夕暮れの街道には、黄金色の光が静かに降り積もっていた。 街道の脇には、見慣れない小さな町がある。白い壁の家々、赤い屋根、風に揺れる花の鉢。広場の中央には噴水があり、その周囲では子どもたちが笑い声を上げていた。 その広場へ、ひとりの少女とひとつのキャリーケースが歩いてくる。 星神愛音は、肩にかかった髪を揺らしながら、町の景色を興味深そうに眺めていた。隣では、黒い取っ手を伸ばしたキャリーケースが、ころころと車輪を鳴らしている。 「へえ、ずいぶん賑やかな町ね! 今日はここに泊まろうかしら」 「おお、それは名案ですぞ、愛音様。我も久々に柔らかな寝台で休めそうですな。何しろ旅の途中では、愛音様に椅子代わりにされることもしばしば――」 「だってキャリーくん、ちょうどいい高さなんだもの」 「我は椅子ではありませんぞw しかし、愛音様が我を必要としてくださるなら、甘んじて腰掛けられましょう。むしろ膝を――」 「はいはい、変なことを言わないの」 愛音はキャリーケースの取っ手を軽く叩いた。 「痛いですぞ! もっと雑に、とは言いましたが、そこまで露骨に扱われるとは――実に素晴らしい!」 「喜ぶところじゃないでしょ、それ」 呆れたように言いながらも、愛音の顔には笑みが浮かんでいた。 広場へ入ると、町の人々が二人を振り返った。旅人の少女と、奇妙なキャリーケース。珍しい組み合わせなのだろう。愛音は気にする様子もなく、広場の端にある屋台へと向かった。 「すみませーん! この町で一番おすすめのお菓子、ください!」 屋台の店主は、焼きたての薄い菓子に蜂蜜をかけて手渡してくれた。愛音は目を輝かせ、すぐに一口かじる。 「んー! 甘くておいしい! キャリーくんも食べる?」 「我は食事を必要としませんが、愛音様が口元まで運んでくださるのであれば――」 「自分で食べて」 「我、ケースですぞw」 「じゃあ食べなくていいわね」 愛音は自分の分をもう一口かじった。キャリーくんは残念そうに車輪をきゅ、と鳴らした。 そのとき、広場の入り口から、ひとりの少女が姿を現した。 赤みを帯びた髪。鋭い目つき。堂々とした足取り。その身から滲み出る雰囲気は、町の明るい空気とはまるで異なっている。 彼女は人々の間をまっすぐに進み、愛音の前で足を止めた。 「……見つけたぞ」 声は低く、冷たい。 愛音は菓子を持ったまま、首を傾げた。 「あら、誰かと思えば魔緒じゃない。こんなところで会うなんて、奇遇ね!」 「奇遇だと? オレは貴様を追ってきた」 「追ってきたって、わざわざ?」 「そうだ。貴様に言うことがある」 魔緒――いや、真魔王ヒェロニミアは、愛音を見下ろすように目を細めた。 「かつて封じられた創神が、随分と呑気な旅をしているものだな。菓子を食い、町を眺め、くだらぬ従者と戯れる。貴様の威厳とやらは、どこへ消えた?」 愛音は手にした菓子を見つめ、それから楽しそうに笑った。 「威厳? そんなものより、おいしいものや面白い景色のほうが大事じゃない?」 「……相変わらず、理解し難いな」 「そう? あたしは分かりやすいと思うけど。楽しいことは楽しい。嫌なことは嫌。おいしいものはおいしい。それだけよ」 「凡弱な価値観だ」 「でも、魔緒もあたしに会いに来たんでしょ?」 その言葉に、ヒェロニミアの眉がわずかに動いた。 「オレが貴様を屈服させるためだ」 「ふうん。でも、会いに来たことには変わりないわね」 「言葉遊びをするな」 「だって、せっかく会えたんだもの。まずはお茶でもどう?」 「オレに馴れ馴れしくするな」 「はい、じゃあお茶はなしね」 あまりにもあっさり引き下がられ、ヒェロニミアは一瞬言葉を失った。 その隙に、キャリーくんが愛音の横から口を挟む。 「おやおや、これはこれは。愛音様に対して随分と冷たい態度ですな。しかし、我には分かりますぞ。真魔王殿は本当は愛音様とゆっくり語らいたいのでしょう?」 「黙れ、鞄」 「鞄ではなく、愛音様の忠実なる執事ですぞw それにしても、実に良い目つきですな。睨まれると我の中身が震え――」 「キャリーくん、そこまで」 愛音が取っ手を掴み、少しだけ後ろへ引いた。 「愛音様、我を庇ってくださるのですか? なんとお優しい――」 「魔緒に絡むと面倒だからよ」 「理由が辛辣ですぞ!」 ヒェロニミアは、二人のやり取りを冷たい目で見つめていた。だが、すぐに町の様子へ視線を移す。 「……この町の者たちは、貴様を恐れていないのか」 「恐がらせる必要がないもの。