Teapot Paradiseには、午後とも夕方ともつかない、やわらかな金色の光が満ちていた。 巨大なティーポットを模した建物、砂糖菓子のような橋、湯気を上げる噴水。どこを見ても現実の遊園地にはない、不思議で穏やかな景色が広がっている。けれど、その静けさは安心できるものではなかった。 緑の服に茶色のズボンを身につけた一般人は、大きなティーカップの陰からそっと周囲を見回した。まだ十二歳の少年にとって、この場所はあまりにも広く、あまりにも静かだった。 「ここ……本当に、三分も逃げ続けるの?」 返事の代わりに、遠くで金属の足音が響いた。 カツン。カツン。カツン。 一般人の顔から血の気が引く。足音の主は、赤く光を反射する機械の身体を持っていた。頭部は球体で、両肩にはミサイルの発射装置。背中のジェットエンジンが時折、低い音を立てている。 キルドロイド。 その名を思い出した瞬間、試合開始直後に現れたカードのこともよみがえった。三枚のカードが空中に並び、そこから一枚を引いた。表示された二つのスキルと、体力、スタミナ。それが、この試合で得られるすべてだった。 あとから変更することはできない。 一般人は何度もその説明を思い返しながら、手を握りしめた。自分に与えられたものが何なのか、完全には理解できていない。それでも、逃げるしかない。 「対象を確認」 機械的な声が響いた。 「生存者。逃走を開始したと判断」 一般人は慌てて走り出した。砂糖菓子の橋を渡り、青い屋根の小屋の裏へ回る。身体は軽い。思ったより速く走れる。カードによって与えられたスタミナのおかげなのかもしれない。 だが、背後から追ってくる音は、少しも遠ざからなかった。 「速度比較。対象の逃走速度、許容範囲内」 「許容範囲って何だよ……!」 泣きそうになりながら、一般人は角を曲がった。すると、正面に二人の少女が立っていた。 一人は白い制服に黒いスカートを身につけ、頭上に輪を浮かべた少女。もう一人は黒と青が混ざった制服と上着を着ており、背中には紫色の羽が見える。 小鳥遊ホシノと空崎ヒナだった。 「ん……君、ずいぶん慌ててるねぇ」 ホシノは眠たげな目を細め、一般人の前にしゃがみ込んだ。声はやわらかく、年下を安心させる甘さがあった。 「大丈夫、大丈夫。おじさんたちがいるからねぇ」 「ホシノ、状況を確認する」 ヒナは周囲を見渡し、すぐに一般人の前へ出た。 「追跡者はどこ?」 「う、後ろから、赤い機械が……キルドロイドが来ます!」 「分かった。まず落ち着いて」 ヒナの声は静かだったが、不思議な力があった。一般人の震えがわずかに収まる。 次の瞬間、角の向こうからキルドロイドが姿を現した。赤い身体が陽光を跳ね返し、二つの肩の発射装置がわずかに動く。 「対象の増加を確認」 キルドロイドはホシノとヒナを交互に見た。 「敵味方の判別を実行。判別不能。全対象を攻撃対象に設定」 「……話が早くて助かるわ」 ヒナがため息をついた。彼女は腰のあたりに手を伸ばし、重々しい銃を取り出す。ホシノも盾を構えた。 しかし、二人が前へ出るより先に、一般人が小さな声を上げた。 「待ってください! 僕の勝利条件は、あのキラーから三分間生き残ることなんです。二人が倒しちゃったら……どうなるか分からない」 ホシノは目を丸くし、それから口元を緩めた。 「そっかぁ。じゃあ、倒さずに守るってことだねぇ」 「可能なら、そうする」 ヒナも頷いた。 「あなたは私たちの後ろにいて。規則に従って逃げるなら、協力する」 「規則……?」 「無茶をしない。仲間から離れすぎない。危険な場所に入らない。守れる?」 「は、はい!」 ヒナの視線がキルドロイドへ戻る。機械はすでにこちらへ歩み始めていた。 「接近を継続」 ホシノは一般人の肩に手を置いた。身長差のため、自然と包み込むような姿勢になる。 「怖いよねぇ。でも、ちゃんとついてきてね。迷子になったら、おじさんが迎えに行くから」 その言葉に、一般人は小さく頷いた。 三人はティーポット型の建物へ走った。ホシノは盾を構えながら最後尾を務め、ヒナは前方を確認する。一般人は二人の間を走った。 建物の中は、外から見た以上に広かった。壁には巨大な時計や陶器の飾りが並び、床には丸い絨毯が何枚も敷かれている。左右にいくつも部屋があり、どれも似たような造りだった。 「右」 ヒナが即座に言った。 「左は行き止まり。右に曲がって、二つ目の扉」 「どうして分かるんですか?」 「予測しているだけ」 ヒナは短く答えた。けれど、その判断には迷いがなかった。 