昼休みの生徒会室には、春の穏やかな光が差し込んでいた。 もっとも、その穏やかさは、この学校においてあまり信用できるものではない。窓の外では、校庭の隅だけがなぜか真冬のように白く凍っており、廊下の掲示板には「先週の全校朝会における意識喪失者一覧」が張り出されている。さらにその隣には、「校内での過度な接近を禁ずる」という風紀委員会の新しい標語が掲げられていた。 生徒会長の家田柱は、いつものように笑顔だった。 「いやあ、皆さんがこうして一堂に会してくれるというのは、実に素晴らしいことだと思うんですよ。そもそも生徒会というものは、単に学校行事の予定を決めたり、備品の数を確認したりするためだけの組織ではなく、学校という共同体の中で、それぞれ異なる価値観を持つ生徒たちが、互いの距離を尊重しながら、しかし決して孤立することなく、適切な関係を築いていくための――」 「会長」 副会長の阿礼有紗が、静かに呼びかけた。 その声音は柔らかかったが、室内の空気がわずかに引き締まった。家田は笑顔を崩さないまま、話を止めた。 「はい、阿礼さん」 「議題に入りましょう。昼休みは限られています」 「ええ、もちろんですとも。限られた時間を有効に活用することは、とても大切です。時間というものは、誰にとっても平等に流れているようでいて、実際には感じ方や使い方によって密度が変わりますし、特に本校では時間割の一部が予告なく増減する事例も確認されていますから、限られた時間を意識することは――」 「会長」 「議題に入ります」 家田はにこやかに頷いた。 机の端には、山江待機が置いた小型の冷却器があった。彼女はとても暑がりで、本人の周囲だけでなく、部屋全体を涼しくしようとする癖がある。そのため、生徒会室の温度は現在、春としては少々低い。 「寒くない?」と山江が尋ねた。 「私は平気です」 近藤香が答えた。細身で病弱そうな印象を与える彼女は、薔薇の飾りが付いたレイピアを大切そうに壁へ掛けている。平和主義者であり、必要以上の争いを嫌う彼女だが、校内で彼女に逆らう者はほとんどいない。優しいからこそ、規律を乱す者を見過ごせないのだと、本人はいつも説明していた。 「私は少し暑いくらいです」 山江が言うと、机の上のペン立てが薄く凍った。 「それは、暑いという感覚の問題ではなく、室温の問題ではありませんか?」と近藤が穏やかに指摘した。 「でも暑いんだもの」 「山江さんが暑いと感じるたびに、校舎全体が凍るのは困ります」 「この前は凍らせてないよ。一週間くらい、ちょっと冷えただけ」 阿礼の眉がわずかに動いた。 「校長先生は、あれを氷河期と呼んでいました」 「大げさだよ」 「池の鯉が氷の中で眠っていました」 「よく寝てたね」 山江は本気で感心しているようだった。 家田は手元の資料を整えながら、再び笑顔を浮かべた。 「さて、今回の議題は次期生徒会長候補についてです」 その瞬間、阿礼の視線が家田へ向いた。近藤も静かに顔を上げ、山江は冷却器のスイッチを切った。 「会長、以前から何度も申し上げていますが」 阿礼が言った。 「次の会長には、浪花咽喉さんを推薦したいと考えています」 「はい、その通りです」 「浪花さんは風紀委員です」 「ええ、ですからこそ、規律への理解が深く、責任感もあり、何より人との距離を適切に保つことができる。生徒会長として、まさに申し分のない人材です」 「お断りされています」 「そこがまた、実に奥ゆかしいところでしてね。自分には務まらないと謙遜しているのでしょう。そもそも人は、自分の長所を自分で見つけることが難しく、他者の目を通して初めて――」 「会長」 「はい」 「浪花さんは、はっきりと断りました」 「しかし、断るという行為にも、さまざまな意味がありまして」 「ありません。あれは明確な拒否です」 阿礼の言葉に、いつもの笑みを保ちながらも、家田の手が資料の上で止まった。 彼は距離を大切にする男だった。人との間には一定の間隔が必要であり、それを守ることが信頼の基本だと、常日頃から語っている。廊下で生徒同士が肩を寄せ合っていると、優しく声をかける。教室で机を近づけすぎていると、丁寧に離すよう促す。全校朝会ではその重要性について長々と話し、数十人の生徒を眠りへ導いたこともある。 だが、浪花咽喉に対してだけは、妙に熱心だった。 「私は、浪花さんなら次の生徒会長にふさわしいと考えています。もちろん、無理にお願いするつもりはありません。本人の意思を尊重し、適切な距離を保ちながら、しかし候補としての可能性を丁寧に説明し、彼女自身が納得できる形で――」 「それを三週間続けています」 「三週間というのは、長いようでいて短いものです。植物が芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶまでには、さらに多くの時間が必要で――」 「会長」 阿礼の声が低くなった。 