みんな普通に暮らしてるだけだし」 「貴様はこの世界を創った。ならば、全ての者が貴様を崇めるよう仕向けることもできるだろう」 「できるわね」 愛音は即答した。 「でも、そんなのつまらないじゃない。誰かに命令して好きにさせるより、自分で考えて、笑ったり怒ったりしてるほうがずっと面白いもの」 「創造主が、創造したものに自由を与えるというのか」 「うん。だって、あたしが作った世界だからこそ、あたしの思い通りじゃないものが見たいのよ」 ヒェロニミアは黙った。 広場では、子どもが転び、すぐに立ち上がっていた。母親が駆け寄り、服についた砂を払う。噴水のそばでは老人が鳩に餌を撒き、店主は客と笑い合っている。 完璧ではない。整然ともしていない。けれど、確かにそこには、それぞれの意思で営まれる日々があった。 「……甘いな、貴様は」 「よく言われるわ。お菓子も甘いけど、あたし自身も甘いのよね」 「自覚があるのか」 「もちろん! あたしってば、凄すぎるし可愛すぎるし、そのうえ自分のこともよく分かってるのよ!」 「最後の部分だけは疑わしいですぞ」 キャリーくんが小さく呟いた。 「キャリーくん、今なにか言った?」 「いえいえ、我は何も。愛音様は実に素晴らしく、可愛らしく、そして時に雑で――」 「後半は聞こえてるわよ」 愛音はキャリーくんを持ち上げ、くるりと半回転させた。 「おおっ、視界が回りますぞ! 実に刺激的ですな!」 「反省しなさい」 「喜んでおりますぞ!」 ヒェロニミアはそんな二人を見て、深く息を吐いた。 「……貴様は、以前からそうだったな。己が絶対的な存在であるにもかかわらず、他者と同じ目線に立とうとする」 「そうしないと、旅がつまらないもの」 「旅、か」 ヒェロニミアはその言葉を、確かめるように呟いた。 「オレは奪い、喰らい、塗り潰すことでしか前へ進まなかった。貴様は、見て、触れて、知ることで進むというのか」 「そうね。世界って、知れば知るほど面白いもの。魔緒だって、そうやってここまで来たんじゃない?」 「オレは……」 言葉が途切れた。 かつて英雄を目指していた少女の記憶が、遠い場所から浮かび上がる。誰かを助けたいと願ったこと。強くなりたいと願ったこと。けれど、その願いはいつしか、勝つことや支配することへと姿を変えていた。 ヒェロニミアはそれを振り払うように顔を上げた。 「オレは魔王だ。弱さを抱えた過去など、とうに捨てた」 「捨てたなら、そんな顔はしないと思うけど」 「……黙れ」 「ごめん。でも、魔緒がどんなふうになってても、あたしは魔緒を魔緒として見てるわよ」 「同情か?」 「違うわ。あたしは、あたしの知ってる魔緒のことを言ってるだけ。昔の魔緒も、今の魔緒も、どっちも魔緒でしょ?」 ヒェロニミアは答えなかった。 やがて、広場の鐘が鳴った。夕食時を知らせる音だった。屋台の店主が店じまいを始め、町の人々がそれぞれの家へ戻っていく。 愛音は空を見上げた。 「ねえ、魔緒。宿を取るなら一緒に行く?」 「断る」 「即答ね」 「オレは貴様に屈服を迫るために来た。馴れ合うつもりはない」 「でも、今日はもう暗くなるわよ」 「夜など、オレにとっては昼と変わらぬ」 「じゃあ、あたしが泊まる宿の前で立ってれば?」 「なぜオレがそんなことをする」 「別に? ただ、魔緒がどこに行くのか気になっただけ」 愛音はにこりと笑った。 「それに、明日の朝には町の人が焼きたてのパンを売るみたいよ」 「……」 「魔緒、パン好き?」 「好きではない」 「そう。じゃあ、あたしが食べるわ」 「……待て」 愛音は足を止めた。 「なに?」 「……パンがどのようなものか、確認するだけだ」 「へえ」 「勘違いするな。貴様と行動を共にしたいわけではない」 「はいはい。じゃあ、パンを確認しに一緒に行きましょ」 「だから、馴れ合いではない!」 「分かってるってば」 愛音は楽しそうに笑い、キャリーくんを引いて歩き出した。 「さあ、宿探しよ! キャリーくん、中に何か宿泊券とか入ってないかしら?」 「お任せくださいませ! 我の内部には、旅に必要な品々が無限に――」 「変なものは出さないでよ」 「愛音様のお好みの寝間着なども――」 「それは絶対に出さないで」 「しかし、愛音様が望まれるなら、際ど――」 「キャリーくん!」 愛音の声が広場に響く。 その後ろを、ヒェロニミアが不機嫌そうについていく。 