昼とも夜ともつかない巨大な裏市場――天井を覆う鉄骨の隙間から、赤い照明と青白い魔導灯が交互に明滅していた。違法な呪具、禁制の薬、異界産の鉱石、檻に入れられた怪物。情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが値札を睨み、怪しい商人たちが客の懐を探っている。 その雑踏を、金髪の青年が歩いていた。 黒いジャケットに青のジーンズ。気さくそうな笑みを浮かべているが、目の奥には自分の力への絶対的な自信があった。古代恐牙。特級術師と呼ばれる男だ。 彼が足を止めたのは、半地下の競売場へ続く階段の前だった。 そこには、白髪を後ろへ撫でつけ、赤い戦闘服を着た男が立っていた。周囲の客たちは、その男を避けている。理由は単純だった。男が放つ殺気が、空気そのものを冷たくしていたからだ。 堕落皇レグルス。 彼の手には、黄金の槍があった。まだ何もしていないのに、槍の穂先の向こう側の景色だけがわずかに歪んでいる。空間を切り裂く武器。裏市場の住人なら、誰もがその危険性を知っていた。 恐牙は、競売場の看板を見上げた。 「へえ。ここで売られてるのか。『白亜王の心臓』ってやつ」 「貴様には関係ない」 レグルスは即答した。 「そうか? 俺が先に目をつけたんだけどな」 「ならば、失せろ」 恐牙は肩をすくめた。 「随分と偉そうだな。順番を譲ってほしいなら、せめて頼み方ってものがあるだろ」 その瞬間、レグルスの目がわずかに細くなった。 競売場の入口には、白い骨のような鉱物を封じた黒いケースが置かれていた。恐牙がそれを見た瞬間、レグルスは察していた。恐牙の術式が、無機物にさえ触れて力を及ぼすことを。 もしあれを恐牙に取られれば、面倒なことになる。 「その品は、貴様が扱える代物ではない」 「扱えるかどうかを決めるのは、商人と俺だ。お前じゃない」 「人類は、力を持つ者が力を振るえば救われると思い込んでいる。だが現実は逆だ。欲望を持つ者が力を得れば、腐る」 レグルスは黄金の槍をゆっくりと持ち上げた。 「もう人類は救う価値がないんだ。お前も諦めろ」 雑踏が一斉に静まった。 恐牙の笑みが消える。 「……今、俺に諦めろって言ったか?」 「そう言った」 「俺が望む未来の邪魔をするなら――」 恐牙の右腕が膨れ上がった。肩から先が黒褐色の鱗に覆われ、指先は巨大な鉤爪へ変わる。口元には、肉食恐竜の牙を思わせる呪力の輪郭が浮かんだ。 「躾してやるよ」 先に売ったのは恐牙だった。 彼は地面を蹴った。ラプトルの脚が青いジーンズの内側からせり出すように形を変え、爆発的な加速を生む。屋台と屋台の間、ほんの一人分の隙間を滑るように進み、恐牙はレグルスの懐へ入った。 だが、レグルスは振り返りすらしなかった。 黄金の槍が横薙ぎに振られる。 空間が切断された。 屋台の柱、吊り下げられた鉄鎖、路地の壁。そのすべてが斜めにずれ、切断面を晒した。恐牙は身を沈めたが、左肩のジャケットが裂け、血が飛ぶ。 「勘がいいな」 「殺気を隠せぬ者が、速度だけで私に届くと思うな」 レグルスが槍を突き出した。 穂先は途中で消え、恐牙の脇腹の前に現れた。防御を無視し、空間ごと穿つ一撃。 恐牙は咄嗟に、横にあった鉄製の看板へ触れた。 「白亜戦紀――拡張」 看板が震え、表面に鱗が走る。次の瞬間、看板は巨大なアンキロサウルスへ変貌した。金属の尾を振り回し、槍の軌道へ割り込む。 空間を貫く槍は怪物の胴を突き抜けたが、その一瞬で恐牙は逃れていた。 「無機物なら、触れたものを恐竜に変えられる。市場ってのは便利だな」 変貌したアンキロサウルスが暴れ、屋台を薙ぎ倒した。香辛料、違法な火薬、青く発光する液体が通路にぶちまけられる。観客が悲鳴を上げ、商人たちが商品を抱えて逃げ出した。 レグルスは眉一つ動かさず、空中へ手を掲げた。 異空間が開く。 そこから無数の武器が落ちてきた。剣、斧、杭、鎖、黒い弓矢。まるで空が武器庫になったかのようだった。 「持て余した堕落之罪宝」 武器の雨が市場を叩いた。 