夕暮れの屋上には、風がなかった。 校舎の向こうへ沈みかけた太陽だけが、赤い光をフェンスの影に細く伸ばしている。街はいつも通りの姿を保っていた。車の音、遠くの部活動の掛け声、商店街から流れてくる夕食の匂い。平穏そのものの景色だ。 その景色の中に、二人の少女がいた。 一人は、赤いリボンを揺らしながらフェンスの前に立つ緋色魔緒。もう一人は、同じ顔を持ちながら、まるで世界のすべてを見下ろしているかのような雰囲気を纏う存在――真魔王ヒェロニミア。 魔緒は、しばらく黙って空を見上げていた。 「……今日も、何も起きなかったね」 その声には、少しだけ残念そうな響きがあった。 ヒェロニミアは屋上の縁に腰を下ろし、肘を膝に置いた。夕日を背にしているせいで、その表情は半分以上が影に沈んでいる。 「平穏を嘆くとは、妙な英雄だな」 「嘆いてないよ。平和なのは良いことだもの」 「ならば、なぜ不満そうな顔をする」 「不満じゃない。……ただ、ヒーローには出番が必要だから」 魔緒は胸の前で拳を握った。 「誰かが困っていたら、すぐに駆けつけて、颯爽と助けて、最後にはみんなに笑顔で言うの。『もう大丈夫』って」 「くだらぬ」 「くだらなくないよ!」 即座に返してから、魔緒は少しだけ頬を膨らませた。 「ヒーローは、誰かの不安を終わらせる存在なんだから。たとえ小さなことでも、誰かが安心できるなら、それは立派な活躍だよ」 「フン。小さな親切を誇るか。ずいぶんと慎ましい王だな」 「王じゃなくて、ヒーロー!」 「同じ身体で、同じ顔で、同じ力を持ちながら、よくもまあ別の存在を気取れるものだ」 その言葉に、魔緒の表情がわずかに曇った。 風のない屋上で、二人の髪だけが静かに揺れたように見えた。 「……私は、あなたとは違う」 「ほう」 「私は、闇を使う。でも、闇そのものになりたいわけじゃない。誰かを怖がらせたいわけでも、全部を壊したいわけでもない」 「では、なぜ闇を使う」 魔緒はすぐには答えなかった。 自分の手のひらを見つめる。そこに宿る力は、明るく輝くものではない。人々が恐れる黒。近づけば飲み込まれそうな、底の見えない夜。 「……明るいものだけじゃ、届かない場所があるから」 ヒェロニミアの瞳が細くなった。 「届かない場所?」 「誰にも見つけてもらえない悲しみとか、声にできない怒りとか。そういうものは、光の下に置かれると、かえって隠れてしまうことがある。だったら私は、闇の中に入っていく」 魔緒は顔を上げた。 「その人が抱えている闇より、もっと深い闇を持って。全部を覆って、怖くないようにする。私の闇で、その人の闇を塗りつぶすの」 「それを救いと呼ぶか」 「私は、そう信じてる」 「愚かだな」 ヒェロニミアは冷たく言い放った。しかし、いつものような嘲笑はなかった。 「闇は闇を食らう。深い闇を差し出せば、相手の闇だけでなく、相手の心そのものまで喰らうことになる。貴様はそれを理解しているのか」 「理解してるつもり」 「つもり、だと?」 「うん。私は、たぶん何度も間違える。助けたつもりで傷つけるかもしれない。守ったつもりで、相手の選択肢を奪うかもしれない」 魔緒は視線を逸らし、校庭の隅にある小さな花壇を見た。 「でも、間違えるのが怖いからって、何もしないのは違うと思う」 「その結果、貴様自身が喰われてもか」 「……それでも」 短い言葉だった。 だが、その声には揺らぎがなかった。 「それでも私は、ヒーローでいたい」 ヒェロニミアは黙った。 夕日がさらに低くなり、屋上の床に二人の影が長く伸びた。二つの影は途中で重なり、どちらがどちらなのか分からなくなっている。 「ヒーロー、ヒーローと……飽きぬ奴だ」 「だって大事なことだもの」 「貴様は、すでに知っているはずだ。貴様の内側にいるものが何なのか。何を望み、何を喰らい、何を塗り潰す存在なのか」 魔緒の指先がぴくりと動いた。 「……私こそ、闇の魔王だってこと?」 「そうだ。貴様の正体は英雄ではない。天の理に背き、すべてを黒く染める王。オレこそが、その真実だ」 ヒェロニミアは立ち上がった。 「英雄を名乗るなど、滑稽な自己欺瞞に過ぎぬ。王が民に媚びる必要はない。救いを求める者がいれば跪かせ、迷う者がいれば選択ごと奪えばよい。そうすれば、苦しみも迷いも消える」 「それは、消えたんじゃなくて、見えなくしただけだよ」 「見えなければ、存在しないのと同じだ」 「違う」 魔緒はヒェロニミアをまっすぐ見つめた。 「見えないものほど、ちゃんとそこにある。誰にも見えなくても、苦しいものは苦しい。怖いものは怖い。だから私は、無理に消すんじゃなくて、隣に立ちたい」 「隣に立つ?」 「うん。私が全部解決できなくても、ひとりじゃないって思ってもらえるなら、それでいい」 「それでは遅い。弱い。脆い」 「そうかもしれないね」 魔緒は少し笑った。 「でも、私はそういうヒーローになりたい」 ヒェロニミアは、その笑顔を見た。 