旅の途中で立ち寄った街は、夕暮れになると屋根の上まで橙色に染まった。 星神愛音は、古びた時計塔の前に立ち、両手を腰に当てて満足そうに街を見渡していた。石畳の通りには屋台が並び、焼き菓子の甘い香りと、香草を煮込んだスープの匂いが混ざっている。遠くでは楽器の音がして、子どもたちの笑い声が風に乗っていた。 「いい街じゃない。景色も綺麗だし、ごはんもおいしそう。あたし、こういう場所は大好きよ!」 愛音の隣には、黒革のキャリーケースが置かれている。取っ手の部分には小さな蝶ネクタイが結ばれ、側面には執事めいた口ひげの意匠まで描かれていた。 「お褒めにあずかり光栄ですぞw 我の選んだ旅先ではありませんが、愛音様がご満足ならば、キャリーくんとしても鼻が高いというものですなw」 「誰が選んだって? あんた、道の真ん中で勝手に転がってきたじゃない」 「愛音様をお迎えに上がったのですぞw 運命的な再会と言っても過言では――」 「はいはい。口を閉じて、車輪を拭いて」 「ぞ、雑ですぞw しかし、そのような扱いもまた我への愛情表現――」 「違うわよ」 愛音はキャリーくんの持ち手を掴むと、まるで荷物を運ぶように乱暴に引きずり始めた。石畳の段差を越えるたび、ケースの中から金属の鳴る音が響く。 「ちょ、ちょっとお待ちを! 我の車輪が! 我の品格が!」 「執事なら主人の荷物くらい黙って運びなさい。ほら、あそこの屋台に行くわよ」 「かしこまりましたぞw ただし我としては、愛音様が我を引きずるお姿を皆様に披露できるのは――」 「余計なことを言ったら、川に投げるわよ」 「かしこまりましたぞw」 屋台で買った焼き菓子を頬張りながら、愛音は通りの向こうへ目を向けた。 人波の中に、ひとりだけ周囲から浮いている少女がいた。赤い髪。黒い衣装。こちらへ歩いてくるだけなのに、街の明るさがその少女の周りだけ沈んで見える。 緋色魔緒――かつて英雄を目指していた少女。今は、内に秘めていた魔王に呑まれ、《真魔王》ヒェロニミアとして存在する者。 魔緒は愛音の前で足を止めた。 「久しいな、星神愛音」 「まあ、魔緒じゃない。相変わらず怖い顔してるわね。せっかくの街なんだから、もう少し楽しそうにしたら?」 「オレが楽しそうにする必要などない。凡弱どもが笑い、騒ぎ、浮かれている。それだけで十分に不快だ」 魔緒は屋台を一瞥した。店主は視線を合わせないようにしている。周囲の人々も、ふたりの間に漂う異様な緊張を感じ取り、少しずつ距離を取っていた。 愛音はそんな空気を気にする様子もなく、残った焼き菓子を魔緒へ差し出した。 「食べる?」 「……何?」 「焼き菓子。甘くておいしいわよ」 「オレが菓子などを欲しがると思うか」 「思わないけど、食べたら気が変わるかもしれないじゃない。ほら」 「馴れ馴れしいな。お前は昔からそうだ。オレが何者であろうと、封印されていようと、世界を創った神であろうと、同じ顔で接してくる」 「だって魔緒は魔緒でしょ? ちょっと偉そうで、すぐ怒って、でも意外と律儀なところがある」 「……オレを理解したつもりか」 「つもりじゃなくて、知ってるのよ」 愛音が微笑むと、魔緒はわずかに眉を寄せた。その表情は怒気を含んでいたが、完全な敵意とは少し違っていた。 キャリーくんが、ころりと愛音の足元へ寄ってくる。 「これはこれは、魔緒様ではありませんかw 我と愛音様の蜜月の旅路に、またしても割り込まれるとは――」 「キャリーくん、黙って」 「ぞw」 「貴様は相変わらず耳障りな箱だな」 「お褒めにあずかり光栄ですぞw 耳障りであることこそ我の個性――」 愛音はキャリーくんを片足で軽く蹴った。ケースは石畳の上を数回跳ね、屋台の裏まで転がっていく。 「ほら、邪魔しないの」 「ぞ、ぞぞぞw 実に素晴らしい蹴りですぞ、愛音様!」 魔緒はその様子を見て、呆れたように息を吐いた。 