恐牙はラプトルの脚で駆け、屋台の屋根を踏み、看板を盾代わりにし、降り注ぐ刃の隙間を縫った。飛んできた短剣を右腕の爪で弾き、鎖を恐竜化させて巨大な首長竜へ変え、武器の雨を絡め取る。 しかし、レグルスが指を動かすと、拘束された武器群が一斉に爆発的な速度で回転した。首長竜の胴が切り刻まれ、細かな鉄片へ戻っていく。 「小細工で権能を止められると思うな」 「小細工じゃない。準備だよ」 恐牙は笑った。 彼が逃げ回っていたのは、単に避けていたからではない。触れた屋台、鎖、看板、樽、鉄骨。市場のあちこちに、術式の痕跡を残していた。 恐牙が指を鳴らす。 瓦礫が一斉に震えた。 屋台の木材が翼竜へ、鉄骨が巨大な骨格恐竜へ、樽が装甲を持つ草食恐竜へ変わっていく。市場の一角が、即席の白亜紀へ塗り替えられた。 「死層恐群!」 十数体の恐竜が、レグルスを取り囲む。 観客の一部は逃げたが、命知らずの情報屋や賭博師は距離を取りながら戦いを見守っていた。中には勝敗に金を賭ける者までいる。 レグルスは恐竜の群れを見回した。 「物を生き物に変えた程度で、私を囲んだつもりか」 「囲んだんじゃない。逃げ道を選ばせてるんだよ」 恐竜たちが一斉に襲いかかった。 レグルスは黄金の槍を回転させた。空間が円形に切り裂かれ、最前列の恐竜がまとめて両断される。だが、切断された恐竜の残骸はすぐに崩れ、床に散らばった金属片となった。 その金属片の一つが、レグルスの足元で跳ねた。 恐牙はそこに触れていた。 金属片が小型の恐竜へ変わり、レグルスの足首に噛みつく。 ほんの一瞬、彼の動きが止まった。 その隙に恐牙が突進する。 右腕がティラノサウルスの顎へ変わった。巨大な牙が開き、呪力を帯びて軋む。 レグルスは槍を横に構えた。噛みつきと同時に空間を切断するつもりだった。 しかし恐牙は噛みつかなかった。 顎を閉じる寸前、足を止め、左腕をトリケラトプスの角へ変化させて地面を突いた。角は床を貫き、恐牙の体を反転させる。攻撃を誘っていたのだ。 背後へ回った恐牙の脚が、ラプトルの爪へ変わる。 レグルスの背中へ斬撃が走った。 赤い戦闘服が裂ける。 だが、レグルスは倒れなかった。 「浅い」 振り向きざま、槍の柄が恐牙の胸を打つ。恐牙は屋台を三つ突き破り、薬品の瓶が雨のように降った。 そのときだった。 市場の奥から、低い鐘の音が鳴った。 次の瞬間、入口という入口から客が流れ込んできた。 ランダムイベント――裏市場に大量の客が集まり、戦場が狭くなったのだ。 表通りで大規模な封鎖が始まったらしく、逃げ場を求めた密輸業者や傭兵、観光まがいの野次馬までが市場へ雪崩れ込んできた。人の波が通路を埋め、戦場は一気に狭くなる。 「おいおい、観客が増えたな!」 恐牙が口元の血を拭う。 「その中で戦うか。人間を巻き込むぞ」 「お前が心配することかよ。人類は救う価値がないんだろ?」 レグルスの殺気が、初めて明確な怒りを帯びた。 「言葉尻を取るな」 「取られたくないなら、最初から偉そうに説教するな!」 レグルスが手を広げる。 異空間から現れた武器が、今度は周囲の客を避けるような軌道を取った。無差別ではない。槍や刃は、人の隙間を縫って恐牙だけを狙ってくる。 恐牙はそれを見て、わずかに目を見開いた。 「なんだよ。人類に価値がない割には、丁寧に避けるじゃねえか」 「私の攻撃を貴様のために制御しているだけだ」 「へえ。まだ英雄の真似事が残ってるんだな」 その言葉が、レグルスの逆鱗に触れた。 武器の速度が跳ね上がる。 恐牙は屋台の隙間を抜け、客の肩を踏み台にし、天井から垂れた鎖へ飛びついた。鎖を恐竜化させると、巨大な翼竜が現れ、恐牙を背に乗せて上空へ運ぶ。 レグルスが槍を投擲した。 黄金の槍は翼竜を避け、空間そのものを折り曲げて恐牙の背後へ出現する。 恐牙は振り向かず、翼竜の翼を片方だけ恐竜化解除した。 翼竜が崩れ、恐牙の体が落下する。槍は背中の上を通り過ぎ、天井を貫いた。 