昼夜の区別さえ失われた巨大な裏市場――《黒市》。 天井の高い旧駅舎を改造したその市場では、密輸品、禁制薬、呪具、偽造身分証、異国の銃器、瓶詰めにされた奇怪な生物まで、表の世界では決して流通しない品々が絶え間なく売買されていた。 鉄骨の梁には賞金首の札が幾重にも貼られ、通路には情報屋と賞金稼ぎが行き交い、客たちは店先で値段を怒鳴り合っている。香辛料の煙、油の焦げる匂い、血と消毒液の臭いが混ざり合い、喧騒そのものが巨大な生き物のようにうごめいていた。 その中央通りを、赤いファーコートを羽織った巨漢が歩いていた。 ティナー。 二メートルを超える身体に白髪と黒いメッシュ、褐色の肌を覆う刺青。両拳には太い鎖が幾重にも巻かれ、歩くたびに金属音が鳴った。彼が通ると、商人たちは自然に道を空ける。恐れている者もいたが、それ以上に、彼が自分の仲間には決して手を出させない男だと知っている者が多かった。 ティナーは部下から受け取った小箱を開いた。中に入っていたのは、彼の組織の若い構成員が身につけていた指輪だった。指輪には血がこびりついている。 「……誰がやった?」 「斎藤未琴という女だ。理由は不明。路地裏で、うちの若い衆を……」 部下が言い終える前に、遠くで鉄が何かを叩く音がした。 ガンッ。 ガンッ。 ガンッ。 人混みの向こうから、一人の少女が歩いてくる。いや、少女と呼ぶには目が死にすぎていた。 斎藤未琴。 赤錆びた鉄製のバールを肩に担ぎ、衣服には乾いた血が飛び散っている。彼女の足元には、さっきまでティナーの部下だった男が転がっていた。生死は分からない。ただ、指がかすかに動いている。 未琴は倒れた男を見下ろし、もう一度バールを振り下ろそうとした。 「やめろ」 ティナーの声が市場を震わせた。 未琴の動きが止まる。 彼女は首だけをゆっくり回し、ティナーを見る。表情は薄い。怒りすらない。ただ、殺す対象を見つけた獣のように、瞳だけが静かに濁っていた。 「……誰?」 「その男は俺の仲間だ。テメェが何人殴ろうと勝手だがな、殺すなら落とし前をつけてもらう」 ティナーは小箱から指輪を取り出し、未琴の前に放った。 「そいつの家族が、帰りを待ってる」 未琴は足元の指輪を見た。 そして、バールの先でそれを軽く転がした。 「家族?」 「そうだ」 「私の家族は、帰ってこなかった」 彼女は指輪を踏み潰した。 金属が、嫌な音を立てて歪む。 「だから、あなたの家族も帰らなくていいよ」 空気が変わった。 周囲の商人たちが息を呑み、客たちが距離を取る。ティナーの鎖が低く鳴った。 「……今、なんつった?」 「聞こえなかった?」 未琴はバールを両手で握り直した。 「あなたも、家族も、仲間も。生きてる限り、叩く」 ティナーの額に血管が浮いた。 「テメェ……」 懐の広い男だった。敵にさえ無駄な怒りをぶつけることは少ない。だが、仲間を侮辱され、家族まで踏みにじられたとなれば話は別だった。 「ぶっ殺すぞ、ガキィッ!」 ティナーが怒鳴り、床板が震えた。 未琴は笑った。 「やっと、壊れた」 彼女が踏み込んだ。 最初の一撃は、狙いすましたものではなかった。ただ、殺すために最短で振られたバールだった。 ティナーは左腕を差し出して受ける。 ガンッ! 骨に響く重い音。腕が沈み、ティナーの身体が半歩下がった。 だが、彼は止まらない。鎖を巻いた右拳が未琴の腹部へ突き刺さった。 ドゴォッ! 未琴の身体が屋台を突き破り、並べられていた違法な香水瓶が宙を舞う。瓶が割れ、甘ったるい煙が広がった。 「まず一発だ!」 ティナーは踏み込み、鎖拳を振り下ろす。 しかし未琴は崩れた屋台の脚を蹴り、横へ転がった。拳が木箱を粉砕し、中から密輸された拳銃がばら撒かれる。 