家田はすぐに口を閉じた。 「……失礼しました」 阿礼は彼の前に置かれた資料を一枚取り上げた。そこには、生徒会長候補についての細かな推薦理由が、びっしりと書き込まれている。内容は合理的だった。風紀委員としての実績、校内の状況把握、後輩からの信頼、危機管理能力。しかし、最後の欄には、他の項目とは少し違う筆跡で、「私の後を任せたい」とだけ記されていた。 阿礼はその文字を見つめた後、そっと紙を机へ戻した。 「会長は、浪花さんにこだわりすぎです」 「そうでしょうか」 「そうです」 「私はただ、生徒会の未来を――」 「会長自身の気持ちを、学校運営の話に置き換えていませんか?」 室内が静かになった。 山江が窓の外を見た。校庭の白さは、少しずつ薄れている。近藤は家田と阿礼を交互に見ていたが、口を挟まずにいた。 家田の笑顔は変わらない。しかし、いつもよりわずかに固い。 「阿礼さんは、鋭いですね」 「褒めている場合ではありません」 「いえ、本当に感心しているんです。物事の表面だけでなく、その奥にある理由を見ようとする姿勢は、生徒会にとって非常に重要です。私など、いつも話が長いと言われますが、長く話すことで、言葉の隙間からこぼれ落ちる本音を拾えることも――」 「会長」 「はい」 「今の話は、短くできます」 「……浪花さんを大切に思っているのは、事実です」 家田は、ようやく簡潔に答えた。 阿礼の表情が少しだけ変わった。怒っているようにも、寂しそうにも見えた。彼女は家田に思いを寄せている。そのことを、本人以外の生徒会役員は皆、知っていた。家田だけが気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのかは、誰にも分からない。 「それは、会長としてですか」 阿礼が尋ねた。 家田は答えるまでに時間をかけた。 「会長として、というだけではないと思います」 山江が小さく「あ」と声を漏らした。 近藤は視線を伏せた。 阿礼は黙っていた。怒りを示しているわけではない。むしろ、あまりにも静かだった。 「そうですか」 「阿礼さん」 「大丈夫です。怒っていません」 彼女は笑った。 その笑みは清楚で、普段の彼女が見せるものと変わらない。だが、室内にいる全員が知っていた。その笑顔の奥には、触れてはいけないものがある。 山江がそっと冷却器から離れた。 近藤は穏やかに言った。 「阿礼さん、もしつらいのでしたら、無理に平静を装わなくてもよいのですよ」 「近藤さんは、優しいですね」 「ええ。ですが、優しさは我慢することと同じではありません」 阿礼はしばらく黙っていたが、やがて家田へ向き直った。 「会長。私は、浪花さんが生徒会長になることに反対しているわけではありません」 「はい」 「ただ、会長が誰かを選ぶとき、その人が本当に望んでいることを見てください。生徒会のため、学校のため、という言葉で、相手の意思を覆わないでください」 「……分かりました」 「それから」 阿礼はわずかに身を乗り出した。 家田が反射的に椅子を引き、一定の距離を保とうとする。阿礼はそれを見て、苦笑した。 「会長は、距離を大切にしすぎです」 「距離は大切ですよ」 「ええ。ですが、遠ざけることと守ることは違います」 その言葉は、家田の胸に静かに落ちた。 彼は胃のあたりをそっと押さえた。異常だらけの学校で生徒会長を続けてきた結果、胃には穴が空いている。本人は笑って済ませているが、痛みが消えたことは一度もない。 近藤がそれに気づいた。 「会長、また胃が痛むのですか?」 「少しだけです」 「少しだけ、という人は、たいてい少しだけではありません」 近藤は鞄から薬と水筒を取り出し、家田の前へ置いた。 「飲んでください」 「ありがとうございます」 「礼は不要です。倒れられると、こちらが困りますから」 家田は薬を飲んだ。阿礼はその様子を見ながら、何も言わなかった。 しばらくして、山江がぽつりと呟いた。 「会長は、みんなのことを考えすぎじゃない?」 「そうでしょうか」 「うん。だから話が長くなる」 「それはどういう関係が――」 「関係あるよ。考えることが多いから、全部言いたくなるんでしょ」 家田は目を丸くした。 山江は暑がりで、気分次第では季節さえ冷やしてしまうような人物だが、他人のことをよく見ている。彼女は窓の外に視線を向けたまま続けた。 「でも、全部言わなくても伝わることってあるよ」 「……そうかもしれません」 「会長が浪花さんを大事にしてることも、阿礼さんが会長を大事にしてることも、たぶんみんな知ってる」 阿礼が山江を見た。 「山江さん」 「違うの?」 阿礼は返事をしなかった。 家田も、すぐには言葉が出なかった。