落下しながら、恐牙は市場中央の巨大な水槽へ手を伸ばした。 指先がガラスに触れる。 「死層恐群――深度変更」 水槽が巨大な海棲恐竜へ変わった。満たされていた水ごと形を変え、長大な首と顎を持つ怪物が床を這う。周囲の客が一斉に押し倒され、悲鳴が飛び交う。 恐牙はその首を足場にし、レグルスへ急降下した。 レグルスは武器の雨を集中させた。数百の刃が一点へ向かい、恐牙を空中で串刺しにする。 恐牙は両腕を広げた。 胸部から背中にかけて、巨大な恐竜の肋骨のような装甲が展開する。刃は何本も突き刺さったが、致命傷には届かない。 「まだだ!」 恐牙の右腕がティラノの顎となり、左腕がトリケラトプスの角となる。顎で飛来する武器を噛み砕き、角で空間の切断線を受け流す。さらにラプトルの脚で空中を蹴るように方向転換し、レグルスの眼前へ迫った。 恐牙の拳が黒く光った。 「黒閃!」 呪力と打撃の誤差が極限まで重なり、黒い閃光が市場を染めた。威力は通常の二・五乗。拳はレグルスの防御を打ち砕き、彼を地面へ叩きつけた。 衝撃で床が陥没する。 だが、レグルスは落下の途中で槍を突き、空間を固定した。槍を軸に宙へ立ち、瓦礫の中から恐牙を睨む。 口元から血が流れていた。 「……なるほど。お前は、力を誇示するだけの獣ではないらしい」 「褒めても何も出ないぞ」 「ならば、獣らしく死ね」 レグルスが両手を広げた。 異空間が市場全体を覆うほど拡大する。 数え切れない武器が空へ並んだ。剣も槍も杭も、すべてが恐牙へ向けられている。発射されれば、周囲の客も建物もまとめて消し飛ぶ。 恐牙は周囲を見た。 逃げ遅れた客。崩れかけた屋台。恐竜化した瓦礫。床に広がる薬品。天井の裂け目。そして、レグルスの槍が突き刺さった支柱。 恐牙は不敵に笑った。 「それを撃ったら、市場ごと潰れるぞ」 「承知している」 「お前、本当に人類を見捨てたんだな」 「そうだ」 「なら、俺が守るしかねえな」 恐牙は床へ手をついた。 今まで触れたすべての無機物が、同時に恐竜へ変わった。屋台の柱は巨大な竜脚類となり、鉄鎖は翼竜の群れとなり、床に散った武器は鎧を持つ獣へ変わる。さらに、レグルスの槍が固定していた支柱へ指を伸ばした。 触れた瞬間、支柱は巨大な骨格恐竜へ変貌した。 空間を固定していた槍が抜け、レグルスの足場が崩れる。 同時に、恐牙は屋台の残骸を巨大な甲羅竜へ変え、客たちを覆う防壁にした。発射された武器の雨が甲羅へ突き刺さり、次々と跳ね返る。完全には防げないが、直撃を散らし、被害を抑えた。 「そんな余裕があるか!」 レグルスが怒鳴った。 「余裕じゃねえ。意地だよ!」 恐牙は自分の腕を再び変化させた。 右腕にティラノの顎。左腕にトリケラトプスの角。両脚にラプトルの筋力。背には翼竜の翼。全身を恐竜の性質で武装する。 だが、それだけでは終わらない。 恐牙は市場の奥、黒いケースへ走った。白亜王の心臓。その封印容器へ触れる。 容器は巨大な卵状の恐竜へ変わった。 卵の内部で凝縮されていた呪力が、孵化のように噴き出す。恐牙はそれを自分の胸へ取り込み、全身の術式を一時的に過剰活性化させた。 「白亜戦紀――王骸装填!」 恐牙の身体に、黒いティラノの顎と白い三本角、赤熱した翼竜の翼が重なった。まるで複数の恐竜の王を一人の肉体へ押し込めたような姿だった。 レグルスは槍を拾い上げる。 「それほどの力を持ちながら、まだ未来などという妄想に縋るか」 「妄想で結構だ。諦めた奴より、ずっと前へ進める!」 レグルスが突きを放つ。 槍は空間を貫き、恐牙の胸を狙う。 恐牙は避けなかった。 右腕のティラノの顎で槍の穂先を噛み止める。空間ごと貫く攻撃のため、顎の内側に亀裂が走り、肉体にも衝撃が通る。それでも恐牙は離さない。 左腕の三本角が地面を踏み抜いた。 角は床だけでなく、槍によって歪められた空間の裂け目へ突き刺さる。恐牙はその裂け目を、トリケラトプスの角で物理的にこじ開けた。 「空間を切れるなら――空間を掴める場所もあるってことだ!」 