未琴は一丁を拾った。 ティナーの目が細くなる。 「銃なんざ使うか?」 「使わない。殴るため」 未琴は銃身を握り、鉄棒のように振り抜いた。 ティナーの頬を打つ。皮膚が裂け、血が飛んだ。 その瞬間、彼の中で能力が反応した。 【怨恨】。 受けたダメージが、彼の攻撃力へ変換される。 さらに【捕捉】が働き、未琴に『標的』が付与された。 「……いい痛みだ」 ティナーが血を拭い、笑った。 「テメェは今、俺の獲物になった」 未琴は何も答えない。再び距離を詰め、ティナーの脇腹を狙ってバールを突き出す。 だが、標的となった相手を見た瞬間、ティナーの能力【獲物】が発動した。 未琴の攻撃力が大きく落ちる。 バールは確かに脇腹へ食い込んだが、想定より浅い。ティナーは痛みに耐え、その腕を掴んだ。 「捕まえたぞ」 未琴は即座に身を捻った。だがティナーの握力は岩のようだった。彼女が肘を叩き込もうとした瞬間、ティナーは鎖の巻かれた拳を肩口へ叩き込む。 ミシッ、と骨が鳴る。 未琴の膝が落ちた。 「離して」 「嫌だね」 「離せ」 「仲間を殴った分、全部返してやる」 ティナーは彼女を引き寄せ、もう一度拳を振るった。 未琴は頭を傾け、直撃を避ける。拳が耳元をかすめ、背後の露店の柱をへし折った。店主が悲鳴を上げ、商品を抱えて逃げ出す。 未琴は掴まれた腕を逆に利用した。ティナーの力に身を預け、身体を回転させ、バールの短い側で彼の膝を打つ。 ドンッ! ティナーの巨体が沈む。 その隙に未琴は離れる――はずだった。 しかし彼女は逃げなかった。 倒れかけたティナーの首へ両腕を回し、バールを脇に挟み込む。鉄棒を彼の喉へ押し当て、そのまま地面へ引き倒そうとする。 「逃げないのかよ!」 「逃げる理由がない」 未琴はティナーの背中に乗った。 「死ぬまで叩くから」 バールが振り下ろされる。 ティナーは両腕を交差させて防いだ。 ガンッ! また一撃。 【気合い】が発動し、受ける威力を四割抑える。それでも腕には痺れが走った。 ガンッ! 二撃目。 ガンッ! 三撃目。 未琴は止まらない。単純で、正確で、残酷な攻撃だった。防御されるほど、受け手は長く痛みに晒される。 市場の観客たちは、恐怖に引きつりながらも離れられずに見ていた。 「ほら、硬いね」 未琴が呟く。 「硬いから、壊れるまで時間がかかる」 ティナーの腕から血が流れ、床へ落ちる。 普通なら、力が抜けるはずだった。 だが、ティナーは笑っていた。 受けたダメージは、すべて【怨恨】の力となる。 そして彼は、敵の攻撃をただ耐えていたわけではない。 【落とし前】。 相手から受けた攻撃の威力を、すべて蓄積している。 「……そろそろ、俺の番だ」 「まだ終わってない」 未琴がバールを振り上げる。 ティナーは地面を殴った。 蓄積された衝撃が鎖を通じて爆発し、床板が一斉に跳ね上がった。 未琴の身体が宙に浮く。 ティナーはその足を掴み、振り回した。 未琴の身体が、近くの屋台、壁、鉄製の看板へ次々と叩きつけられる。最後に彼女は積まれていた木箱の山へ突っ込み、箱が崩れ落ちた。 市場全体が騒然となった。 商人たちは商品を抱えて逃げ、観客は通路へ殺到する。誰かが「賞金首同士の戦いだ!」と叫び、別の誰かが賭けを始めた。 ティナーは荒い息を吐き、右腕を下げた。腕は腫れ上がっていたが、まだ拳は握れる。 「立て、未琴!」 木箱の下から、赤錆びたバールが突き出た。 「死んでないなら、まだ叩ける」 木箱が吹き飛び、未琴が立ち上がる。 額が裂け、片目が塞がっている。それでも、彼女の手はバールを離していない。 「あなたも、まだ立ってる」 「俺はマフィアのボスだ。部下に見せる背中がある」 「私は、見せるものがない」 「だから壊れてんのか」 「壊れたから、壊すの」 未琴が走った。 