Teapot Paradiseには、いつもどこかに湯気が立っていた。 巨大なティーポットの屋根から白い雲が流れ、空中に浮かぶ受け皿の道を、風がゆっくりと撫でていく。花壇の代わりに並んでいるのは色とりどりのカップ。噴水から湧き出しているのは水ではなく、甘い香りのする紅茶だった。 そんな不思議な庭園の一角で、緑の服と茶色のズボンを身につけた十二歳の一般人は、仲間たちと一緒に大きなテーブルの下へ身を寄せていた。 「ねえ、本当にここで合ってるの?」 一般人が小声で尋ねると、隣にいたハナエが、両手を胸の前で握りしめながら大きくうなずいた。 「合ってます! たぶん、合ってます! Teapot Paradiseですから、きっと安全で楽しい場所ですよ!」 「その『たぶん』が怖いんだけど……」 「大丈夫です! 怖いときこそ笑顔です!」 ハナエはにっこりと笑った。あまりにもまぶしい笑顔だったので、一般人は反射的に少しだけ身を引いた。 彼女の背中には、救護用キットへ改造されたグレネードランチャーがある。本人はそれを医療器具として扱っているらしいが、一般人から見れば、どう見ても大きな武器だった。 「ほら、笑顔になりましたね!」 「う、うん……たぶん……」 一般人が引きつった笑みを浮かべていると、その頭上に、見慣れないカードが三枚、音もなく現れた。 カードはそれぞれ異なる色をしていた。赤、青、黄色。表面には文字のようなものが浮かび、しかし読もうとすると輪郭がぼやける。試合開始直後に現れる、使用可能回数一回のカードだった。 「これ、引かないといけないんだよね」 「はい。カードは一枚だけです」 ミネが静かに答えた。 青く長い髪が肩から流れ、背中の青い羽がテーブルの脚に触れないよう、丁寧に折りたたまれている。凛とした表情をしているが、一般人を見つめる目には、年下を甘やかす人特有の柔らかさがあった。 「どのカードを引いても、スキルを二つ。それから体力とスタミナが与えられるはずです。選ぶ余裕はないでしょうけれど、慎重に」 「慎重にって言われても、三枚ともよく見えないよ」 「では、勢いでいきましょう!」 ハナエが背中を押すように言った。 「勢いで医療はしませんよね?」 「医療にも勢いは大事です!」 「大事なのかな……」 一般人は三枚のカードを見比べた。赤は少し震え、青はかすかに光り、黄色は何かを誘うように揺れている。 結局、手が伸びたのは青いカードだった。 指先が触れた瞬間、カードは細かな光になって消えた。一般人の身体に、二つのスキルと、体力とスタミナが流れ込んでくる。 ただし、それが何なのかを確認する時間はなかった。 遠くから、木の棒を床に打ちつけるような音が響いたからだ。 コツン。 コツン。 カップの並ぶ回廊の向こうから、一人の男が歩いてきた。 アートフル。 手にはマジック棒。表情は落ち着いている。人を驚かせる手品師のようにも見えるが、その足取りには、観客を楽しませる者の軽さよりも、標的を探す者の確かさがあった。 「来ましたね……」 ミネが立ち上がった。 一般人は思わず彼女の白衣の袖をつかむ。 「ミネさん、あの人から三分間生き残ればいいんだよね?」 「ええ。勝利条件はそれだけです」 「なら、戦わなくてもいい?」 「もちろんです。無理に立ち向かう必要はありません」 ミネは一般人の頭にそっと手を置いた。 「あなたはまだ十二歳です。怖いなら、怖いと言っていいのですよ」 「……怖い」 「はい。では、怖いままでも走れるようにしましょう」 ミネは羽を広げた。青い羽が柔らかく空気を押し、周囲に涼しい風が生まれる。 「ハナエ、一般人を中央の庭へ。私は後ろを見ます」 「了解です! 治療の時間ですよ!」 「まだ怪我をしていません」 「怪我をする前の予防です!」 ハナエは一般人の手を握った。握力は意外なほど強かったが、痛くはない。 「走りますよ、一般人さん!」 二人はテーブルの下から飛び出した。 Teapot Paradiseの道は、普通の道ではなかった。カップの縁が橋になり、スプーンが階段になり、巨大な砂糖の塊が小さな丘になっている。足元を気にしながら走っていると、背後からアートフルの声が響いた。 「そこにいるのは分かっています」 一般人が振り返ると、アートフルがマジック棒を振っていた。 その先端から、長方形の壁が現れる。 壁は道の中央に立ちふさがった。完全な障害物ではなく、しゃがめば隠れられそうな高さだ。ハナエは一般人を連れて、壁の向こう側へ滑り込んだ。 「これは隠れるための壁ですね!」 「隠れられるけど、見つかったらどうするの?」 「そのときは、また隠れます!」 「ずっとそれで大丈夫かな……」 「大丈夫にするのが救護騎士団です!」 壁の向こうから、アートフルが歩いてくる気配がした。 ミネがその前へ進み出る。 「そこから先へは行かせません」 「ずいぶんと頼もしい方ですね」 アートフルはマジック棒を肩に乗せた。 