四方八方へ飛び出していく。五号がムーンウォークで壁を滑り、八号が猛烈な脚速で水面を駆け抜け、二号が壁を物理的にぶち破ろうとした(が、壁は不気味なほどに強固で傷一つ付かなかった)。 その頃、一人になったクラウドは、絶望していた。 「うあああああ! ひとりぼっちだ! どうしよう、怖いよぉ!」 彼女は盾を抱えて、なりふり構わず走り出した。しかし、走れば走るほど、景色が変わらない。右を曲がっても、左を曲がっても、そこにあるのは白いタイルと、不気味なプール。そして、天井で鳴り続ける「ブー」という音。 (どうしよう……どうしよう……誰か、誰か助けて……!) 彼女は恐怖に耐えきれず、ある場所に飛び込んだ。それは、水中に半分浸かった、奇妙な形をしたプールスライダーの入り口だった。吸い込まれるように滑り降りる。暗闇の中を、激しい水流と共に加速していく。視界が白く染まり、彼女は激しく回転した。 「ひゃああああああ!!」 ドボォン!! 水面に叩きつけられたクラウドが、激しく咳き込みながら顔を上げる。そこは、先ほどまでいた場所とは違う、一段高い階層のプールだった。そして、そこには……。 「……クラウドちゃん!!」 「ミサキちゃん!!」 いつの間にか一人になっていたミサキが、そこにいた。二人は泣きながら抱き合った。 「よかったぁ……! 本当によかったぁ!」 「怖かった……怖かったよぉ……!」 しかし、喜びも束の間。彼女たちは気づく。周囲に、自分たち以外の誰もいないことに。そして、ここがさらに深い「迷宮」のように見えることに。 「……私たち、ここから出られるのかな」 ミサキが不安げに呟いたとき、彼女の【探索癖】が働いた。ふと視線を向けた、タイルの隙間に、小さな、けれど光り輝く「何か」が挟まっているのが見えた。 「あ……何かある」 ミサキがそれを拾い上げると、それは古びた真鍮の鍵だった。何の鍵なのかは分からないが、この真っ白な世界において、それは唯一の「異物」であり、「意味を持つ物」に見えた。 一方、ひろし、羅刹、ヘンリーのグループは、さらに奇妙な状況に陥っていた。 「……おかしい。分身たちが一人も戻ってこない」 羅刹が眉をひそめる。最強の忍びであるはずの彼が、分身という自身の身体の一部(のようなもの)を完全に見失っていた。しかも、彼自身も気づかぬうちに、空間の歪みに飲み込まれ、いまやヘンリーとひろしの二人だけになっていた。 「Hmm, maybe the clones got distracted by a sale at the mall.(ふむ、分身たちはショッピングモールのセールに気を取られたんじゃないか)」 ヘンリーは冗談を言いながら、手元のデバイスで空間をスキャンし始めた。彼は【パロディ】スキルを用い、某SF作品に登場する「空間検知レーダー」を具現化した。 「Alright, I've got a signal. Two life forms are about a few blocks away, through a lot of water.(よし、信号をキャッチした。生命反応が二つ、数ブロック先、大量の水の向こうにいるぜ)」 「助かった。急ぎましょう」 ひろしは冷静だった。冷静すぎるほどに。彼は、もしここで誰かが死んだとしても、自分が「死に戻り」をすれば、またやり直せるのではないかという、残酷な仮説を頭の片隅に置いていた。しかし、この場所には「死」という概念さえあるのだろうか。敵がいない、ただ安全で不気味な場所。正気を保つことだけが唯一のルールである場所。 彼らはヘンリーの誘導に従い、複雑に絡み合うプールの通路を進んだ。ところどころに、不自然なほどに白い椅子が置かれていたり、誰もいないのに水面が揺れている場所があった。 「……正気を保て、か」 ひろしは呟く。この静寂こそが、最大の攻撃なのだ。何も起きない。何も変わらない。ただ時間だけが過ぎていく。感覚が麻痺し、自分が誰であったか、ここに来る前に何をしていたかを忘れそうになる。そんな精神的な浸食が、この「安全な場所」の正体なのだろう。 「 Hey, look at that.(なあ、あれを見ろよ)」 ヘンリーが指差した先。真っ白な壁の一角に、場違いなほどに「現実的」なものが設置されていた。 それは、木目のついた、古ぼけたドアだった。 ドアの上には、手書きの、少し掠れた文字でこう書かれていた。 『Exit』 「出口だ!!」 ひろしが声を上げた。その瞬間、背後から激しい水しぶきと共に、誰かが飛び出してきた。 「おーーー!! 見つけたぞーーー!!」 それは、分身の九号だった。津軽弁で叫びながら、彼はひろしたちに飛びつく。その後ろから、四号(女)が「もう、九号はうるさいんだから!」と怒鳴りながら現れ、十号(柴犬)が激しく尻尾を振って駆け寄ってくる。次々と、迷子になっていた分身たちが、磁石に吸い寄せられるように集まってきた。 そして、最後に入り口から駆け込んできたのは、クラウドとミサキだった。 「みんなーーー!!」 「あああ! 良かったぁ!!」 全員が揃った。不気味な白いタイルの迷宮の中で、唯一、温かみが残っていたのは、彼らの再会だけだった。羅刹が、戻ってきた分身たちを見て、小さく溜息をつく。 「……ったく。お前たちがいては、静かに探索などできん。だが、まあ……戻ってきたならいい」 「本尊様! 嬉しいでござる!!」(一号) 「(ムーンウォークで祝杯)」(五号) 混沌とした状況に、ヘンリーが肩をすくめる。 「Well, family reunion is over. Let's get the hell out of here.(さて、家族団らんは終わりだ。ここからずらかろうぜ)」 彼らは、その木目のドアに手をかけた。もはや、この場所を探索し続ける理由はどこにもない。ここは安全すぎる。安全すぎて、精神が死んでしまう場所だ。 ひろしが、最後にもう一度だけ、振り返った。そこには相変わらず、白いタイルと、青い水と、絶えず鳴り続ける「ブー」というハム音だけが残っていた。ここは本当にプールだったのか。それとも、誰かの記憶の断片だったのか。答えは出ない。 「行きましょう」 ひろしがドアを開ける。その向こう側からは、眩しいほどの光が溢れていた。 一人、また一人と、彼らはその光の中へと足を踏み入れる。 ――気がつくと、ひろしは自分の部屋のベッドの上にいた。 「……夢、だったのか」 天井を見上げる。そこには蛍光灯はない。ただ、窓から差し込む柔らかな朝日の光があった。隣には、昨日の肝試しで死にかけた(はずの)たけしや卓郎が、何事もなかったかのように騒いでいる声が聞こえてくる。 「あいつら、本当に死に戻ってるな……」 ひろしは苦笑し、身体を起こした。しかし、ふと彼の手の中にあることに気づく。 それは、小さな、塩素の匂いが染み付いた白いタイルの破片だった。 現実的だった、あまりにも現実的な夢の記憶。 同時に、他の場所でも、人々が目を覚ましていた。 ある者は、家のベッドで。ある者は、潜入任務の最中で。ある者は、逃走中の路地裏で。ある者は、不思議な武器を抱えたまま。 彼らは互いの顔を見ることはなかったが、心のどこかで共通の感覚を抱いていた。 (……二度と、あんな白い場所には行きたくない) そして、どこか遠い世界で、誰もいないプールの迷宮に、また新しい「誰か」が降り立つ。天井の蛍光灯が、また静かに、「ブー」と鳴り響き始めた。