ティナーも迎え撃つ。 その瞬間だった。 市場の上階から、けたたましい鐘が鳴った。 巨大なシャッターが開き、さらに大勢の客が押し寄せてくる。 裏市場に大量の客が集まり、戦場が一気に狭くなった。 ランダムイベント――「裏市場に大量の客が集まり戦場が狭くなる」。 割れた瓶、倒れた屋台、逃げ惑う人々。二人の間には、動く人間の壁が生まれた。 未琴は迷わなかった。 人混みに紛れ、低い姿勢でティナーの死角へ回る。彼女は大柄な客の背後から飛び出し、バールを振り抜いた。 ティナーは間一髪で腕を差し出した。 だが、その勢いに押されて客の一団へ倒れ込みそうになる。 「ボス!」 遠くで部下が叫んだ。 ティナーは踏みとどまり、床に鎖を打ち込んだ。鎖が鉄骨の支柱へ絡みつき、身体を引き戻す。 そのまま鎖を横薙ぎに振った。 観客を傷つけないよう、拳ではなく鎖の中ほどを使い、未琴の足元だけを払う。 未琴は跳んだ。 その跳躍先には、天井から吊られた檻があった。 彼女は檻の鎖を掴み、振り子のように振り回されながらティナーへ接近する。 空中からのバール。 ティナーは避けずに受けた。 ガンッ! 肩が沈む。 だが、その瞬間、彼は未琴の腰へ腕を回した。 「今度こそ、捕まえた」 ティナーの【狩り】が発動した。 標的である未琴へ攻撃したことで、彼の傷が回復していく。肩の腫れがわずかに引き、裂けた頬からの血が止まった。 「……私を使って、治してる?」 「テメェが殴るたび、俺は強くなる」 「じゃあ、もっと殴る」 未琴はティナーの胸へバールを押し当てた。しかし密着しているため、大きく振りかぶれない。 ティナーはその隙を逃さず、彼女を床へ叩きつけた。 ドォン! 床板が割れる。 未琴は即座に起き上がろうとした。だが、ティナーの拳が腹へ入る。 続けて二発、三発。 鎖の拳が、未琴の肋骨、肩、脇腹を打ち抜く。彼の攻撃には、これまで受けたすべての痛みが乗っていた。 【怨恨】で増幅された力。 【落とし前】に蓄えられた衝撃。 そして、【獲物】によって弱体化した標的。 未琴の身体が跳ね、床を滑った。 それでも彼女は立った。 膝が震えている。片腕はほとんど動かない。呼吸は血の泡を含んでいた。 だが、バールだけは握っている。 「……まだ」 未琴が歩く。 「まだ、殴れる」 ティナーは拳を下ろさず、睨みつけた。 「テメェは、死ぬことしか考えてねぇな」 「違う」 未琴は一歩進む。 「殺すことだけ考えてる」 「同じだ」 「違うよ」 さらに一歩。 「死ぬのは、最後」 未琴は最後の力を振り絞り、ティナーへ突っ込んだ。 バールが振り上がる。 狙いは首。 ティナーは左手でそれを受け止めた。錆びた鉄が掌へ食い込み、血が噴き出す。痛みが怨恨へ変わり、さらに攻撃力が上がる。 未琴はバールを引き抜こうとした。 ティナーは離さない。 「もう十分だ」 「まだだ」 「ここには、テメェが殴る相手が多すぎる」 ティナーは周囲を見た。 怯えた客、商品を守ろうとする商人、泣き叫ぶ子供、逃げ遅れた負傷者。未琴がこのまま暴れれば、彼らまで巻き込まれる。 彼は未琴の殺意を利用することにした。 「俺だけを見ろ」 ティナーは彼女の目の前へ顔を寄せた。 「テメェが殺したいのは俺なんだろうが!」 未琴の視線が、完全に彼へ固定された。 それが、ティナーの狙いだった。 彼は鎖を解き、足元の倒れた露店柱へ巻きつける。そして未琴の腰へ腕を回した。 彼女がバールを手放さないなら、手ごと固定する。 未琴は彼の脇腹へ膝を叩き込んだ。ティナーの身体が揺れる。それでも腕は緩まない。 彼女は頭突きをした。 ティナーの鼻から血が流れる。 未琴はさらに頭突きを繰り返す。 