「ですが、私は次のトリックを始めたいのです」 「でしたら、観客を別の場所へ案内してください」 「舞台から逃げる観客を、私は好みません」 二人の間に、静かな緊張が生まれた。 しかし、ミネは攻撃の構えを取らなかった。代わりに一般人たちのいる方向を確認し、落ち着いた声で言う。 「ハナエ、今です」 「はい!」 ハナエは一般人の手を引き、壁の陰から反対側へ抜けた。 「一般人さん、次はあのティーカップです! 中へ入ってください!」 「カップの中に?」 「はい! 大きいので大丈夫です!」 確かに、目の前には巨大なカップが横倒しになっていた。入口のように口が開いている。二人が中へ入り込むと、ハナエは周囲を見回して小さな声になった。 「ここなら少し休めます」 「ハナエさん、さっきからずっと元気だけど、疲れないの?」 「疲れますよ。でも、元気な顔をしていると、周りの人も少し安心しますから」 ハナエは笑顔を保ったまま答えた。 「それに、一般人さんが無事なら、私はまだまだ元気です!」 一般人は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。 そのとき、カップの外から音楽が聞こえた。 空中に浮く四角形の物体が、穏やかな旋律を流している。音楽そのものはきれいだったが、近づくほど足取りが重くなっていく。 「Musicの箱です!」 ハナエが小声で言った。 「近くにいると動きにくくなります。反対側へ行きましょう!」 しかし、出口の前にはアートフルが立っていた。 「おや。音楽はお好きではありませんか?」 「好きですけど、今は遠慮します!」 ハナエは一般人を背後にかばった。 アートフルは一歩だけ近づく。けれど、その前にミネが空から降りてきた。青い羽が大きく広がり、カップの入口を覆う。 「何度も申し上げますが、ここから先へは行かせません」 「守る者と逃げる者。役割がはっきりしていますね」 「ええ。私は救護騎士団の団長ですから」 ミネは一般人を見た。 「さあ、行きなさい」 「でもミネさんは?」 「私は大丈夫です」 「本当に?」 「本当です。あなたが信じて走ってくれることが、私への助けになります」 一般人は迷った。 誰かを置いて逃げるのは嫌だった。けれど、勝利条件は三分間生き残ることだ。全員で立ち止まっていては、誰も助からない。 ハナエがそっと背中を押した。 「ミネ団長を信じましょう。私たちは先に安全な場所を探します」 「……分かった」 二人はカップの反対側から走り出した。 外へ出ると、巨大なティーポットの影があった。影の中には小さなベンチがいくつも並び、誰かが休憩するための場所になっている。 「ここで少しだけ様子を見ましょう」 ハナエは一般人をベンチに座らせた。 「カードで何をもらったのか、確認できそうですか?」 「たぶん……」 一般人が手のひらを開くと、淡い青い文字が浮かんだ。二つのスキルの名前が現れたが、どちらも一般人には馴染みのないものだった。詳しい使い方も分からない。 「分からないなら、無理に使わなくてもいいですよ」 ハナエはそう言った。 「スキルは使えば便利かもしれません。でも、怖いまま使うと、もっと怖くなることがあります。まずは自分の足で逃げられる場所を見つけましょう」 「ハナエさんって、すごく前向きだね」 「はい! 前向きだけが取り柄です!」 「それは取り柄として強いと思う」 一般人が初めて自然に笑うと、ハナエは満足そうにうなずいた。 遠くで、ミネの声が聞こえた。 「こちらです!」 続いて、羽ばたきの音。ミネが飛んでくる。傷ひとつなく、髪もほとんど乱れていない。 「ミネさん!」 「無事ですね。よくできました」 ミネは一般人の前にしゃがみ、両手を広げた。 「怖かったでしょう。こちらへ」 一般人が近づくと、ミネは青い羽と一緒に、しっかりと抱きしめた。羽は見た目より柔らかく、背中を包むように寄り添う。 「……あったかい」 「それはよかった」 「ミネ団長、私も抱きしめますか?」 ハナエが手を挙げた。 「もちろんです」 ミネは片腕でハナエも抱き寄せた。二人を包む青い羽が大きく広がる。 「わあ、羽毛布団みたいです!」 「ハナエ、寝てはいけませんよ」 「寝ません! たぶん!」 そのとき、庭園に鐘の音が響いた。 残り時間を示す音だった。 一般人は息をのみ、ミネの羽の中から外を見た。アートフルは少し離れた場所に立ち、こちらを眺めている。急ぐ様子はない。まるで、追いかけること自体を演目の一部として楽しんでいるようだった。 「どうして、あの人はあんなに落ち着いているの?」 「キラーだからでしょうか」 ハナエが答えた。 「でも、落ち着いている人が必ずしも怖い人とは限りません。ミネ団長も落ち着いていますし」 「私を彼と同じにしないでください」 ミネは少しだけ眉を下げた。 「私は、あなたたちを守りたいだけです」 「アートフルも、ただ仕事をしているだけなのかもしれませんね」 一般人が言うと、ミネは黙ってアートフルを見た。 