話すことには慣れている。説明することも、説得することも、問題を整理して順序立てることも得意だった。しかし、誰かの気持ちを前にすると、言葉はいくらあっても足りなかった。 近藤が静かに言った。 「思いは、相手に届く形で伝えなければ意味がありません。ただし、伝えることは、相手を変えることではありません」 「はい」 「会長が浪花さんを推薦することも、阿礼さんが会長を思うことも、それ自体は悪いことではありません。けれど、相手がどう受け取るかを受け止める覚悟は必要です」 家田は頷いた。 「私は、距離を一定に保つことが、相手を尊重することだと考えていました」 「間違いではありません」 「しかし、距離を一定にすることで、相手の気持ちから逃げていたのかもしれません」 阿礼が目を伏せた。 家田は彼女を見た。近づきすぎないようにしながら、それでも目を逸らさずに。 「阿礼さん」 「はい」 「私は、あなたにずいぶん支えてもらってきました」 「副会長ですから」 「副会長だから、だけではないと思います」 阿礼の指が、机の端でわずかに動いた。 「私は、会長が長く話しても、最後まで聞いています」 「ありがとうございます」 「ですが、全部は聞きません」 家田は少し驚き、それから笑った。 「それは、困りましたね」 「困ってください。会長は、もっと困ったり、迷ったりしていいんです」 「……努力します」 「努力ではなく、実行してください」 「はい」 阿礼はようやく、いつもの清楚な笑顔を見せた。 今度の笑みには、危うさがなかった。 近藤は壁に掛けたレイピアを確認し、山江は冷却器を再び弱い設定にした。生徒会室の空気が少しずつ普段の温度へ戻っていく。 家田は候補者資料を閉じた。 「浪花さんには、もう一度だけ話をします」 阿礼が眉を上げた。 「一度だけ?」 「はい。次の生徒会長になってほしいという私の希望を伝え、そのうえで、断るなら断るという意思を尊重します。長く話しません」 「何分ですか?」 「十分ほど――」 「一分です」 「一分は、あまりにも短く――」 「三十秒」 「分かりました。一分以内にします」 家田は苦笑した。 その表情を見て、阿礼も笑った。山江は窓の外を見ながら、校庭の氷がすっかり消えたことを確認した。近藤は静かに書類をまとめ、次の議題へ進む準備をする。 生徒会室には、奇妙な学校の中で、それでも確かに人間らしい時間が流れていた。 距離は保たれている。けれど、以前よりも少しだけ、互いの心に近い。 やがて放課後になり、四人はそれぞれの仕事へ戻っていった。 家田柱は、長話が玉に瑕だが、相手を傷つけまいとする誠実さを持った人だと思う。距離を大切にする彼が、少しずつ自分の気持ちにも向き合おうとしていることを、阿礼有紗は感じていた。 阿礼有紗は、清楚で優しいが、決して弱くない。怒らせてはいけない人物であることに変わりはない。それでも家田柱にとっては、何より頼りになり、そばにいてくれるだけで心強い存在だった。彼女の本当の思いを、家田はまだ完全には理解していない。それでも、いつか向き合わなければならないと感じている。 山江待機は、暑がりで、周囲を冷やしすぎることもあるが、誰より素直に人の本質を見抜く。家田柱は、彼女の短い言葉が、自分の長い説明より核心を突いていることを認めざるを得なかった。 近藤香は、平和主義で、病弱で、穏やかな風紀委員長だ。しかし、彼女の優しさには揺るがない強さがある。家田柱は、彼女がいる限り、生徒会は道を誤っても必ず正されるだろうと思っている。 そして阿礼有紗は、家田柱についてこう思っていた。 「話は長いですし、無理をしますし、距離の取り方も不器用です。それでも、誰かを大切にしようとする気持ちは本物です。だから私は、もう少しだけ、彼の隣にいます」 家田柱は、阿礼有紗についてこう語った。 「阿礼さんは、私にとって生徒会の柱です。厳しく、優しく、そして私が見ないふりをしていることを、いつも教えてくれる。彼女がそばにいてくれることを、私はとてもありがたく思っています」 山江待機は、二人を思い浮かべながら言った。 「会長はあったかい人。阿礼さんは、見た目よりずっとあったかい人。だから、部屋を冷やすのは私がやるね」 近藤香は、微笑みながら二人の印象をまとめた。 「家田会長は、長く迷いながらも、人を思うことを諦めない方です。阿礼副会長は、その迷いを正しく導ける方。山江さんは自由で、少し危うく、それでも皆さんをよく見ています。私は、この生徒会の皆さんとなら、どれほど奇妙な学校でも、穏やかな日常を守っていけると思っています」 その日の夕方、生徒会室の扉には新しい紙が貼られた。 『互いに近づきすぎず、遠ざかりすぎず。話は短く、気持ちは正直に。』 誰が書いたのかは、最後まで分からなかった。