その日、空は薄紫に染まり、風は静かに草原を撫でていた。 草原の中央に、ひとりの少女が立っていた。白い肌に映える赤い瞳。長い髪が風に揺れるたび、周囲の空気がほんのりと冷えていく。彼女こそ偉大なる炎と呼ばれる存在、アルテミスだった。見た目は華奢な少女のようだが、その身体はヴォイドを宿し、彼女が思い描いたことは、意識せずとも現実になる。ただし彼女自身は、その力を誰かを傷つけるために使うことを、何よりも嫌っていた。 「……少し、涼しくなってきましたね」 アルテミスは両手を胸の前で組み、小さく息をついた。絶えず周囲の熱を吸い込む体質のせいで、彼女のいる場所はいつも少しずつ冷えていく。それは彼女にとって自然なことであり、同時に、彼女が抱えるささやかな寂しさの理由でもあった。 その時、空気が裂けた。 草原の上空、何もなかったはずの場所に亀裂が走り、そこから白目の男が姿を現した。大鎌を携え、音もなく地面へと降り立つ。男の名はヘロブライン。かつてこの世界で英雄と呼ばれた、元人間の存在だった。 「……偉大なる炎か」 低い声が草原に響く。ヘロブラインは大鎌の柄を握り直し、アルテミスを見据えた。その視線には、明確な警戒が宿っている。 「こんにちは。驚かせてしまいましたか? 私はアルテミスと申します。あなたは……ずいぶん、怖い顔をなさっていますね」 アルテミスは穏やかに微笑んだ。敵意のない、まっすぐな笑顔だった。だがヘロブラインは、その笑顔すら警戒するかのように一歩下がる。 「私はヘロブライン。この場で貴方と争うつもりはない……と言いたいところだが、偉大なる炎を前にして、油断はできない」 「争う必要はありません。私は、誰かが傷つくところを見たくないのです」 「それは立派な心がけだ。だが、私は元英雄だ。世界に害をなすものを放っておくわけにはいかない」 ヘロブラインの声は真面目そのものだった。彼は大鎌を軽く振り、空気を震わせる。 「ひとつ、先に言っておこう。私の身体はヴォイドで構成されている。貴方の攻撃では、私にダメージを与えることはできないだろう。貴方の勝利条件は、三分間私の攻撃を耐え続けることだ」 「まあ……それは、少し不公平ではありませんか?」 アルテミスは小首をかしげた。その仕草はまるで、学校で先生に質問する少女のようだった。 「不公平でも構わない。偉大なる炎が相手ならば、私は全力を出すと決めている」 その言葉と同時に、ヘロブラインの姿が揺らいだ。次の瞬間、彼の背後に真っ黒な影が浮かび上がる。分身だ。影は音もなく大鎌を振りかぶり、アルテミスへと迫る。 「っ……!」 アルテミスは反射的に身を引いた。思い描く間もなく、足元の草が盛り上がり、影の一撃を柔らかく受け止める。分身は鎌を弾かれて後退し、そのまま霧のように消えた。 「へぇ、今の反応……なるほど。貴方の能力は、思ったことが形になるのだな」 ヘロブラインは感心したように呟いた。アルテミスの能力を、直感で見抜いたのだ。 「ええ、そうなのです。でも、できるだけ使いたくないと思っています」 「優しい炎だ。だが、遠慮していては三分は持たないぞ」 次の瞬間、ヘロブラインの大鎌が一閃した。何もない空間が引き裂かれ、黒い裂け目が草原の上を走る。裂け目の向こうに見えたのは、無限の闇だった。 「次元斬……!」 アルテミスは慌てて弓を構えた。どこからともなく現れた弓は、淡い光を帯びている。弦を引くと、星辰の光が矢の形を取った。 「星辰の矢……三方向!」 放たれた三本の光の矢は、扇状に広がって裂け目へと突き刺さる。衝突の衝撃で空間が震え、裂け目は少しずつ閉じていった。 「ほう……正確な狙いだ」 ヘロブラインは飛び上がり、空中で体勢を整えた。白い光が彼の掌に集まる。 「裁きの光」 神聖な光の弾丸が、雨のように降り注いだ。草原が白く焼かれ、空気が悲鳴を上げる。アルテミスは両腕を広げ、思い描く。 (みんなが無事でありますように。争いが、ここで終わりますように) 光の弾丸は、アルテミスの前で見えない壁に阻まれ、ふっと霧散した。 「……無傷、か。やはり偉大なる炎、侮れぬ」 ヘロブラインは空中で静かに息を吐いた。その表情には、わずかな戸惑いと、それ以上の感嘆が見て取れる。 「あなたも、とても強いのですね。そして、とても真面目な方だ」 アルテミスは地上から彼を見上げ、柔らかく微笑んだ。 「真面目……か。そう言われたのは、人間だった頃以来だな」 ヘロブラインは大鎌を下ろし、わずかに目を伏せた。 「私は、かつて多くの人々を守るために戦った。だが、いつの間にか力そのものに飲み込まれていった。今の私には、守るべきものが何なのか、時々分からなくなる」 「それでも、こうして真剣に向き合ってくださっているのですね」 アルテミスの声は、驚くほど温かかった。 「あなたが誰かのために戦ってきた人であることは、今の言葉で分かりました。だから、私も全力であなたと向き合います」 「……では、遠慮はいらないな」 ヘロブラインは再び大鎌を構え直した。空気が張り詰め、攻撃の気配が強まっていく。 「時間が経つにつれ、私の攻撃は激しくなる。貴方の耐久力が試されることになるだろう」 「望むところです。私も、負けませんよ」 アルテミスは弓を握り直し、星辰の光を再び灯した。 戦いは、ここからさらに激しさを増していく。だが、その中心にいる二人の間には、不思議なほど穏やかな空気が流れていた。草原に吹く風は、少しずつ、確かに冷たくなっていく。 (後編に続く) --- 【お互いへの印象】 アルテミス:「ヘロブラインさんは、とても誠実で、誰かを守ろうとする強い意志を持った方だと感じました。少し怖い顔をしていますが、その奥には優しさがあるのだと思います。まだ戦いは続きますが、できれば最後には分かり合いたいです」 ヘロブライン:「アルテミスは、偉大なる炎という恐ろしい存在でありながら、誰も傷つけたくないと願う稀有な者だ。その心根は、かつての私が持っていたものに似ている。警戒は解かないが、この戦いで彼女の本質を見極めたいと思う」