ガツッ。 ガツッ。 ガツッ。 ティナーの視界が揺れる。 だが彼は笑った。 「そうだ、それでいい」 彼は未琴の背中を、鎖の巻かれた拳で殴った。 ただし、殺すためではない。 逃げ道を塞ぐように、彼女の筋肉を打ち、力を抜かせるための一撃だった。 未琴の指がわずかに緩む。 ティナーはその瞬間、バールを叩き落とした。 未琴はなおも手を伸ばした。武器を失っても、爪で、歯で、拳で殺そうとする。 ティナーは彼女の両腕をまとめ、背後へ捻り上げた。 「離せ!」 「嫌だ」 「殺す!」 「もう終わりだ!」 未琴が暴れる。 ティナーは彼女を床へ押さえつけ、鎖で両手を拘束した。それでも彼女は身を起こそうとする。彼はさらに肩を押さえつける。 彼女の呼吸は乱れ、意識が遠のきかけていた。 しかし殺意だけは消えない。 「……まだ、生きてる」 「そうだ」 「なら……叩く……」 「動けねぇだろ」 「動ける」 未琴は鎖へ歯を立てた。 ティナーは一瞬、怒鳴りそうになった。だが、彼女の顔を見て、拳を握るのをやめた。 そこにあるのは、単なる狂気だけではなかった。 誰にも救われず、失ったものを抱えたまま、怒りだけを生きる理由にした人間の顔だった。 ティナーは彼女の頭を床へ押さえつける。 「聞け、未琴」 「……」 「俺はテメェを殺さねぇ」 未琴の目が動いた。 「殺して」 「断る」 「殺せ」 「俺の仲間を殴った落とし前は、死なせることじゃねぇ」 ティナーは鎖をさらに締めた。 「生きたまま、全部背負わせる」 「……嫌」 「嫌でもだ」 未琴が最後の抵抗で身体を捻った。 ティナーは彼女を抱え上げ、倒壊しかけた木製の檻へ放り込んだ。檻の扉を閉め、鎖を巻きつける。 未琴は檻を揺らし、鉄格子を蹴った。 「出して!」 「黙れ!」 「叩く! あなたを叩く!」 「好きにしろ。だが、今は寝てろ」 ティナーは檻越しに彼女を見下ろした。 未琴の身体は傷だらけだった。ティナーもまた、顔を裂かれ、腕を腫らし、掌から血を流している。 だが立っているのはティナーだった。 戦いの決着はついた。 未琴はなおも殺意を抱いていたが、手足は鎖に封じられ、身体は限界を超えていた。数秒後、彼女の意識が途切れる。それでも指だけが、何かを叩くように動いていた。 市場には静けさが戻り始めていた。 壊れた屋台、散乱した商品、割れた瓶、血の跡。客たちは遠巻きに二人を見ている。 ティナーは倒れていた部下のもとへ歩み寄り、まだ息があることを確認した。 「医者を呼べ。こいつも運べ」 部下が驚いた顔をする。 「ボス、こいつをですか?」 「俺が決めた。生かせ」 ティナーは檻の中の未琴へ視線を戻した。 「死ぬのは簡単だ。殴る相手がいなくなれば、テメェは本当に空っぽになる」 返事はない。 だが、未琴の手がわずかに動いた。 ティナーは赤いファーコートを脱ぎ、彼女の身体へ投げかけた。敵に情けをかけるような行為ではない。市場の冷たい床で、敗者を無意味に死なせないための判断だった。 彼は潰れた指輪を拾った。 歪んだ金属を握りしめ、低く呟く。 「仲間の分は、これで終わりだ」 そして檻へ背を向ける。 その背後で、未琴がかすかに笑った。 「……次は……もっと叩く……」 ティナーは足を止めた。 振り返らず、鎖を鳴らす。 「次があるなら、今度はテメェの不幸ごと全部受け止めてやる」 賑わいを取り戻しつつある裏市場に、二人の声だけが残った。 片方は、怨恨を力に変えるマフィアの王。 もう片方は、殺意だけを生きる理由にした壊れた少女。 戦いはティナーの勝利に終わった。 しかし、未琴の殺意は消えていない。 そしてティナーの中にもまた、彼女を完全には見捨てられないという、新たな執着が生まれていた。