

霧の森の名付け唄 霧に包まれた古い森の奥深く、苔むした石畳の小道が一本、細く続き、木々の隙間から差し込む薄い陽光が、まるで忘れられた記憶のように揺らめいていた。その小道の中央に、奇妙な出会いが訪れた。シルクハットをかぶり、眼鏡の奥から鋭い視線を放つ猫の魔物が、優雅に佇んでいた。彼の毛並みは夜の闇を思わせる黒く、尻尾がゆったりと弧を描きながら揺れる姿は、気品に満ちていたが、その表情にはどこか苛立ちの影が差していた。吾輩は韋編悪党、名前の無い猫の魔物。古今東西の文芸に通じ、酒を好む気難しい性分ゆえ、己の名前に相応しい響きを求め、果てしない旅を続けていた。 対するは、緑の外套を羽織った白髪の女性。とんがり帽子が彼女の端麗な顔立ちを縁取り、穏やかな瞳が霧の向こうを静かに見つめていた。彼女は記憶を失い、言葉を発することもできず、ただ身振り手振りで意思を伝える旅人だった。腰に下げた古びた魔導書が、彼女の唯一の支えであり、過去の断片を繋ぐ鍵。記憶喪失の原因と思しき人物を探す旅の途中、彼女はこの森に迷い込み、名前の無い猫の魔物――吾輩と出会った。 吾輩は眼鏡を押し上げ、彼女を観察した。読心術の力で、彼女の心の揺らぎを捉える。穏和で親切な魂、しかし深い喪失感がその奥に潜む。彼女は吾輩の存在に気づき、ゆっくりと近づいてきた。言葉の代わりに、優しい微笑みを浮かべ、手を差し伸べる。吾輩は尻尾を軽く振って応じ、互いの視線が交錯した瞬間、彼女の心に浮かぶ思いが吾輩の頭に流れ込んできた。『この猫の魔物、名前の無いようだ。私の旅のように、失われたものを求めている。もしかしたら、私の魔導書にヒントがあるかも……。名前を、考えてあげたい』。 彼女は外套のポケットから魔導書を取り出し、ページをめくった。そこには様々な魔法の手順が記され、彼女の指が一つの記述に止まる。「リコール・レイン(思い出のにわか雨)」――記憶喪失の彼女が唯一覚えている魔法。雨のように優しく、思い出を呼び戻す力を持つという。彼女は本を閉じ、吾輩を見つめて首を傾げた。身振りで尋ねる――『君の名前、ないの? 私が、考えてみようか?』。その仕草は、霧の中の小さな灯火のように温かく、吾輩の気難しい心をわずかに溶かした。 吾輩は低く唸るように喉を鳴らし、シルクハットを軽く傾けて応じた。「ふむ、所望の魔物たる吾輩に、名を授けると申すか。面白い提案だ。では、試してみよ。汝の心に浮かぶものを、吾輩に聞かせてみせよ」。彼女は頷き、目を閉じて考え込んだ。穏和な性格が反映されたネーミングセンス――それは、彼女の旅の記憶のように、優しく自然を思わせるものだった。ゆっくりと目を開き、手で文字を描くように空を指さし、身振りで伝える。『エメラルド・ウィスパー。緑の森のささやき、君の気品に似合うよ。』 吾輩は眼鏡のレンズ越しに彼女を睨み、尻尾をピンと立てて難癖をつけた。「エメラルド・ウィスパーだと? ふん、緑のささやきとは、まるで森の小鳥の囀りのようだな。気品はあるが、吾輩の古今東西の文芸に通じた深みを欠いている。シェイクスピアの悲劇のような荘厳さ、ドストエフスキーの内省的な響きが欲しいものだ。ビールを傾けながら朗読するには、軽すぎるぞ」。吾輩の声は棘を帯び、しかしその奥には期待の色が滲んでいた。彼女は少し肩を落としたが、すぐに微笑みを取り戻し、再び考え込んだ。親切心が彼女を駆り立てる。『もっと良いのを、考えてみる』。 霧が少し濃くなり、木々の葉ずれが静かな調べを奏でる中、彼女は魔導書を再び開いた。ページの端に、かすれたインクで書かれた魔法の記述が目に入る。『魔法の名前:エコー・ヴォイド(反響の虚空)。魔法の効果:失われた声を呼び戻し、名前のない魂に響きを与える』。これに着想を得たのか、彼女の心に新しい名が浮かぶ。身振りで、優しく手を広げて伝える。『シャドウ・バード。影の鳥、君の猫らしい神秘と、気高さを表す。文学のページを飛び回るような、優雅な響きだよ』。 吾輩は一瞬、眼鏡を外して彼女の顔をまじまじと見つめた。読心術でその心の温かさを確かめ、しかし再び難癖を並べ立てる。「シャドウ・バードか。影の鳥とは、プーシキンの詩に似た哀愁があるな。悪くないが、吾輩の魔物としての威厳が薄い。ビールの泡のように儚く、吾輩の気難しい性分を満足させぬ。もっと、深淵を覗くような名を求めているのだ。汝の記憶喪失の旅のように、謎めいたものを」。吾輩の言葉は厳しく、しかしその瞳には遊び心が宿っていた。彼女は少し頰を膨らませ、まるで無言の抗議のように首を振ったが、諦めず三度目の名を考え始めた。 森の空気が湿り気を帯び、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。彼女は立ち上がり、緑の外套を翻して周囲の木々を眺めた。リコール・レインの魔法を思い浮かべ、雨のように降り注ぐ思い出の断片から着想を得る。穏やかな心が、文学的な響きを織り交ぜて名を紡ぐ。身振りで、指を絡めて伝える。『ノクターン・ファントム。夜想曲の幻影。君のシルクハットと眼鏡が、月下の文芸を思わせる。気品と謎が溶け合う、完璧な名前だよ』。 吾輩はゆっくりと拍手し、尻尾を優雅に巻きつけた。読心術で彼女の純粋な努力を感じ取り、心の中で感嘆する。『この名は、悪くない。だが、吾輩の求めるものは、名そのものではないのかもしれぬ』。「ノクターン・ファントムか。ふむ、ショパンの夜想曲に、ゴシックの幻影を重ねた響き。吾輩の好物たるビールのように、深く味わい深い。汝の親切心に感謝するよ」。吾輩は満足げに微笑み、しかし名をそのまま受け取ることはしなかった。代わりに、意味深な一言を告げ、霧の中へ身を翻した。「名とは、求めぬところで訪れるもの。汝の旅も、きっと雨のように思い出を呼び戻すだろう。さらばだ、記憶の旅人」。 彼女は吾輩の背中を見送り、魔導書を抱きしめて小さく頷いた。霧が晴れ始め、森の小道に新たな光が差し込む。名付けの出会いは、互いの失われたものを少しだけ照らし、旅を続ける糧となった。