「お前は創世の神だというのに、従者の扱いが粗雑すぎる」 「キャリーくんがそういう扱いを好きなのよ」 「我は愛音様の御手ならば、いかなる扱いも――」 「黙ってて」 「かしこまりましたぞw」 愛音は改めて魔緒を見た。 「それで、今日は何しに来たの?」 「決まっている。お前を屈服させに来た」 「またそれ?」 「また、ではない。オレは一度たりとも諦めていない。かつて敗北し、封じられた屈辱を、今なお覚えている。お前が世界を創り、万象の頂に立つというのなら、オレはそれを塗り潰す。お前の誇りも、笑顔も、その軽薄な余裕もな」 「ずいぶん熱心ねえ」 「茶化すな」 「茶化してないわよ。魔緒って、昔から負けず嫌いだったもの」 「オレは魔緒ではない。オレこそ魔王。万象を黒く塗り潰す……魔なる王ヒェロニミアだ」 その名を口にした瞬間、魔緒の声音が低くなる。通りを吹き抜けた風が冷たくなり、人々のざわめきが遠のいた。 けれど愛音は、手にしていた紙袋をキャリーくんへ押しつけただけだった。 「はい、これ持って」 「我ですかな?」 「そう。あたし、両手が空いてないと街を見て回れないから」 「魔王を前にして、我を荷物持ちに任命するとは……愛音様、なんと大胆な……!」 「早く」 「かしこまりましたぞw」 キャリーくんは紙袋を内部へ取り込み、何事もなかったように愛音の隣へ戻った。 魔緒は、しばらく黙っていた。 「……お前は、オレを恐れないのか」 「恐れる理由がないもの」 「オレは、お前を屈服させるためなら何でもする」 「でも、今は何もしてないじゃない」 「それは……」 「魔緒が本当にあたしをどうにかしたいなら、こんな街中で話しかけたりしないでしょ。わざわざ姿を見せて、あたしが気づくのを待ってた」 魔緒の目が細くなる。 「……勝手な解釈だ」 「そう? じゃあ、今日は本当に何をしに来たの?」 問いかけられて、魔緒は答えなかった。 夕暮れの街では、店じまいを始める者もいれば、夜の祭りへ向けて灯りを準備する者もいる。時計塔の下では、子どもが風船を追いかけ、母親がその後を慌てて追っていた。 魔緒はその光景を見ていた。冷たい表情のまま、それでも視線だけは長く留まっていた。 「……この街に、かつてのオレを知る者はいない」 「うん」 「英雄を目指していた頃のオレを、誰も知らない。弱く、未熟で、正義だの希望だのと口にしていた、愚かな少女を」 「愚かじゃなかったわよ」 「黙れ。慰めなど要らない」 「慰めじゃないってば」 愛音は屋台の椅子に腰を下ろした。魔緒にも座るよう促したが、魔緒は立ったままだった。 「英雄を目指すのって、簡単じゃないもの。誰かを助けたいって思うだけでも、十分に大事なことよ」 「結果、オレは魔王になった」 「それでも、昔の魔緒が消えたわけじゃない」 「……綺麗事だな」 「綺麗事でいいじゃない。世界は綺麗事だけじゃ回らないけど、綺麗事がないと、回したいと思えなくなるもの」 魔緒は愛音を見下ろした。 「お前は、何も変わらないな」 「そう? 旅をしてるから、前よりちょっと大人になったわよ」 「自分で言うな」 「じゃあ、魔緒が言ってみて。あたしの良いところ」 「断る」 「えー、ケチ」 「お前は、世界を創った力を持ちながら、その重さを理解していない。軽薄で、無遠慮で、他者の恐怖にも鈍感だ」 「それ、悪いところじゃない?」 「話は最後まで聞け。……だが、誰もが怯えて口を閉ざす場所で、お前だけはくだらぬことを言い続ける。お前の前では、王も魔王も、ただの相手にされてしまう」 愛音は少しだけ目を丸くし、それから笑った。 「それって、褒めてる?」 「褒めていない」 「でも、嬉しいわ」 「勝手にしろ」 キャリーくんが紙袋の中から小さな皿を取り出した。いつの間にか、焼き菓子が二つに分けられている。 「愛音様、魔緒様。