無謀で、非効率で、あまりに甘い。魔王から見れば、愚かさの見本のような在り方だった。 それなのに、不快ではなかった。 むしろ、胸の奥に説明しがたいざわめきが生まれている。自分ならば切り捨てるものを、魔緒は拾おうとする。自分ならば塗り潰すものを、魔緒は見つめようとする。 「……貴様は、オレを恐れぬのか」 「怖いよ」 「ほう」 「あなたは、私の中にいる。私が知らないことまで知っていて、私ができないことまで簡単にできる。たぶん、私よりずっと強い」 「ならば、なぜ平然としていられる」 「平然としてないよ。すごく怖い。でも、怖いからって目を逸らしたら、あなたの思うままになっちゃう」 魔緒は一歩、ヒェロニミアへ近づいた。 「私はあなたを倒したいわけじゃない」 「何?」 「あなたも、私の一部だから」 ヒェロニミアの顔から、ほんのわずかに表情が消えた。 「ふざけるな」 「ふざけてない」 「オレは魔王だ。貴様が掲げる薄っぺらい正義など、とうに捨てた存在だ」 「それでも、あなたがいるから私は闇を知ってる。あなたがいるから、闇に苦しむ人のことを想像できる。だから、あなたをなかったことにはできない」 魔緒は手を差し出した。 「一緒にいてよ、ヒェロニミア」 「命令か」 「お願い」 「オレに、何をしろと」 「私が道を間違えそうになったら、教えて。力に頼りすぎそうになったら、止めて。あなたの言い方は怖いし、すぐ跪けって言うけど……それでも、あなたにしか見えないものがあるんでしょう?」 ヒェロニミアは差し出された手を見下ろした。 「オレを利用するつもりか」 「うん。たぶん、そうかも」 「正直だな」 「でも、私も利用されるかもしれない。お互い様だよ」 しばらくの沈黙が落ちた。 やがて、ヒェロニミアは鼻で笑った。 「貴様は本当に、英雄らしくない」 「えっ」 「理想ばかり語るくせに、オレのような存在まで隣に置こうとする。誰も彼も救おうとするには、あまりに貪欲だ」 「それ、褒めてる?」 「好きに解釈しろ」 ヒェロニミアは手を伸ばさなかった。しかし、魔緒の手を拒むこともしなかった。 魔緒はそれだけで満足したように笑う。 「じゃあ、今日のところは引き分けだね」 「何がだ」 「私がヒーローでいたいっていう気持ちと、あなたが魔王でいたいっていう気持ち。どっちも消えなかったから」 「勝負をしていた覚えはない」 「でも、いつか決める日が来るかもしれないよ。私が本当にヒーローでいられるのか、それともあなたに全部飲み込まれるのか」 「その時は、オレが勝つ」 「その時は、私が負けない」 互いの視線が交わる。 同じ顔。同じ声。同じ身体。 それでも二人は、決して同じではなかった。 魔緒は、闇を抱えたまま誰かの隣に立とうとする。 ヒェロニミアは、闇によってすべてを支配しようとする。 相反する二つの意志は、ひとつの身体の中で、今日も静かに向かい合っていた。 「……そろそろ帰ろうか」 魔緒が言った。 「貴様ひとりで帰れ」 「一緒に帰ろうよ」 「断る」 「でも、私の中にいるんでしょう?」 「だからといって歩調まで合わせる義理はない」 「じゃあ、私があなたに合わせる」 「勝手にしろ」 魔緒は嬉しそうに笑い、屋上の扉へ向かった。 ヒェロニミアはその背を見ながら、ほんの少しだけ目を細める。 夕暮れは終わり、街には夜が近づいていた。 闇は広がっていく。だが、それは必ずしも恐ろしいものではない。誰かがその中で立ち止まり、誰かがその隣に立つなら、夜はただの夜でいられる。 扉の前で、魔緒が振り返った。 「ヒェロニミア」 「何だ」 「今日も、私を見ていてね」 「監視してやる。貴様が愚かな真似をしないようにな」 「うん。それでいいよ」 魔緒は満足げに頷き、扉の向こうへ消えていった。 ひとり残されたヒェロニミアは、沈みゆく空を見上げる。 「……愚かな奴だ」 吐き捨てるような言葉だった。 しかし、その声にはかすかな温度があった。 魔緒にとって、ヒェロニミアは恐ろしくも頼れる、決して切り離せない影だった。闇を知るために必要な存在であり、間違いを指摘してくれる、厄介で不器用な同居人でもある。 一方、ヒェロニミアにとって魔緒は、弱く、甘く、愚かで、どうしようもなく無謀な少女だった。 それでも、その愚かさを完全に否定することはできない。すべてを塗り潰すはずの自分が、彼女の掲げる小さな理想を、まだ消さずにいるのだから。 魔緒は、ヒェロニミアを「恐ろしいけれど、誰よりも真実を知る存在」だと思っている。 ヒェロニミアは、魔緒を「愚かで弱いくせに、決して折れない、理解しがたい存在」だと思っている。 そして二人は、互いをそう思いながらも、同じ夜の中を進んでいく。 英雄でありたい少女と、魔王である少女。 その歩みがどこへ至るのか、まだ誰にも分からない。 ただひとつ確かなのは、闇の中で、二人の影が決して離れないということだけだった。