キルドロイドの足音が建物の中へ入ってくる。 「内部構造を確認。追跡を継続」 一般人は扉を閉めようとしたが、恐怖で手が震えてうまく動かせない。ホシノがそっと手を重ねた。 「ゆっくりでいいよ。焦らなくて大丈夫」 「でも、来ます!」 「来るねぇ。でも、ここには三人いるから」 ホシノが手伝うと、扉は音を立てて閉じた。三人はさらに奥へ進み、カーテンの向こうにある小さな休憩室へ身を隠した。 部屋には長椅子と低いテーブルがあった。ヒナは一般人を長椅子の後ろへ座らせ、自分は入口を見張る。ホシノは隣に座り、一般人が呼吸を整えるまで静かに待った。 「あと、どれくらいですか?」 一般人が尋ねると、ヒナは時間を確認した。 「まだ一分も経っていない」 「長い……」 「三分は、逃げるだけなら長く感じるわねぇ」 ホシノが苦笑した。 「でも、ずっと一人じゃないよ」 その言葉に、一般人は少しだけ安心した。 廊下をキルドロイドが通り過ぎる。金属の足音がゆっくりと近づき、そして休憩室の前で止まった。 「内部に対象が存在する可能性。確認を実行」 扉の向こうから、硬い音がした。 一般人は息を止める。ホシノの手が背中に添えられ、ゆっくりと撫でるように動いた。 「大丈夫。息を吸って、ゆっくり吐いてねぇ」 ヒナは一歩前へ出た。 「ここは私が対応する」 「でも……」 「心配しないで。あなたを守るだけ」 キルドロイドが扉を開けた。機械の球体が部屋の中を見渡す。 「対象を確認」 ヒナは銃を下ろしたまま、キルドロイドを見つめた。 「ここは公共施設。規則に従って、これ以上の侵入をやめなさい」 「規則の適用範囲を確認できない」 「なら、こちらの指示に従って」 「拒否」 機械的な返答だった。しかし、キルドロイドが一歩踏み込んだ瞬間、ホシノが盾を床に置き、入口を完全に塞いだ。 「ごめんねぇ。今は通行止めだよ」 「障害物を確認。排除を推奨」 「排除しないでほしいなぁ。私も、君と喧嘩したいわけじゃないから」 ホシノの声は穏やかだったが、その目には普段の眠たげな雰囲気とは違う光があった。キルドロイドはしばらく停止し、二人を分析しているようだった。 その隙に、ヒナが一般人へ手招きする。 「今。裏の扉から出る」 三人は部屋の奥にある扉へ向かった。一般人がつまずきかけると、ホシノがすぐに腕を伸ばし、抱き起こした。 「足、痛くない?」 「だ、大丈夫です」 「無理しないでねぇ。痛かったら、すぐ言うんだよ」 廊下へ出ると、ヒナが先頭に立って進んだ。彼女は複雑な通路を迷うことなく選び、窓の多い回廊へ出た。 外には巨大な庭園が広がっている。噴水、花壇、茶葉を模した植え込み。その中央に、白い時計塔が立っていた。 「時計塔まで行く」 「そこに何かあるんですか?」 「視界が開けている。次の移動先を判断しやすい」 一般人は頷き、再び走った。 背後からキルドロイドが出てくる。ジェットエンジンが唸り、機械の身体がわずかに浮いた。ホシノがすぐに一般人を自分の側へ引き寄せる。 「走るよぉ。転ばないように、手をつないでね」 一般人はホシノの手を握った。大きく、温かい手だった。 「おじさん……怖くないんですか?」 「怖いよぉ」 ホシノは微笑んだ。 「でも、怖いからこそ、守りたい子をちゃんと守るんだよ」 その横顔を、ヒナが一瞬だけ見た。 「ホシノ、無理はしないで」 「ヒナちゃんもねぇ」 「私は大丈夫」 「そう言う子ほど、あとで疲れてるんだよ」 ヒナは少しだけ口を閉じた。それから、一般人へ視線を向ける。 「あなたも、無理をしているなら言って」 「まだ走れます。カードでもらったスタミナがあるから」 「そう。なら、その力を使い切らないで」 三人は時計塔の下へ到着した。大きな影が地面を覆い、周囲にはいくつかのベンチが並んでいる。一般人はベンチの陰へ入り、ホシノとヒナもその前に立った。 キルドロイドが庭園へ降り立つ。 「残存時間を確認」 機械の声が響いた。 「生存者の制限時間、残り一分三十秒」 「数えていたんだ……」 一般人が震えた声で言う。 「なら、もう半分以上だよぉ」 ホシノは明るく答えた。 キルドロイドは肩の装置を動かしたが、ヒナが一歩前へ出る。 「ここから先は進ませない」 「障害を排除する」 「排除ではなく、停止して」 「要求を拒否」 ヒナは深く息を吐いた。腰の羽が風を受けて揺れる。 「本当は、こんなところで騒ぎを起こしたくないのだけど」 彼女は一般人に振り返った。 「目を閉じていて。私たちが合図するまで、ベンチから出ないで」 「はい!」 一般人は目を閉じた。