仲直りの茶菓子ですぞw」 「仲直りなんてしてないわよ」 「そもそも我々は馴れ合ってなどいない」 「まあまあ、食べましょ。魔緒もひとつ」 「要らん」 「一口だけでも」 「要らんと言っている」 愛音は焼き菓子を手に取り、魔緒の口元へ差し出した。 「ほら」 「……お前は本当に、魔王を何だと思っている」 「お菓子を食べる友達」 魔緒は眉間に皺を寄せたまま、差し出された菓子を見つめた。 「友達、だと?」 「嫌なら知り合いでもいいけど」 「オレを、かつてお前を封じた存在を、友と呼ぶのか」 「だって、話ができるもの」 魔緒は長く沈黙した。そして、愛音の手から焼き菓子を取り上げると、ほんの少しだけ口にした。 甘さが広がる。 「……甘いな」 「でしょ?」 「子ども向けだ」 「でも食べたじゃない」 「味を確認しただけだ」 「はいはい」 愛音は笑いながら、もう一つの菓子を自分の口へ運んだ。 やがて街の灯りが一つ、また一つと点いていく。魔緒は立ち去る気配を見せなかった。愛音も引き止めなかった。ただ、ふたりの間には、先ほどまでの張りつめた空気とは違う静けさがあった。 「魔緒」 「何だ」 「また来る?」 「オレはお前を屈服させるために来る」 「うん。それでも、また来るんでしょ?」 「……そうだ」 「じゃあ、次は別の街を案内するわ。海の近くがいい? それとも雪の降るところ?」 「お前は、オレを観光に誘っているのか」 「そうよ。せっかく世界を旅してるんだもの。魔緒にも見せたい場所がいっぱいあるの」 「オレは魔王だぞ」 「知ってるわよ」 「お前の敵だ」 「それも知ってる」 「……理解できんな」 「そのうち理解できるわよ。あたしってば、凄すぎるし可愛すぎるから!」 愛音が胸を張ると、魔緒は呆れたように顔を背けた。 「自分で言うな。……だが、次に来る場所は、オレが選ぶ」 「いいわよ。どこにする?」 「暗く、静かで、人の少ない場所だ」 「それ、魔緒が好きなだけじゃない?」 「当然だ」 「じゃあ、その近くにおいしいお店があるところにして」 「条件を付けるな」 「旅は食事が大事なのよ」 「……分かった。探しておく」 「ふふ、楽しみね」 魔緒は背を向け、街の暗がりへ歩き出した。数歩進んだところで、ほんのわずかに振り返る。 「星神愛音」 「なあに?」 「次こそは、必ずお前を屈服させる」 「はいはい。楽しみにしてるわ」 「軽く受け流すな」 「じゃあ、今度はもう少し真剣に聞くわね。次こそは、必ずおいしいものを一緒に食べましょう」 「話を聞け、創神」 魔緒はそう言い残し、今度こそ去っていった。 愛音はその背中を見送り、隣のキャリーくんへ視線を落とす。 「ねえ、キャリーくん。あの子、ちょっと素直になったと思わない?」 「我も同感ですぞw 魔緒様は愛音様との再会を、たいそう楽しみにしておられるご様子ですなw」 「そうよね」 「そして愛音様も、魔緒様とお会いできて嬉しそうでしたぞw」 「……あんた、たまにはいいこと言うじゃない」 「では、ご褒美に愛音様の隣で――」 「調子に乗らないの」 愛音はキャリーくんの取っ手を掴み、今度は先ほどよりもさらに勢いよく引きずり始めた。 「ぞぞぞぞw 我、幸せですぞー!」 灯りに満ちた街の中を、創神の魔法少女と、真魔王のための次の約束を抱えたキャリーケースが進んでいく。 その夜、星神愛音が緋色魔緒へ抱いた印象は、以前と変わらず、強がりで不器用な女の子だった。ただし、ほんの少しだけ、自分の過去を誰かに見てほしいと思っているのかもしれない、とも感じていた。 一方、緋色魔緒が星神愛音へ抱いた印象は、相変わらず軽薄で、無礼で、どうしようもなく眩しい存在だった。けれどその眩しさは、魔王となった自分が忘れたものを、まだ手放さずにいる証のようにも思えた。 だから魔緒は、次もまた愛音の前に現れる。 屈服させるためだと、そう言い張りながら。