彼女は最後まで一定の距離を保ち、愛音に話しかけることもなかった。だが、愛音が曲がり角を間違えれば無言で正しい道を指し、キャリーくんが段差に引っかかれば、舌打ちしながらも持ち上げてやった。 「魔緒、優しいじゃない」 「黙れ。道を間違えられると迷惑なだけだ」 「キャリーくんを助けてくれたのも?」 「鞄が壊れると、貴様が騒ぐだろう」 「なるほど。じゃあ、やっぱり優しいのね」 「……凡弱な解釈だ」 それでも、ヒェロニミアの口元には、ほんのわずかな変化があった。 町の夜は静かだった。三人の影が、月明かりの道に並んで伸びている。 互いに歩み寄ったわけではない。決着がついたわけでもない。愛音は相変わらず軽やかで、ヒェロニミアは相変わらず冷酷だった。キャリーくんは相変わらず余計なことを言い、愛音に雑に扱われて喜んでいた。 けれど、その夜だけは、三人の歩調が不思議と揃っていた。 宿の前で、愛音は振り返った。 「じゃあ、明日の朝ね。パン、楽しみにしてるわ」 「オレは楽しみにしていない。確認するだけだ」 「分かってる分かってる」 「……貴様は、オレを軽く扱いすぎだ」 「魔緒が真面目すぎるのよ」 「凡弱どもが、跪け――と言っても、貴様は跪かぬのだろうな」 「だって、膝が汚れるもの」 ヒェロニミアはしばらく愛音を見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。 「……やはり、貴様は気に入らぬ」 「そう? あたしは魔緒のこと、結構気に入ってるわよ」 「オレはまだ、貴様を屈服させる」 「そのときは、そのときね」 愛音は宿の扉を開けた。 「おやすみ、魔緒。キャリーくんも、おやすみ」 「我は愛音様の寝室までお供を――」 「廊下で待機」 「承知しましたぞw」 扉が閉まる。 残されたヒェロニミアとキャリーくんは、しばらく無言で立っていた。 「……あの方は、実に遠慮がありませんな」 「貴様に言われたくはない」 「しかし、真魔王殿も満更ではなさそうですぞ」 「黙れ、鞄」 「では、印象を述べますかな?」 「誰が頼んだ」 「愛音様が最後に、お互いの印象を語るようにと目で仰っていた気がしますぞ」 「気のせいだ」 それでも、ヒェロニミアは宿の扉を見た。 「……星神愛音。あれは、強大すぎる。世界を創った者でありながら、世界に執着せず、己の力を誇示することもない。愚かで、無防備で、だが……妙に目を離せぬ女だ」 ヒェロニミアはそこで言葉を切り、低く付け足した。 「いずれ、必ず屈服させる。だが、それまでは……あのくだらぬ旅に付き合うのも悪くはない」 「おお、これはこれは。ずいぶんと素直になられましたな」 「貴様はどうなのだ」 「我ですか? 我にとって愛音様は、最高に麗しく、最高に偉大で、最高に雑に扱ってくださる、理想の主君ですぞw 時々、我を蹴飛ばしたり、椅子にしたり、無理やり振り回したりなさいますが、それもまた愛情の形。実に素晴らしい!」 「……病気だな」 「真魔王殿にだけは言われたくありませんぞ」 ヒェロニミアは、わずかに目を細めた。 「それと、貴様について言えば――」 「我について?」 「うるさく、下品で、くだらぬ。だが、愛音のそばにいる理由だけは理解できる」 「おや、褒め言葉ですかな?」 「好きに解釈しろ」 キャリーくんは満足そうに車輪を鳴らした。 「では、我からも。真魔王殿は、冷たく恐ろしく、実に近寄りがたいお方ですな。ですが、愛音様が道を間違えたときに助けてくださるあたり、根はお優しい。明日のパンを楽しみにしていることも、我は見逃しておりませんぞw」 「……貴様を黒く塗り潰すぞ」 「おお、照れておられる!」 「黙れ!」 夜の町に、ヒェロニミアの怒声と、キャリーくんの愉快そうな笑い声が響いた。 その声を宿の二階から聞きながら、愛音は窓辺で月を眺めていた。 「魔緒って、思ったより素直なのよね」 彼女は小さく笑い、ベッドの脇に置かれたキャリーケースへ声をかける。 「キャリーくん。明日の朝、パンをたくさん出せる?」 「もちろんですぞ。愛音様の分も、真魔王殿の分も、我の分も――」 「キャリーくんは食べないでしょ」 「気持ちは食べますぞw」 「あはは。じゃあ、明日も楽しくなりそうね」 窓の外では、ヒェロニミアがまだ何かを怒鳴り、キャリーくんがそれを面白がっている。 愛音は満足そうに目を閉じた。 創られた世界を巡る旅は、まだ始まったばかりだった。