裂け目が大きく歪み、レグルスの槍の軌道が狂った。 恐牙は槍を外へ弾き、ラプトルの脚で一気に踏み込む。 黒い光が拳に集まる。 レグルスは武器を集めて防壁を作った。何十もの剣と盾と鎧が重なり、巨大な鉄の壁となる。 恐牙はその壁へ触れた。 「拡張術式――死層恐群!」 鉄の壁が、一体の巨大な肉食恐竜へ変わった。だが恐牙は使役するのではなく、その顎を自分の拳に重ねる。恐竜の噛みつきと黒閃の打撃を一点へ集約する。 「俺の未来を、勝手に終わらせるな!」 拳が放たれた。 黒閃。さらに恐竜の顎による咬合。二重の衝撃が、レグルスの武器防壁を粉砕した。彼の体は壁を突き抜け、競売場の壇上へ叩きつけられる。 それでもレグルスは立った。 全身から血を流しながら、黄金の槍を構える。空間を切断する最後の一撃。市場の柱も、客も、恐牙も、一線で断ち切る構えだった。 「これで終わりだ、恐牙」 恐牙は静かに息を吐いた。 「終わるのは、お前の方だ」 彼は空を見上げた。 呪力が頭上へ集まり、黒い雲のように渦巻く。やがてそれは、巨大な隕石の形を取った。熱が市場を包み、金属が赤く焼ける。客たちは恐竜の防壁の内側で身を伏せた。 「極ノ番――滅隕」 巨大隕石が落下した。 レグルスは槍で迎え撃つ。黄金の穂先が隕石を空間ごと貫き、落下軌道を逸らそうとする。隕石の一部が裂け、焼けた岩塊が周囲へ散った。 だが、恐牙の狙いは隕石そのものではなかった。 隕石の熱波が、レグルスの周囲に展開された武器群を焼く。武器を媒介にしていた異空間が不安定になり、取り寄せられた武器が次々と消滅する。 レグルスが初めて、目を見開いた。 「権能を……焼いたのか」 「違う。武器を全部、恐竜に変えた」 熱波の中、恐牙が踏み込む。 散らばった武器はすでに恐竜化していた。レグルスの権能が呼び戻そうとするたび、術式の対象は無機物から生物へ変わり、支配の条件から外れていく。 最後に残った黄金の槍へ、恐牙が手を伸ばした。 レグルスは槍を引こうとしたが、恐牙の爪が柄に触れる。 「無機物なら、例外はない」 黄金の槍が激しく震えた。 空間を切断していた神器は、長い首と黄金の鱗を持つ巨大な恐竜へ変わった。レグルスは槍を失い、片膝をつく。 恐牙の拳が、その眼前で止まった。 黒閃の残光が、拳の周囲でなお黒く明滅している。 「殺せ」 レグルスは無表情に言った。 「英雄ごっこは終わりだ。私も、貴様も」 恐牙は拳を下ろした。 「殺すのは簡単だ。でもな、俺はお前みたいに諦める気はない」 彼はレグルスの胸ぐらを掴み、引き起こした。 「俺が望む未来の邪魔をするなら、何度でも躾してやる。けど、未来を見られる目が残ってるなら、勝手に死ぬな」 レグルスはしばらく恐牙を見つめた。 やがて、赤い戦闘服の男は力を抜いた。黄金の槍だった恐竜も、術式の解除とともに崩れ、元の槍の形へ戻っていく。ただし穂先には、恐牙の術式による鱗の跡が残っていた。 市場は半壊していた。 屋台は倒れ、商品は散乱し、天井には隕石が作った大穴が開いている。それでも、恐牙が作った甲羅竜の防壁に守られた客たちは、生きていた。 商人たちは怒鳴り、情報屋たちは戦いの情報を売り始め、野次馬たちは今度は二人の賞金額を計算している。 恐牙は壊れた競売台から白亜王の心臓だった恐竜の残骸を拾い上げた。元の形に戻ったそれは、ひび割れているものの、まだ力を秘めている。 「これ、もらってくぞ」 レグルスは答えなかった。 ただ、立ち去ろうとする恐牙の背中へ、低い声を投げた。 「貴様の未来が、救いになるとは限らない」 恐牙は振り返らず、片手だけを上げた。 「救いになるかどうかは、俺が決める」 こうして、裏市場の一角で始まった戦いは終わった。 勝者は古代恐牙。 レグルスは敗北し、権能の一つを一時的に封じられた。恐牙もまた重傷を負い、術式の過剰使用で左腕の感覚を失っていたが、それでも立っていた。 壊れた市場の上空では、隕石の熱がまだ赤い雲を作っている。 その下で恐牙は笑った。 「さて、次はどんな未来を食ってやろうかな」