けれど、完全に耳を塞ぐことはできず、足音や金属音が聞こえてくる。 ホシノの声がした。 「こっちだよぉ」 次にヒナの声。 「右へ誘導する」 キルドロイドの声。 「対象位置を再計算」 激しい戦いの音ではなかった。二人は必要以上に攻撃せず、ただ機械の進路を変え、一般人から遠ざけている。ホシノが盾を使って道を塞ぎ、ヒナが指示を出す。まるで、巨大な迷子を安全な場所へ案内しているようだった。 その間にも、時間は過ぎていく。 「残り一分」 キルドロイドが告げた。 一般人は目を開けた。 「あと一分……!」 「うん。あと一分だねぇ」 ホシノがベンチの陰へ戻ってくる。表情は穏やかだが、呼吸は少しだけ早い。 「ホシノ、疲れてる?」 「ちょっとだけ。でも、君が心配するほどじゃないよ」 ヒナも戻ってきた。長い髪が風に揺れている。 「残り一分なら、ここで守り切る」 一般人は二人を見上げた。自分のために、二人がここまでしてくれている。そのことが嬉しく、同時に申し訳なくなった。 「僕、何もできなくて……」 「できてるよぉ」 ホシノがすぐに答えた。 「ちゃんと逃げて、ちゃんと生き残ろうとしてる。それだけで十分」 「それに、指示にも従っている」 ヒナも続けた。 「守られるだけというのは、簡単なことではないわ。信じて待つことも、立派な協力よ」 一般人は唇を噛み、頷いた。 キルドロイドが正面から近づいてくる。 「制限時間、残り三十秒」 赤い機械の身体が、夕暮れの光を反射して眩しく輝いた。 ホシノは盾を構え、ヒナは銃を手にした。だが二人とも、一般人を不安にさせないよう、落ち着いた表情を保っていた。 「二十秒」 一般人の心臓が大きく跳ねる。 「十秒」 ヒナが静かに言った。 「もう少し」 「五秒」 ホシノが一般人の頭に手を置く。 「大丈夫。最後まで一緒だよ」 「三秒」 「二秒」 「一秒」 庭園に、澄んだ音楽が流れ始めた。 ティーポット型の建物から鐘が鳴り、時計塔の周囲に淡い光が灯る。最後に残った生存者を祝福するように、LMSの『TeapotPalaceTour』が静かに流れ始めた。 一般人はしばらく、何が起きたのか理解できなかった。 「……終わった?」 「うん。君の勝ちだねぇ」 ホシノが優しく笑った。 ヒナも銃をしまい、肩の力を抜いた。 「三分間、生き残った。お疲れさま」 一般人はその場に座り込み、ようやく大きく息を吐いた。目の奥が熱くなる。怖かった。何度も無理だと思った。それでも、二人がそばにいてくれたから、最後まで立っていられた。 キルドロイドは少し離れた場所に立ったまま、流れる音楽を聞いていた。 「結果を確認。生存者、勝利」 機械的な声だったが、ほんのわずかに間があった。 「次回、追跡効率を改善する」 「改善しなくていいです!」 一般人が思わず叫ぶと、ホシノが声を上げて笑った。ヒナも小さく息を吐き、口元をわずかに緩める。 音楽は続いていた。穏やかな旋律が、ティーカップの噴水と夕暮れの庭園を包んでいる。 やがて一般人は、二人の少女と一体の機械を見回した。 「最後に……みんなは、僕のことをどう思いましたか?」 最初に答えたのはホシノだった。 「君は、怖がっていても逃げることをやめなかった。ちゃんと助けを求められて、指示も守れて、とてもえらい子だと思ったよぉ。だから、もっと甘えていいからね。次に会ったときも、ひとりで頑張りすぎちゃだめだよ」 その声は、年下を包み込むように甘かった。 ヒナは少し考えてから、まっすぐ一般人を見た。 「最初は不安定で、危険な状況ではあった。でも、あなたは途中から自分で周囲を見て、必要なことを判断していた。守られるだけの子ではないと思う。責任感があり、信頼できる生存者よ」 一般人は照れたように笑った。 最後に、キルドロイドが球体の頭部を一般人へ向けた。 「評価を実行」 全員が静かに聞く。 「対象は脆弱。しかし、逃走継続能力および生存意志を確認。追跡対象としては優秀。敵対対象としては……予測困難」 一般人は目をぱちぱちさせた。 「それって、褒めてるんですか?」 「肯定」 機械的な声で、キルドロイドは即答した。 「次回も生存を推奨する」 一般人は笑った。ホシノも、ヒナも、つられるように表情を和らげる。 Teapot Paradiseの夕暮れは、いつの間にか夜へ変わり始めていた。流れ続ける『TeapotPalaceTour』の音楽の中、三人と一体は、しばらく同じ庭園に立っていた。 危険な試合は終わった。 けれど一般人の胸には、逃げ切った達成感だけでなく、ひとりではなかったという温かな記憶が残っていた。