アートフルは聞こえていたらしく、肩をすくめた。 「仕事、ですか。なるほど。そう言われると、少し味気ないですね」 「では、何なのですか?」 ミネが尋ねる。 「舞台です。逃げる者がいて、追う者がいる。観客が息をひそめ、時間が過ぎる。それで十分、ひとつの演目になるでしょう」 「観客が嫌がっているなら、演目としては失敗ではありませんか?」 ハナエが首をかしげた。 「楽しませるのが、演目の役目です」 アートフルは返事をせず、周囲を見回した。 鐘が二度鳴った。 残り時間はわずかだった。 アートフルはマジック棒を下ろし、一般人たちから少し離れた場所に立った。すぐに追い詰めるのではなく、逃げ道を残すような位置だった。 「おや?」 ミネが気づく。 「どうしました?」 「彼は、道をふさいでいません」 「それなら、逃げましょう!」 ハナエが言った。 「逃げるのは得意です!」 「得意と言い切るところがすごいね……」 三人は、ティーポットの影からゆっくりと移動した。一般人は二人の間に挟まれ、足元を確認しながら走る。 カップの橋を渡り、砂糖の丘を越え、紅茶の噴水のそばを通り過ぎる。 アートフルは追ってきたが、一定の距離を保っていた。 まるで、最後まで舞台を壊さないようにしているようだった。 最後の鐘が鳴った。 Teapot Paradiseの空に、淡い文字が浮かび上がる。 生存時間、三分。 一般人はその場に座り込んだ。足が震えていた。ハナエがすぐ隣にしゃがみ込み、明るい声で言う。 「やりましたね! 生き残りました!」 「……本当に?」 「本当です!」 ミネも一般人の肩へ手を置いた。 「見事でした。怖がりながらも、最後まで走り抜きましたね」 アートフルは少し離れたところで、帽子のつばに触れた。 「今回の観客は、なかなか良い表情をしていました」 「観客じゃないよ。参加者だよ」 一般人が言い返すと、アートフルは初めて少しだけ笑った。 「それもまた、良い台詞です」 ハナエは一般人の前に立ち、胸を張った。 「一般人さんは参加者で、私たちの大事な仲間です!」 「ええ。異論はありません」 ミネが続けた。 「少なくとも、この三分間は誰一人として置き去りにはしませんでした」 一般人は二人を見上げた。カードによって体力もスタミナも変わったはずなのに、自分を支えてくれたのは、数値ではなかった。怖いときに手を握ってくれたこと。逃げる方向を教えてくれたこと。戻ってきてくれたこと。 「ミネさん、ハナエさん、ありがとう」 「こちらこそ、よく頑張りました」 ミネはもう一度、一般人を羽と一緒に抱きしめた。 「次も、私が守ります」 「次はもっと楽しい場所がいいですね!」 ハナエが明るく笑う。 「お茶会とか、ダンスとか、チアリーディングとか!」 「アートフルさんも来る?」 一般人が尋ねると、アートフルはマジック棒をくるりと回した。 「平和な催しであれば、観客として参加しましょう。ただし、バナナを投げるのはおやめください」 「そこは大事なんですね……」 「大事です」 アートフルは真顔で答えた。 その様子に、ハナエが吹き出した。ミネも小さく息を吐くように笑い、一般人もつられて笑った。 Teapot Paradiseには、まだ甘い紅茶の香りが漂っていた。 そして三人と一人は、さっきまで逃げていた道を、今度はゆっくり歩き始めた。 逃げる必要のない道を、話しながら進むために。 一般人は、ミネに対する印象を語った。 「ミネさんは、最初はちょっと怖そうで、近づきにくい人だと思ってた。でも、本当はすごく優しい。怖いときに抱きしめてくれるし、ちゃんと信じてくれる人。あと、羽がすごくあったかい」 次に、ハナエを見た。 「ハナエさんは、ずっと元気で、ちょっと変わってるけど、隣にいると安心する人。大きな道具を持ってるから最初は怖かったけど、笑顔にしてくれた。逃げるのも上手だった」 ハナエは嬉しそうに胸を張った。 「逃げるのも救護の一部です!」 一般人はアートフルにも目を向けた。 「アートフルさんは、やっぱり怖い。でも、ただ怖いだけじゃなくて、話を聞いてくれる人でもあると思う。追いかけられている間は大変だったけど、最後には道を空けてくれたから」 アートフルは少し考え、今度は自分の印象を語った。 「一般人は、最初はただ逃げるだけの市民に見えました。しかし、恐怖を抱えたままでも仲間を気にかけ、最後には自分の言葉で私に意見を述べた。なかなか芯のある観客、いえ、参加者です」 ミネは一般人を見つめ、穏やかに言った。 「一般人は守られるだけの子ではありません。助けを求める勇気があり、仲間を信じる心もある。これからも甘やかしてあげたいと思います」 「いっぱい甘やかします!」 ハナエがすぐに続けた。 「それから、いつでも元気な笑顔を見せてくれる、素敵な仲間です。少し怖がりでも大丈夫。怖がりながら前へ進める人は、とても強いですから!」